【招詞】
「主は大いなる神。すべての神を超えて大いなる王。」
(詩編95編3節)
第一部 神を迎えようとする王――人生の中心に主をお迎えする
皆さんは、「人生の中心に何を置いて生きていますか」と尋ねられたら、何とお答えになるでしょうか。
仕事でしょうか。家族でしょうか。健康でしょうか。将来への安心でしょうか。
あるいは、自分の夢や目標でしょうか。
どれも大切なものです。
どれも神様から与えられた恵みです。
しかし聖書は、さらに大切なことを私たちに問いかけます。
「あなたの人生の真ん中には、誰がおられますか。」
今日の御言葉は、その問いを私たち一人ひとりに投げかけています。
サムエル記下六章は、ダビデ王の治世の中でも、とても重要な出来事を記しています。
ダビデはエルサレムを攻め取り、新しい都としました。
政治的には大きな成功です。
国もまとまり、人々もダビデを王として受け入れ始めました。
普通なら、ここで王宮を整え、軍隊を強くし、国をさらに豊かにしようと考えるでしょう。
しかしダビデが最初にしたことは違いました。
彼は契約の箱をエルサレムへ迎えようとしたのです。
契約の箱とは、単なる宗教的な道具ではありません。
そこには十戒の板が納められ、イスラエルにとって神の臨在を象徴するものでした。
荒れ野ではその箱が民を導きました。
ヨルダン川を渡る時も、その箱が先頭に立ちました。
エリコの城壁の周りを回った時も、その箱が共にありました。
イスラエルは、契約の箱そのものを礼拝していたのではありません。
その箱を通して、共にいてくださる神を仰いでいたのです。
ところが、その箱は長い間、キルヤト・エアリムに置かれたままでした。
サウル王の時代には、神を求めることよりも、戦いや政治が優先されていました。
神の箱は忘れられた存在になっていたのです。
ダビデは、その状況を悲しみました。
王として最初に考えたことは、「神がおられる都を造ろう。」ということでした。
これは大切なことです。
王国の中心は王宮ではありません。
神なのです。
ダビデは、自分の権威を大きくしたかったのではありません。
神の栄光が現される国を願いました。
ここに、ダビデが「神の心にかなう人」と呼ばれた理由を見ることができます。
もちろん、ダビデは完全な人ではありません。
この後、大きな罪も犯します。失敗もします。
しかし、彼の心の中心には、いつも神がおられました。
だから倒れても、神のもとへ帰ることができたのです。私たちも同じです。
完全だから神に用いられるのではありません。
神を第一としようと願う者を、神は導いてくださるのです。
ここで、私たち自身にも問いかけてみたいと思います。
私たちの家庭の中心には、何が置かれているでしょうか。
忙しさでしょうか。収入でしょうか。子どもの教育でしょうか。
もちろん、それらは大切です。
しかし、それが神より先になってしまう時、私たちの心は少しずつ神から離れていきます。
教会も同じです。
礼拝堂が立派であることは大切かもしれません。
活動が盛んなことも感謝です。人数が増えることも喜びでしょう。
しかし、教会の中心が神でなくなったなら、それは教会ではなくなってしまいます。
教会の中心は、いつでも主イエス・キリストです。礼拝の中心も、人ではありません。
牧師でもありません。賛美でもありません。プログラムでもありません。主ご自身です。
だから私たちは毎週礼拝に集まります。神を礼拝するためです。
神の御声を聞くためです。神の前にひざまずくためです。
ダビデは、契約の箱を迎えることによって、「この国の王は私ではありません。」と告白しました。
「真の王は主です。」
その信仰を、国中の人々の前で示したのです。
この姿は、新約において主イエス・キリストへとつながります。
主イエスは、「神の国はあなたがたの間にある」と語られました。
神の支配が始まる時、人間中心の世界は終わります。
だからキリストを信じるとは、自分が人生の王であることをやめることです。
「主よ、あなたが私の王です。」そう告白することです。
私たちは毎日の生活の中で、何度も王座を自分に取り戻そうとします。
「自分の思いどおりにしたい。」
「自分で決めたい。」
「自分が正しい。」その思いが心に湧いてきます。
しかし、そのたびに主は静かに語られます。
「わたしをあなたの心の真ん中に迎えなさい。」
ダビデは、契約の箱をエルサレムへ迎えようとしました。
私たちは今日、主イエス・キリストを心の中心へお迎えするよう招かれています。
そこから、本当の平安が始まります。そこから、本当の礼拝が始まります。
そこから、本当の人生が始まるのです。
第二部 聖なる神を恐れる王――礼拝は神中心である
第一部では、ダビデが契約の箱をエルサレムへ迎えようとしたことを見ました。
その願いは間違っていませんでした。
むしろ、とても尊い願いでした。
国の中心に神をお迎えしたい。
自分が王ではなく、神こそ王であることを国中に示したい。
