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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年6月7日「ゆだねられている良いものを守る」2テモテ1:3~14

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【招詞】
「愛する人たち、あなたがたを試すために、
火で精錬するような試練が身にふりかかっても、
驚き怪しむことはありません。
むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜びなさい。
そうすれば、キリストの栄光が現れるときにも、
喜びにあふれて歓喜することができるでしょう。」
(1ペトロ4:12〜13)

 

第一部 ――涙と祈りの記憶
今朝、私たちに与えられている御言葉は、2テモテ1章3節から14節です。
この箇所を読んでいますと、最初から、どこか胸を打つあたたかさがあります。
教理の説明というより、ひとりの人が、もうひとりの人を本気で思っている、その思いが言葉の向こ
うから伝わってくるんですね。

パウロは、いま牢の中にいます。
もう自分の人生の終わりが近いことも、うすうすではなく、かなりはっきり感じていたのだと思いま
す。
先が見えないどころか、だいたい先が見えてしまっている。
そういう厳しい場所に置かれている。
けれど、その中でパウロが何をしているかと言うと、自分のことだけを考えているのではないんで
す。
テモテのことを思い、祈っているんです。

3節に、こうあります。
「夜昼、あなたのことを思い、祈り続けている。」

短い言葉です。
でも、これは軽い言葉じゃありません。
夜昼、です。
思い出した時だけではない。
時間がある時だけでもない。
気が向いたらでもない。
夜も昼も、祈っている。

私たちは、自分のことだけでも心がいっぱいになることがあります。
目の前のこと、体のこと、家族のこと、仕事のこと、将来のこと。
それだけで心が埋まってしまうことがある。
ましてや苦しみの中にある時、自分の痛みだけで精一杯になるのは、ある意味では自然なことで
す。
でもパウロは、その苦しみの中で、なお誰かのために祈っている。
ここに、この人の信仰の深さがあると思うんです。

祈りというのは、不思議なものです。
離れていても届く。
見えなくてもつながる。
その人が今どこにいるか分からなくても、その人の名を呼んで祈ることができる。
そして人は、誰かに祈られている時、たとえ自分では気づいていなくても、ひとりではなくなるんで
す。
目には見えなくても、その祈りがその人を支えている。
だからパウロは、テモテを支えようとしているんですね。
手紙だけじゃない。

祈りでも支えている。

そしてパウロは、テモテの信仰について、こう言います。

「わたしは、あなたの真実な信仰を思い起こしています。
それは、まずあなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿り、
そして今、あなたのうちにも宿っていると、確信しています。」

ここに、信仰のとても大事な姿があります。
信仰は、突然空から落ちてくるものではないんですね。
もちろん、神が与えてくださるものです。
でもその神は、たいてい誰かの祈りや、誰かの生き方や、誰かの涙を通して、その信仰を人に手
渡していかれるんです。

祖母ロイス。
母ユニケ。
そしてテモテ。

名前がちゃんと出てくる。
これがいいですね。
信仰には歴史があるんです。
誰が祈ってくれたか、誰が御言葉を語ってくれたか、誰がそばで生きて見せてくれたか。
それが信仰の中に残るんです。

信仰の継承というと、すぐに「宗教教育」のような感じで考えてしまうかもしれません。
でも、聖書が語っているのは、もっと生活に近いものです。
母が祈る姿。

祖母が御言葉を読む姿。
だれも見ていなくても、神の前に静かに頭を垂れている姿。
そういうものが、子どもの心に残るんですね。
言葉で説明できること以上に、「ああ、この人は本当に神を信じて生きているんだな」という姿が、
人の中に種を蒔いていくんです。

私たちも、今ここにいるまでに、いろんな人を通して信仰を受け取ってきたのではないでしょうか。
直接教会に連れて来てくれた人がいたかもしれません。
熱心に祈ってくれた人がいたかもしれません。
何も多くは語らなかったけれど、その生き方に心を打たれた人がいたかもしれません。
あるいは、今はもう天に召された人の祈りが、なお私たちを支えていることもあるでしょう。

だからパウロは、テモテに「あなたの信仰はちゃんと根を持っている」と思い出させるんです。
あなたは、突然ひとりで立っているんじゃない。
祈られてきた。
受け取ってきた。
だから大丈夫だ、と。

