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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年4月12日 申命記6章5節 尽くして愛する――神への愛の全体性

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◆何を愛して生きているのか

本日、私たちに与えられている御言葉は、旧約聖書の中心とも言える、大変重要な言葉です。

「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)

この言葉は、「シェマー」と呼ばれ、イスラエルの民が長い歴史の中で大切に守り続けてきた信仰の告白です。朝、目を覚ましたときに、夜、床に就く前に、そして日々の生活の節目ごとに、この言葉は繰り返し唱えられてきました。

それは単なる暗唱ではありません。
生き方そのものを形づくる言葉でした。
どこへ行くにも、何をするにも、
「私は主を愛して生きる者である」という自覚を、この言葉によって新たにしていたのです。
その意味で、この御言葉は、過去のイスラエルの民だけに語られたものではありません。
今ここにいる私たち一人ひとりにも、まっすぐに語りかけてきます。
――「あなたは、何を愛して生きているのか。」
この問いは、少し静かに聞こえるかもしれません。
しかし実は、とても深く、鋭い問いです。
なぜなら、人は皆、「愛するもの」によって生き方が決まるからです。
何を大切にしているのか。
何に心を向けているのか。
何のために時間を使い、何に力を注いでいるのか。
それらはすべて、「あなたが何を愛しているか」を映し出しています。
私たちは日々、多くのものに囲まれて生きています。
家族を愛すること。
仕事に誠実に向き合うこと。
健康を気遣うこと。
将来に備えること。
どれも尊いことです。
どれも、神が与えてくださった良い賜物です。
しかし、ここで大切なことは、
「それらが悪いかどうか」ではありません。
問題は、それらがどこに位置づけられているかです。
気がつかないうちに、本来は神から与えられたはずの恵みが、神に代わるものになってしまうことがある。
家族が、神以上の存在になってしまう。
仕事が、生きる目的そのものになってしまう。
安心や成功が、心の拠り所になってしまう。
そのとき、私たちの心の中心は、静かに、しかし確実に、神から離れていきます。
しかもそれは、多くの場合、はっきりとした自覚を伴いません。
むしろ、まじめに生きているつもりの中で、自然に起こってしまうのです。
だからこそ、この御言葉は、私たちの生き方の中心に、もう一度問いを投げかけます。
「あなたの神、主を愛しなさい。」
ここで大切なのは、「あなたの神」という言葉です。
神は、遠くにおられる抽象的な存在ではありません。
人格的に、あなたと関わり、あなたを導かれるお方です。
その神を、「主」として――すなわち、
人生の中心として、第一の存在として、愛しなさい、と語られているのです。
そしてさらに、この御言葉は、その愛し方についても明確に語ります。
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」
これは、単なる強調ではありません。
部分的にではなく、条件付きでもなく、都合のよい範囲でもなく、あなたのすべてをもって、神を愛しなさい。
という招きです。
ここには、神が求めておられる愛の深さと、同時に、神が私たちをどれほど真剣に求めておられるかが現れています。
神は、私たちの人生の一部分だけを求めておられるのではありません。
余った時間や、余裕のある心だけを望んでおられるのでもありません。
私たちの心の中心を、私たちの存在そのものを、まるごと求めておられるのです。
それは重たい要求のようにも聞こえるかもしれません。
しかしそれは同時に、神が私たちをどれほど深く愛しておられるかの裏返しでもあります。
中途半端な関係ではなく、全存在をもって結ばれる関係へと、神ご自身が私たちを招いておられるのです。
ですからこの御言葉は、単なる命令ではありません。
それは、
「あなたはどこに立って生きるのか」
「あなたの人生の中心は何か」
という、根源的な問いなのです。
そして今、この礼拝の中で、その問いが、私たち一人ひとりに向けられています。
――私は、何を愛して生きているのか。

◆尽くして愛するとは――信仰は「全体」である

では、「尽くす」とは、いったいどういうことでしょうか。
この言葉は、単なる強調ではありません。
「できるだけ頑張りなさい」という程度の意味ではないのです。
むしろここで語られているのは、人間の存在のすべてをもって神に向かうということです。
信仰とは、人生の一部分ではありません。
心の片隅に置かれるものでもありません。
それは、私たちの思いも、命も、生活も、すべてを貫く中心なのです。
この御言葉は、そのことを三つの側面から語っています。