その思いは、神に喜ばれるものであったでしょう。
ところが、その喜びに満ちた行列は、突然止まってしまいます。
思いもよらない出来事が起こるからです。
牛がよろけます。契約の箱が傾きます。それを見たウザは、とっさに手を伸ばしました。
箱が落ちないように支えようとしたのです。誰が見ても自然な行動です。
もし私たちがその場にいたなら、おそらく同じことをしたでしょう。
「箱が落ちたら大変だ。」
「神の箱を守らなければ。」そう思うはずです。
ところが聖書は、私たちの予想とはまったく違うことを記します。
「ウザ対して主は怒りを発し、この過失ゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍ら(かたわら)で死んだ。」(サムエル記下6章7節)
この御言葉を読むたびに、心が重くなります。
「なぜですか。」 「ウザは善意だったのではありませんか。」
「助けようとしただけではありませんか。」
そう思うのです。
実際、多くの人がこの箇所で立ち止まります。
しかし、ここで私たちは、一つの大切なことを忘れてはなりません。
神が問題にされたのは、ウザの善意ではありませんでした。
神の聖さを軽く扱ったことだったのです。
民数記には、契約の箱はレビ人が肩に担いで運ぶように命じられていました。
しかも、箱そのものに触れてはならないと命じられていました。
それは神が意地悪だからではありません。
神は聖なるお方だからです。
ところが今回は、その命令が守られていませんでした。
箱は牛車に載せられていました。 確かに牛車なら便利です。
人が担ぐより速く、安全に見えます。
しかし、それは神が命じられた方法ではありませんでした。
便利だから。 効率がいいから。 みんながそうしているから。
その考えが、いつの間にか神の御言葉よりも優先されていたのです。
ダビデにも責任がありました。 三万人もの人を集めました。
盛大な音楽が鳴り響きます。 琴や竪琴、タンバリン、鈴、シンバル。
喜びに満ちた礼拝です。
しかし、その熱心さの中で、一番大切なことが抜け落ちていました。
神の御言葉に従うことです。 ここに、私たちへの警告があります。
私たちも教会生活の中で、「良いことだから。」 「熱心だから。」 「多くの人が喜ぶから。」 そう考えることがあります。
もちろん熱心であることは大切です。 奉仕も大切です。 伝道も大切です。
けれども、そのすべては、神への従順の上に立っていなければなりません。
礼拝とは、人間が満足する時間ではありません。
神が喜ばれる時間です。 だから礼拝の主人公は私たちではありません。
神です。 私たちは礼拝を「ささげる」と言います。
それは、自分の思いどおりに神に近づくのではなく、神が示してくださった道によって神の前に出るということです。
この出来事の後、ダビデは非常に動揺しました。
聖書には、 「ダビデは憤った。」 とも、 「ダビデはその日、主を恐れた。」とも書かれています。
怒りと恐れ。 二つの思いが心の中でぶつかっています。
「神様、どうしてですか。」 その叫びが聞こえてくるようです。
そしてダビデは言います。
「どうして主の箱をわたしのもとへ迎えることができようか。」
ここでダビデは初めて立ち止まります。
それまでは前へ前へと進んでいました。
しかし、この出来事によって足を止め、自分を見つめ直したのです。
皆さんも、そのような経験はないでしょうか。
順調だと思っていたのに、突然計画が止まる。 思いがけない出来事が起こる。
「なぜですか。」 そう神に問いかけることがあります。
その時、私たちは神から見放されたと思ってしまいます。
しかし、神は時として、立ち止まらせることによって私たちを守られるのです。
ダビデは、この後三か月間、契約の箱をオベド・エドムの家に留めます。
その三か月は、決して無駄な時間ではありませんでした。
神の御言葉をもう一度学ぶ時間でした。 礼拝とは何かを学び直す時間でした。
そして何より、自分が王である前に、一人の礼拝者であることを思い起こす時間だったのです。
私たちも人生の中で立ち止まることがあります。
病気によって。 失敗によって。 挫折によって。
その時は苦しくても、神はその時間を用いて、私たちをご自身のもとへ引き寄せてくださいます。
神は愛なるお方です。
しかし同時に、聖なるお方でもあります。
その聖さの前にへりくだる時、私たちは初めて、本当の恵みの大きさを知ることができます。
そしてダビデは、この学びを通して、もう一度契約の箱を迎えに行くのです。
今度は、自分の方法ではなく、神の御心に従って。 そこから、本当の礼拝が始まります。
第三部 神の前で踊る王――へりくだる者に与えられる喜び
三か月が過ぎました。
契約の箱はガト人オベド・エドムの家に置かれていました。
その間、驚くべき知らせがダビデの耳に入ります。
「神の箱ゆえにオベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。」(6章12節)