そして続いてパウロは、こう言います。

「神の賜物を再び燃え立たせなさい。」

ここも大事です。
新しく賜物をもらいなさい、とは言っていないんです。
燃え立たせなさい、と言う。
つまり、火はあるんです。
ただ、弱くなっている。

灰がかぶっている。
小さくなっている。
でも、なくなってはいないんです。

信仰というのは、火のようなものだと思います。
燃えている時には、明るいし、あたたかいし、勢いもあります。
でも、風が吹いたり、雨に打たれたり、長い時間の中で疲れたりすると、火は小さくなります。
信仰もそうです。
元気な時ばかりではない。
祈れる時ばかりではない。
御言葉を読んでもすぐに喜びが湧く時ばかりでもない。
忙しさ、孤独、疲れ、失望、そういうものの中で、心の火がずいぶん小さくなることがあります。

テモテもそうだったのでしょう。
若い。
責任が重い。
周りの目もある。
パウロは牢にいる。
教会の問題もある。
いろんなものが重なって、心の火が少し弱っていたのかもしれません。

でもパウロは、「もうだめだ」とは言いません。
「消えた」とも言いません。
「燃え立たせなさい」と言うんです。
つまり、まだ火種はある。
神が与えたものは、完全には失われていない。
それをもう一度起こしなさい。

もう一度風を送れ。
もう一度神の前に出よ。
そう励ましているんですね。

私たちも、自分の中の信仰を見て、「こんなものしか残っていない」と思うことがあるかもしれませ
ん。
昔はもっと祈れていたのに。
昔はもっと喜びがあったのに。
昔はもっと真剣だったのに。
そう感じる時がある。
でも、その時に覚えたいんです。
神が灯した火は、完全には消えていない。
灰の下に火種はある。
そして神は、それをもう一度起こすことがおできになる。

だから、信仰を守るというのは、まず何より、自分の中の火を軽く見ないことです。
小さくても、消えそうでも、それでも神の火であることを信じることです。
それが「守る」ということの、最初の一歩なのだと思います。

 

第二部 ――恐れではなく、力と愛と慎みの霊

続いて7節には、よく知られたあの言葉があります。

「神は、わたしたちに臆病の霊ではなく、
力と愛と慎みの霊を与えてくださった。」

本当に大切な言葉です。
そしてこれは、何の不安もない平穏な時に語られた言葉ではありません。
パウロは牢の中。
テモテは重い責任の中。
教会には緊張もある。
外からの圧力もある。
そういう中で語られている言葉です。
だから、この言葉はきれいごとではありません。
実際の恐れの中で語られた、神の励ましなんです。

テモテは、たぶん怖かったと思います。
若い働き人です。
経験も十分ではない。
周りから見くびられることもあったかもしれません。
しかも、自分の先生であり父のような存在であるパウロは、今や捕らえられている。
「パウロの仲間」と見られるだけで危険があったかもしれない。
そりゃあ萎縮します。
心が小さくもなるでしょう。

でも、そういうテモテに向かってパウロは言うんです。
「神は、臆病の霊を与えていない」と。

これは、恐れを感じるな、という意味ではありません。
人間ですから、怖いものは怖い。
不安になる時はあります。
でも、その恐れに支配されてしまうこと、それを神から来た当然の状態だと思うな、ということなん
です。
あなたの人生を決めるのは恐れではない。
神が与えてくださる別の霊がある。
それが、「力と愛と慎みの霊」なんです。

まず「力」。
これは、よくある意味での強さではありません。
人をねじ伏せる力ではない。
声が大きいとか、押しが強いとか、そういうものではない。
神の前に立ち続ける力です。
倒れても、また起き上がる力。
傷ついても、なお神の方を向く力。
祈り続ける力。
赦し続ける力。
希望を手放さない力。

そして、その力は、自分で絞り出すものではありません。
神が与えてくださるんです。
だから、弱い人でも持てるんです。
むしろ、自分の弱さを知っている人ほど、この力にすがることができます。

次に「愛」。
恐れは、人を自分に閉じ込めます。
自分を守ることに一生懸命にさせます。
でも愛は、外へ向かわせます。
他の人を見させます。
仕えることを可能にします。
恐れに縛られている時、人は他人を信じにくくなります。