1.心を尽くす――思いと意志の中心で

まず、「心を尽くす」とは何でしょうか。
ここで言われている「心」とは、単なる感情ではありません。
好きだとか、嫌いだとか、そういう気分の問題ではないのです。
それは、考え、判断し、選び取る中心です。
つまり、「何を基準にして生きるか」という問題です。
日々の生活の中で、私たちは絶えず選択をしています。
小さなことから、大きなことまで。
何を優先するのか。
何を後回しにするのか。
どの言葉を語るのか、どの態度を取るのか。
その一つ一つの選択の中に、私たちの「心の向き」が現れます。
ですから、「心を尽くす」とは、日曜日の礼拝のときだけ神を思うことではなく、日々の選択の中で、神を第一にすることなのです。
たとえば、忙しい日々の中で、
神のことを後回しにしてしまうことはないでしょうか。
朝、目覚めてすぐにスマートフォンを開き、情報を追い、予定を確認し、気がつけば、神に一言も向き合わないまま一日が始まってしまう。
祈る時間よりも、何倍も長く別のことに心を向けている。
そういうことは、決して珍しいことではありません。
また、何か問題に直面したとき、まず神に尋ねるのではなく、自分の経験や常識だけで判断してしまうこともあります。
「これはどうすればよいか」と主に問う前に、すぐに自分なりの結論に飛びついてしまう。
そこにも、私たちの心の傾きが現れています。
ですから、「心を尽くす」とは、単に神を思い出すことではありません。
必要なときだけ神に頼る、ということでもありません。
そうではなく、
神を中心にして考えること。
神を基準にして選び取ること。
それが、「心を尽くす」ということです。

2.魂を尽くす――存在そのものを神に向ける

次に、「魂を尽くす」とは何でしょうか。
魂とは、私たちの「いのち」そのものです。
存在の深いところ、私たちが「生きている」というその事実です。
ですからこれは、信仰が特別な時間だけのものではない、ということを示しています。
礼拝のときだけ神に向かうのではなく、日常の中で、常に神に向かって生きる。
それが、「魂を尽くす」ということです。
そしてここで大切なのは、状態に関係なく神に向かうということです。
元気なときだけではありません。
順調なときだけでもありません。
むしろ、疲れているとき、迷っているとき、信仰が弱くなっていると感じるときこそ、「主よ」と向き直ること。
それが、魂を尽くす歩みです。
私たちは時に、
「こんな状態で神に向かってよいのだろうか」と思うことがあります。
祈る気力もない。
信仰に自信もない。
心も乱れている。
けれども、そのようなときであっても、いや、むしろそのようなときだからこそ、神は私たちがご自身に向かうことを待っておられるのです。
「魂を尽くす」とは、完全な状態で神に向かうことではありません。
どのような状態であっても、神に向かうことをやめないことです。

3.力を尽くす――生活の中で具体的に

そして三つ目に、「力を尽くす」とは何でしょうか。
これは、私たちの行動、生活そのものを指しています。
どれだけ心で思っていても、
どれだけ内側で信じていても、
それが生活に現れなければ、
それはまだ「尽くしている」とは言えません。
信仰は、目に見えないものですが、その実りは、必ず目に見える形で現れてきます。
たとえば――
時間の使い方に現れます。
何に最も時間を使っているか。
お金の使い方にも現れます。
何に価値を見出しているか。
人との関わり方にも現れます。
赦すこと、仕えること、支えること。
それらすべてが、
「神を愛しているかどうか」を映し出しているのです。
ですから、「力を尽くす」とは、特別なことをすることではありません。
むしろ、日常の一つ一つの行いの中で、神を愛することです。
家庭の中での言葉。
職場での態度。
見えないところでの選択。
そのすべてが、神への愛の表現となっていくのです。
ここまで見てきますと、この御言葉が語っていることははっきりしています。
それは、信仰とは、「部分」ではなく「全体」である。
ということです。
心だけでもない。
魂だけでもない。
行いだけでもない。
そのすべてをもって、神を愛する。
それが、ここで私たちに求められている生き方なのです。