この知らせは、ダビデの心を大きく動かしました。
神は恐ろしいお方だから近づいてはいけないのではありません。
神は聖なるお方ですが、同時に祝福を与えてくださる恵み深いお方でもあるのです。
ダビデはようやく気づきます。
問題は神にあったのではありません。
神に近づく人間の側にあったのです。
神の方法ではなく、自分たちの方法で礼拝しようとしていたことが問題だったのです。
そこでダビデは、もう一度契約の箱を迎えに行きます。
しかし今回は、前回とはまったく違いました。
歴代誌を見ると分かるように、ダビデは祭司やレビ人を集め、神の律法どおりに契約の箱を担がせました。
人間の知恵ではなく、神の御言葉に従ったのです。
そして聖書は、こう記しています。
「主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛といけにえとしてささげた。」(6章13節)
なぜ六歩なのでしょうか。
七歩目まで待ってもよかったではありませんか。
しかしダビデは、六歩進むたびに立ち止まり、神に感謝をささげました。
一歩一歩が神の恵みであることを知っていたからです。
「ここまで来られたのは、自分の力ではない。」
「主が支えてくださったからだ。」 そう告白しているのです。
私たちはどうでしょうか。
一週間が守られることを、当たり前と思ってしまうことはないでしょうか。
朝、目が覚めること。 家族と食卓を囲めること。 教会へ来られること。 礼拝できること。 健康で働けること。 これらは決して当たり前ではありません。
一歩一歩が神の恵みなのです。
だからダビデは、その一歩ごとに神を礼拝しました。
その姿を見ていると、礼拝とは日曜日の一時間だけではないことが分かります。
人生そのものが礼拝なのです。
食べることも。 働くことも。 休むことも。 人と語り合うことも。
すべてが神への感謝となる時、私たちの生活は礼拝へと変えられていきます。
さらに聖書は、ダビデが「亜麻(あま)布(ぎれ)のエフォド」を身に着けていたと記します。
これは王の礼服ではありません。 祭司が身に着ける質素な装いです。
王であるダビデが、自ら王服を脱いだのです。 これは偶然ではありません。
ダビデは神の前で、「王」として立とうとはしませんでした。
「礼拝者」として立ったのです。 神の前では、王も羊飼いも同じです。
富む者も貧しい者も同じです。 学問のある人もない人も同じです。
神の前では、誰もが恵みによって生かされる罪人です。
だから私たちは礼拝で肩書きを持ち込みません。
社会では会社の社長かもしれません。 学校では先生かもしれません。
家庭では一家の大黒柱かもしれません。
しかし礼拝では、一人の神の子として、神の前に立つのです。
この姿こそ、本当の自由ではないでしょうか。
そしてダビデは、「力の限り主の御前で踊った」とあります。
この姿を見たミカルは、心の中でダビデを軽蔑しました。
「王があんな姿で踊るとは。」 「王らしくない。」 「品位がない。」
そう思ったのでしょう。
しかしダビデは、人にどう見られるかを気にしていませんでした。
彼が見つめていたのは、人ではなく神でした。
私たちは案外、人の目を気にしてしまいます。
「あの人はどう思うだろう。」 「失敗したら恥ずかしい。」 「笑われるかもしれない。」
そんな思いが、神への礼拝さえ小さくしてしまうことがあります。
しかし礼拝とは、人に見せるものではありません。 神にささげるものです。
だから賛美も、祈りも、献げ物も、人に評価されるためではなく、神への感謝としてささげるのです。
ここで私たちは、もう一人のお方を思い起こします。
それは主イエス・キリストです。
パウロはフィリピの信徒への手紙で、
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分になられました。」
と語っています。
主イエスは天の栄光を捨ててくださいました。
人に仕え、弟子たちの足を洗い、十字架にまで従われました。
ダビデは王服を脱ぎました。 しかしキリストは、それ以上のことをなさいました。
天の栄光そのものを捨てて、私たちのもとへ来てくださったのです。
だから私たちは、このダビデの姿の中に、へりくだりの王であるキリストを見ることができます。
そして、キリストに救われた者として、私たちもまた、誇りや体面を握りしめるのではなく、神の前にへりくだる礼拝者として歩んでいきたいのです。
へりくだる者には、本当の喜びがあります。
神を第一とする者には、世の評価では得ることのできない平安があります。
ダビデが神の前で力いっぱい喜んだように、私たちもまた、救いの喜びをもって主を礼拝する一週間を歩んでまいりましょう。
第四部 王よりも礼拝者として生きる――人の栄光ではなく神の栄光を求めて
契約の箱は、ついにエルサレムへ運び込まれました。
ダビデは、いけにえを献げ、主を賛美し、民を祝福しました。
