招詞:ローマの信徒への手紙12章1~2節(新共同訳)
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。
むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、
また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
起 知恵は、頭の中だけにあるものではない
・おはようございます。皆さんは「賢い人」と聞いて、どのような人を思い浮かべるでしょうか。
試験で高い点を取る人、難しいことをよく知っている人、質問されるとすぐ答えられる人でしょうか。
もちろん、知識を学ぶことは大切です。
しかし、聖書が語る知恵は、頭の中に蓄えた知識の量だけではありません。
聖書の知恵は、神様を信頼しながら、今ここで何を選び、何を語り、どのように行動するかという、生き方全体に表れるものです。
・今日の招詞でパウロは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と語りました。
「体を献げる」とは、特別な能力を持つ人だけが行う宗教的な務めではありません。
神様の憐れみを受けた私たちが、耳で人の声を聴き、目で必要を見つけ、口で命を語り、手で支え、足で隣人のもとへ向かう。その日々の生活を神様に用いていただくことです。
ですから、礼拝は日曜日のこの時間だけで終わるものではありません。
礼拝堂を出た後、家庭へ、学校へ、職場へ、地域へと続いていきます。
食卓で交わす一言、電話や連絡への返事、頼まれた仕事への向き合い方、困っている人を見たときの一歩。その一つ一つが、私たちの体を神様に献げる礼拝となり得るのです。
・今日読む箴言は、古代イスラエルの人々が、家庭や仕事、人間関係の中で神様を信頼して生きるために受け継いできた知恵の言葉を集めた書物です。
短い言葉が多く、一節ごとに異なる話題が続くようにも見えます。
しかし、その根に流れている問いは共通しています。
「あなたは、神様の前で、きょうをどのように生きるのか」という問いです。
・箴言10章1節には、「知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き」とあります。
これは、子どもを脅すための言葉ではありません。私たちの生き方は、自分一人の中だけで終わらず、家族や友人、教会、学校、職場にも影響を与えるという教えです。
私たちは皆、誰かとつながって生きています。だから知恵とは、「自分さえ良ければよい」と考えず、自分の言葉と行動が隣人に何をもたらすかを考える力でもあります。
たとえば、朝の忙しい時間を思い浮かべてください。
家族の一人が忘れ物をして、皆の出発が遅れそうになったとします。
そのとき、「どうしていつもそうなの」と責めることもできます。
しかし、一度息を整え、「一緒に探そう」と声をかけることもできます。ほんの数分の出来事です。
けれども、その一言によって家の空気は大きく変わります。
同じ出来事の中でも、憤りを広げることも、助け合いを生み出すこともできます。
知恵は、大きな決断のときだけ必要なのではありません。
朝の食卓や玄関先のような小さな場面にこそ表れます。
初めて教会に来られた方は、「聖書は立派な人になるための規則集なのか」と思われるかもしれません。
しかし、そうではありません。
聖書はまず、私たちが自分の力だけでは正しい道を歩み続けられないことを映し出します。
そして、迷う私たちを見捨てず、正しい道へ招いてくださる神様を示します。
知恵の出発点は、何でも知っているふりをすることではありません。
「神様、私にはあなたの導きが必要です」と認めることです。
承 手、足、口、耳に表れる知恵
・箴言は、その知恵をたいへん具体的に語ります。まず4節と5節は、手と働き方に目を向けます。
「手のひらに欺きがあれば貧乏になる。勤勉な人の手は富をもたらす。
夏のうちに集めるのは成功をもたらす子。刈り入れ時に眠るのは恥をもたらす子」とあります。
ここで箴言は、豊かな人は正しく、貧しい人は努力が足りない、と教えているのではありません。
貧しさには、病気、災害、差別、社会の仕組みなど、本人の努力だけでは変えられない事情があります。
そのことを無視して、人を怠け者と決めつけるなら、それは聖書の言葉を人を裁く道具にしてしまうことです。
そのうえで、この言葉は私たち一人一人に、ごまかさず、与えられた時と務めを大切にし、できることを誠実に行うようにと招いています。知恵ある手とは、何でも完璧にできる手ではありません。
小さな務めを、今日できる分だけ、正直に始める手です。
そして、疲れている人を助け、倒れた人を支え、自分に与えられたものを分かち合う手です。
学校なら、宿題を後回しにしたくなることがあります。
家庭なら、目についた片づけを誰かに任せたくなることがあります。
職場なら、共同で使う場所が散らかっていても、「自分が汚したのではない」と通り過ぎたくなることがあります。