比べる。
疑う。
競う。
でも神の愛が心を満たす時、その狭さが少しずつ解かれていくんです。

そして「慎み」。
これは、冷静さとか、分別とか、節度とか、そういう意味を含んでいます。
信仰というのは、感情だけで突っ走ることではありません。
かといって、理屈だけで固くなることでもありません。
神の前で落ち着いて、何が御心かを見分けていくこと。
それが慎みです。
熱くても、乱暴ではない。
優しくても、流されない。
そういう静かな知恵が、聖霊によって与えられるんです。

力と愛と慎み。
この三つは、ほんとうに大事です。
力だけなら荒くなります。
愛だけなら流されることがあります。
慎みだけなら冷たくなることもあります。
でも神は、この三つを一緒に与えてくださる。
だから、信仰はしなやかに、そして強く立てるんです。

そして大事なのは、これが「がんばって身につける徳目一覧」ではないということです。
ここでは「霊」と言われています。
つまり、神が与えるものなんです。
神の賜物なんです。

だからパウロは後で、「恵みによって強められなさい」と言うんですね。
自分の根性で何とかしろ、ではない。
恵みによって強められよ、です。

私たちも、もう力が残っていないと思う時があります。
愛せないと思う時がある。
落ち着いて考えられない時もある。
でも、その時に思い出したい。
臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊が、神から与えられている。
それが、今も私たちの内に宿っている。
神の霊は、私たちの呼吸の中に生きている。
疲れた心に息を吹き込む風のように、もう一度起こしてくださる。
それが聖霊の働きなんです。

 

第三部 ――恵みの中にある召命

それでパウロは、さらに一歩踏み込んで言います。

「だから、あなたは、わたしたちの主をあかしすることを恥じず、
また、わたしが主のために捕らわれの身になっていることを恥じてはなりません。
むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍びなさい。」

ここは、やっぱり重い言葉です。
「共に苦しみを忍びなさい」とありますから。
でも、これは冷たい命令ではありません。
「お前も苦しめ」と突き放しているのではない。

そうではなくて、「この道は苦しみのない道ではない。けれど、神の力に支えられて共に歩こう」と
言っているんです。

信仰とは、順風満帆の道ではありません。
神を信じたら何もかもうまくいく、ということではない。
むしろ、神を信じて生きようとするからこそ、苦しみが深くなることもあります。
誤解されることもある。
孤独になることもある。
「そこまでしなくてもいいじゃないか」と言われることもある。
祈っても、すぐには答えが見えないこともある。
それでもなお、神の方を向いて立つ。
それが信仰なんですね。

そしてパウロは、その土台をはっきり語ります。

「神は、わたしたちを救い、聖なる召しによって招いてくださいました。
それは、わたしたちの行いによるのではなく、
神ご自身の計画と恵みによるものです。」

ここが本当に大事です。
もし私たちが、自分の立派さや努力や資格によってこの道に立っているのなら、苦しくなった時に
すぐ崩れてしまいます。
でも、そうじゃない。
私たちは、神の恵みによって呼ばれたんです。
ふさわしいからではない。
強いからでもない。
神の計画と恵みによって招かれた。

だから、苦しみが来ても、それは「神に捨てられた証拠」ではないんです。
むしろ、神の召しの中を歩いているその現実の中で、試され、鍛えられ、深められているのです。

そしてパウロは、あの本当に力強い言葉を語ります。

「わたしは苦しみに会っても恥じていません。
なぜなら、わたしは自分の信じている方を知っており、
その方が、わたしに委ねられたものをその日まで守ってくださると確信しているからです。」

これが信仰の芯だと思います。
何を信じているか、ではなく、誰を信じているか。
ここが定まっている時、人は強い。
状況がよく見えているから安心なのではない。
先が読めるから平安なのでもない。
自分の信じている方が、どんな方かを知っているから、立てるんです。

パウロはすべてを失っても、この確信を失わなかった。
神は守ってくださる。
神はわたしに委ねられたものを、その日まで守ってくださる。
ここに信仰の平安があります。

今日の招詞も、まさにそのことを語っています。

「愛する人たち、あなたがたを試すために、
火で精錬するような試練が身にふりかかっても、
驚き怪しむことはありません。
むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜びなさい。」

火で精錬されるような試練。
つらいです。
苦しいです。
できれば通りたくない。
でも、その火の中で、信仰は純化されることがある。
混じり気の多かった私たちの心が、神の前で少しずつ整えられていく。
だから試練の中にも、主の働きがあるんです。

もちろん、苦しみそのものを好きになれという話ではありません。
苦しいものは苦しい。
でも、その苦しみの中に主がおられる。
そのことが希望なんです。
苦しみの中でも、神は遠くに行ってしまわれない。
むしろ、最も近くにいてくださる。
それゆえに、私たちは恐れずに、恵みに生かされて歩むことができるんです。

 

第四部 ――ゆだねられている良いものを守る

最後に、14節に心を向けたいのです。

「あなたにゆだねられている良いものを守りなさい。
わたしたちのうちに宿っている聖霊によって。」

これが、この箇所全体の中心だと思います。
「ゆだねられている良いものを守りなさい。」

では、この「良いもの」とは何でしょうか。
単なる知識ではありません。
単なる制度でもありません。
福音です。
十字架と復活の知らせです。
神が私たちを愛し、救い、今も共にいてくださるという恵みの知らせです。
そして、それを信じて生きる信仰そのものです。
教会も含まれるでしょう。
祈りもあるでしょう。
御言葉もあるでしょう。
神との交わり、そのすべてがここに含まれていると思います。

そして大事なのは、「ゆだねられている」ということです。
自分で作り出したものじゃない。
自分の力で手に入れたものでもない。
神が託してくださったものなんです。

「ゆだねる」という言葉には、信頼があります。
神があなたを信頼している。
神があなたに、福音を託している。
神があなたの中に、この良いものを置いておられる。
それは、重いことでもあります。
でも同時に、とても大きな愛でもあります。
神は、「あなたには無理だ」と言って放り出しておられるのではない。
「わたしが共にいるから、あなたに託す」と言っておられるんです。

信仰を守るというのは、ただ外からの攻撃に耐えることだけではありません。
心の奥にある火を消さないことです。
神への信頼を絶やさないことです。
祈りの記憶を粗末にしないことです。
赦しへの思いを失わないことです。
神から受けたものを、軽く扱わないことです。

でも、ここでパウロは、とても大事な一言を加えます。

「聖霊によって。」

ここです。
ここがすべてです。
パウロは、「自分の意志の力で守れ」とは言わないんです。
「根性で守り抜け」とも言わない。
「聖霊によって」守れ、と言う。

つまり、私たちが守るのですが、ほんとうに守ってくださるのは神なんです。
聖霊が内側から支えてくださる。
だから守れる。
だから希望がある。

私たちは弱いです。
忘れます。
冷えます。
揺れます。
疲れます。

16
だから、自分だけの力では守りきれません。
でも聖霊が宿っておられる。
神ご自身の息吹が、私たちの中に働いておられる。
その霊が、弱さの中に力を与え、恐れの中に平安を与え、悲しみの中に希望を起こしてくださる。
だから、信仰は守られていくんです。

教会の歴史は、この「守り」の歴史でもありました。
迫害の中でも、誤解の中でも、信仰者たちは福音を手放しませんでした。
なぜでしょうか。
彼らが特別に強かったからではありません。
聖霊が守ってこられたからです。

そして今、その良いものが私たちの手に届いています。
誰かが祈ってきた。
誰かが耐えてきた。
誰かが涙の中でも手放さなかった。
その信仰の灯が、今、私たちのところまで来ている。
だから今度は、私たちが守る番です。
私たちが、次の人へと渡していく番なんです。

大きなことができなくてもいいんです。
今日、祈ること。
今日、感謝すること。
今日、赦しを選ぶこと。
今日、神を信じて一日を歩くこと。
その小さな忠実さが、信仰を未来へつないでいきます。

だから、この言葉を今日、自分への言葉として受け取りたいのです。

「あなたにゆだねられている良いものを守りなさい。」

これは義務だけの言葉ではありません。
神の信頼です。
神の愛です。
そして、その信頼に応える力も、神が聖霊によって与えてくださるんです。

だから恐れなくていい。
弱くてもいい。
それでも、手放さないことです。
祈りをやめないことです。
神を見失わないことです。
そうして歩む中で、あなたの信仰は守られ、受け継がれ、誰かの光になっていくのです。

 

 

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