そして、一人ひとりにパンと肉と干しぶどうの菓子を配ります。
喜びは王宮だけのものではありません。 神の祝福は民全体に分かち与えられました。
礼拝は、神から恵みを受け、その恵みを人々と分かち合うところまで進んで初めて完成するのです。 喜びに満ちた一日でした。
しかし、聖書はここで物語を終えません。
ダビデが家へ帰ると、一人の人が彼を待っていました。
妻ミカルです。
ミカルは窓から一部始終を見ていました。
そして、ダビデにこう言います。
「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」(サムエル記下6章20節)
この言葉には、皮肉と軽蔑が込められています。
ミカルには、ダビデが愚かに見えました。
王であるなら、王らしく振る舞うべきではないか。 威厳を保つべきではないか。
人々の前で踊るなど、王のすることではない。 そう考えたのでしょう。
確かに、人間の常識から見れば、その考えも理解できます。
王には威厳が必要です。 人々から尊敬される姿も大切でしょう。
しかし、ダビデは違うものを見ていました。
彼はミカルに答えます。
「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。 わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」
ここに、この章全体の結論があります。
ダビデは言います。
「私は人の前で踊ったのではない。主の御前で踊ったのだ。」
この一言に、ダビデの信仰がすべて表れています。
彼は王でした。
しかし、自分が王であることよりも、自分が神を礼拝する者であることを大切にしました。
神の前では、王冠も意味を持ちません。王笏(おうしゃく)も意味を持ちません。
大切なのは、「主よ、あなたこそ王です」と告白することです。
私たちもまた、知らず知らずのうちにミカルのような目で物事を見てしまうことがあります。
「あの人は立派に見えるだろうか。」
「教会は成功しているように見えるだろうか。」
「私は人からどう評価されるだろうか。」
人の目を気にする心は、誰の中にもあります。
牧師もそうです。 役員もそうです。 信徒もそうです。
「どう見られているだろう。」
その思いが強くなる時、私たちの礼拝は少しずつ神から人へと向いてしまいます。
しかし礼拝とは、人に見せるものではありません。 神にささげるものです。
賛美も、祈りも、献金も、奉仕も、すべては主への応答です。
だから、人に褒められなくても構いません。 誰にも気づかれなくても構いません。
神が喜んでくださるなら、それで十分なのです。
ダビデはさらに言います。
「わたしはもっと卑しめられ、自分の目には取るに足りない者となろう。」
この言葉は、とても印象的です。
普通、人は高くなろうとします。
認められたいと思います。 偉くなりたいと思います。 しかしダビデは、「もっと低くなろう」と言います。
なぜでしょうか。 神の偉大さを知ったからです。
神の栄光を見た人は、自分を大きく見せる必要がなくなるのです。
ここに、主イエス・キリストのお姿が重なります。
主イエスは、「王の王」でありながら、ロバの子に乗ってエルサレムへ入城されました。
黄金の冠ではなく、いばらの冠をかぶられました。 王座ではなく、十字架に上げられました。
人々は、「その姿では王らしくない」とあざけりました。
しかし、そのへりくだりこそが、神の救いの御業でした。
ダビデは、王であることよりも礼拝者であることを選びました。
主イエスは、栄光よりも十字架を選ばれました。
そして復活によって、神はその御子をすべての名にまさる名として高く上げられました。
私たちもまた、この王に従う者です。
だから、私たちの人生の目標は、人より高くなることではありません。
神に近づくことです。 人から拍手を受けることではありません。
神に「忠実なしもべよ」と言っていただくことです。
この一週間も、それぞれの生活の場へ遣わされます。
家庭へ。 職場へ。 学校へ。 地域へ。
そこで私たちは、王のように振る舞うためではなく、主に仕える礼拝者として歩んでいきます。
礼拝堂の中だけが礼拝ではありません。 家庭での言葉も礼拝です。
職場での誠実さも礼拝です。 人を赦すことも礼拝です。
病の中でなお神を信頼することも礼拝です。
そのような毎日の歩みを通して、私たちは「主こそ私の王です」と証ししていくのです。
ダビデは、契約の箱をエルサレムへ迎えました。
私たちは、復活された主イエス・キリストを心の王座にお迎えしています。
この王は、私たちを支配して苦しめる王ではありません。
愛をもって導き、赦し、仕え、命を与えてくださる王です。
この王に従う人生こそ、最も自由で、最も喜びに満ちた人生です。
今週も、「主は大いなる王である」という信仰を胸に刻み、へりくだりと喜びをもって、主と共に歩んでまいりましょう。