 

◆それでも愛せない私たち――福音の核心

しかし、ここで私たちは、どうしても立ち止まらざるを得ません。
ここまで、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛する」とはどういうことかを見てきました。
その姿は、美しく、正しく、そしてまっすぐなものです。
けれども同時に、私たちの内側から、ある正直な声が聞こえてきます。
――本当に、私はそのように生きているだろうか。
静かに自分の心を見つめるとき、私たちは否定できない現実に気づかされます。
心は、神に向かいきってはいない。
むしろ、いくつもの方向に分かれている。
魂は、いつも神に向いているわけではなく、状況によって揺れ動いている。
力もまた、神のためだけではなく、他の多くのことに使われている。
私たちは、神を愛したいと願いながらも、同時に、自分自身を愛しすぎてしまう存在です。
神よりも、自分の都合を優先してしまう。
神よりも、安心や安定を求めてしまう。
神よりも、人からの評価や成功を大切にしてしまう。
その結果、私たちの愛は、どこか分裂し、中途半端なものになってしまうのです。
この申命記の御言葉は、確かに理想を語っています。
しかしそれは、遠い理想ではありません。
むしろ、私たちの現実を鋭く照らし出す光なのです。
光が強ければ強いほど、そこにある影は、はっきりと浮かび上がります。
同じように、この御言葉の光の中で、
私たちは自分の姿を見せられます。
――私は、神を尽くして愛してはいない。
この事実の前で、私たちは言い訳を失います。
そして気づかされるのです。
私たちは、この命令を完全に守ることができない存在である。
ここに、私たちの限界があります。
どれほど努力しても、どれほど決意を新たにしても、心も、魂も、力も、完全に神に向け続けることはできない。
それが、人間の現実です。
しかし――ここで終わりではありません。
むしろ、ここからが福音の中心です。
聖書は、はっきりと語ります。
私たちが神を愛する前に、神がまず私たちを愛してくださった。
私たちの愛が不完全であることを、
神は最初からご存じでした。
それでもなお、神は私たちを見捨てることなく、ご自身の側から、愛を示してくださったのです。
その決定的な現れが、イエス・キリストです。
イエスは、この申命記の言葉を、ただ教えただけの方ではありません。
完全に生きられた方です。
心を尽くして、父なる神を愛された。
魂を尽くして、神に向かって生きられた。
力を尽くして、神の御心に従われた。
その生き方は、どのような状況においても変わることはありませんでした。
人々に誤解されても、拒まれても、苦しみの中にあっても、イエスは決して神から離れることなく、完全な愛をもって従われたのです。
そしてその従順は、ついに十字架に至ります。
十字架とは、単なる苦しみではありません。
それは、神への完全な愛と従順の頂点です。
イエスは、私たちができなかったことを、最後までやり遂げられました。
そして同時に、私たちの不完全さ、私たちの罪を、その身に引き受けられたのです。
ここに、福音の驚くべき真実があります。
私たちは、「神を完全に愛することができなかった者」として、裁かれてもおかしくない存在です。
しかし、キリストがその代わりに、
完全に愛し、完全に従ってくださった。
だからこそ、私たちは赦され、神との関係へと回復されるのです。
ですから、私たちの信仰は、どこから始まるのでしょうか。
それは、
「もっと頑張って神を愛そう」
というところからではありません。
そうではなく、
「すでに愛されている」
という事実から始まるのです。
神は、私たちが完全になるのを待ってから愛されたのではありません。
むしろ、愛せない私たちを、
そのままの状態で愛してくださったのです。
だから私たちは、
失敗してもよいのです。
揺れてもよいのです。
弱さを抱えたままで、
神に向かってよいのです。
なぜなら、私たちの信仰は、
私たちの愛の強さによって支えられているのではなく、
神の愛の確かさによって支えられているからです。
ここに、私たちの救いの確かさがあります。

 

◆愛されている者として生きる

では、この御言葉に対して、私たちはどのように応答すればよいのでしょうか。
ここまで見てきたように、
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛する」という生き方は、
決して軽いものではありません。
むしろ、それは私たちの存在全体を問う、深い招きです。
しかし同時に、私たちはすでに知っています。
自分の力だけでは、それを完全に生きることはできないということを。
だからこそ、ここで大切なのは、
「完璧にできるようになること」ではありません。
信仰とは、到達すべきゴールではなく、歩み続ける道だからです。
では、その道を、どのように歩んでいくのでしょうか。
それは――
愛されている者として、愛し返す歩みを始めることです。
ここに、信仰の出発点があります。
私たちは、自分の努力によって神に近づくのではありません。
すでに神が近づいてくださっている。
すでに神が、私たちを愛してくださっている。
その事実に立って、そこから一歩を踏み出していくのです。
その歩みは、決して大きなものから始まる必要はありません。
むしろ、とても小さなことから始まります。
たとえば――
朝、目を覚ましたときに、ほんの一言でも祈る。
長い祈りでなくてもよいのです。
「主よ、今日もあなたと共に歩ませてください」
その一言が、
その日の心の向きを整えます。
また、一つの選択の前で、少し立ち止まる。
急いで結論を出すのではなく、ほんの数秒でもよい。
「これは、神に喜ばれるだろうか」
そう問いかけるだけで、私たちの選び取る道は変わっていきます。
さらに、誰かに対して、ほんの少し優しくする。
疲れているときに、あえて一言、やさしい言葉をかける。
忙しい中でも、相手の話に耳を傾ける。
そのような行いを、
単なる善意としてではなく、
神への応答として行う。
それが、「力を尽くして愛する」ということの、具体的な姿です。
こうした一つ一つは、とても小さなことに見えるかもしれません。
けれども、その小さな歩みの中で、
私たちの心は少しずつ整えられていきます。
神を思う時間が増え、神に向かう感覚が深まり、神を第一とする選択が、自然になっていく。
そのようにして、私たちは少しずつ、
心も、魂も、力も、神に向けられていくのです。
そして、ここに不思議な恵みがあります。
それは、
神を愛する歩みの中で、
私たち自身が変えられていくということです。
最初は、意識して祈る。
意識して選び取る。
意識して行う。
しかし、その歩みを重ねていく中で、
やがてそれが、少しずつ「自然なもの」になっていきます。
神を思うことが、特別なことではなくなる。
神に向かうことが、日常になる。
それは、努力の結果というよりも、
神の働きによる変化です。
私たちが神を愛しているようでいて、
実は神ご自身が、私たちの内に働いて、愛する者へと変えてくださっているのです。
ですから、私たちは無理に自分を作り変えようとする必要はありません。
ただ、神に向かい続けること。
神の愛の中にとどまり続けること。
その中で、私たちは変えられていきます。
ここで、もう一度確認したいのです。
私たちの信仰は、
「愛そうとして愛する」ことから始まるのではありません。
そうではなく、
「愛されているゆえに、愛する」
というところから始まります。
神が先に愛してくださった。
だから、私たちは応答する。
神が私たちを受け入れてくださった。
だから、私たちは歩み出すことができる。
ここに、福音の喜びがあります。
努力の重さではなく、恵みの軽やかさ。
義務ではなく、関係としての愛。
その中で生きることが、信仰の歩みなのです。
ですから、今日この御言葉を聞いた私たちは、大きな決意をする必要はありません。
ただ、静かに、しかし確かに、一歩を踏み出せばよいのです。
「主よ、あなたを愛する者として生きたい」
その願いをもって、今日という一日を歩み始める。
その歩みの中で、神ご自身が、私たちを導き、整えてくださいます。
そしてやがて、私たちの人生そのものが、神への愛の証しとなっていくのです。
ここに、信仰の喜びと希望があります。

 

【祈り】

主なる神さま。

あなたを心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして愛しなさいと、私たちを招いてくださり感謝いたします。

しかし私たちは、そのように愛することのできない弱さを持っています。

どうか、私たちを赦し、あなたの愛の中にもう一度立ち返らせてください。

すでに与えられているあなたの愛に応えて、日々の生活の中で、少しずつあなたに向かう歩みをさせてください。

私たちの思いも、命も、行いも、すべてをあなたに委ねます。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

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