また、困っている人を見ても、「自分の担当ではない」と見ないふりをしたくなることがあります。
しかし、机の上を少し整える。重い荷物を一緒に持つ。分からずに立ち止まっている人へ手順を示す。
後回しにしていた連絡を一件だけ行う。そのような務めは目立たず、褒められないかもしれません。
それでも、神様は小さな誠実さをご覧になります。知恵ある手は、成果を誇るための手ではなく、与えられた場所を少し良くし、隣人の負担を少し軽くする手です。
同時に、疲れて何もできない日には、助けを求めることも大切です。
箴言の勤勉さは、倒れるまで働くことではありません。自分の限界を認め、休み、差し出された手を受け取ることも、神様が共同体に与えられた知恵です。
私たちは支える側に立つ日もあれば、支えられる側に立つ日もあります。
互いの手を通して、神様は私たちを生かしてくださいます。
・次に、9節は歩みについて語ります。
「完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない。」
ここで言う「完全な道」とは、一度も失敗しない人生という意味ではありません。
神様の前で誠実であろうとする歩みです。
隠し事を重ねると、私たちは「見つかるかもしれない」という不安に心を縛られます。
しかし、神様の前で正直に歩む人は、失敗を隠さず、光の中へ戻ることができます。
だから、平安へと導かれるのです。
知恵ある足とは、人を押しのけて先へ進む足ではありません。
神様の道を一歩ずつ歩き、困っている人のところへ近づく足です。
たとえば、帰り道に、いつもより元気のない人を見かけたとします。
急いでいれば、そのまま通り過ぎることもできます。
けれども足を止めて、「大丈夫ですか」と尋ねることができます。
すぐに問題を解決できなくても、話を聴き、必要なら家族や先生、信頼できる人、専門の窓口へ一緒に向かうことができます。
反対に、仲たがいした相手の姿を見たとき、別の道を選びたくなることもあるでしょう。
しかし、和解とは、何事もなかったように振る舞うことではありません。
自分が傷つけられている場合には、安全を守ることが先です。
真実を曖昧にせず、必要なら信頼できる人に間に入ってもらい、話せる時を祈り求めます。
知恵ある足は、無理に危険へ近づく足ではなく、神様の光の中で、命と回復に向かう道を選ぶ足です。
さらに、6節、11節、12節は、口と心に関わります。11節には、「神に従う人の口は命の源」とあります。私たちの言葉は目に見えませんが、人を立ち上がらせることも、深く傷つけることもできます。
「ありがとう」「ごめんなさい」「一緒にやりましょう」「あなたは大切な人です」という短い言葉が、
乾いた心を潤す水のように働くことがあります。家庭で、誰かが一日の出来事を話し始めたとき、私たちは返事をしながらも、画面を見続けてしまうことがあります。
話を聞いているつもりでも、相手には「自分の話は大切ではないのだ」と伝わるかもしれません。
そこで、いったん手を止め、相手の方を向き、最後まで聴いてみる。
すぐに助言をせず、「それは大変だったね」と受け止める。
その数分が、聴く耳を神様に献げる礼拝になります。
また、連絡文やインターネット上の投稿では、相手の表情が見えません。急いでいると、言葉が鋭くなります。送信する前に一度読み返し、「この言葉は真実だろうか。今、必要だろうか。
相手を一人の大切な人として扱っているだろうか」と問い直す。
その短い間が、争いを防ぎ、口を命の源として用いる知恵になります。
反対に、陰口、決めつけ、からかい、心ない投稿は、軽い気持ちから出た言葉であっても、
相手の心に長く残ることがあります。
・8節には、「知恵ある心は戒めを受け入れ」とあります。
知恵ある人は、いつも自分が正しいと言い張る人ではありません。
人の言葉に耳を傾け、「自分にも改めるところがある」と学べる人です。
ですから知恵は、語る口だけでなく、聴く耳にも表れます。
注意されたとき、すぐに言い返さず、「教えてくれてありがとう。少し考えてみます」と言えるなら、そこにも神様の知恵が働いています。
・12節は、「憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う」と語ります。
「罪を覆う」とは、悪いことを隠して、見なかったことにするという意味ではありません。
いじめや暴力、不正を黙認することは愛ではありません。
聖書の愛は、真実を語り、必要なら助けを求めながらも、相手を憎しみの中に閉じ込めず、悔い改めと回復への道を開こうとする愛です。
同じ失敗を見ても、憎しみは「あの人はいつもそうだ」「決して変わらない」と相手全体を決めつけます。
しかし愛は、罪を罪として受け止めながらも、「この人にも悔い改めと新しい歩みの可能性がある」と願います。それは簡単なことではありません。
私たちの力だけではできません。だからこそ、知恵の道は、この先で福音へとつながっていきます。
転 知恵を生きられない私たちに与えられた福音
・ここまで聞くと、「良い言葉を使い、誠実に働き、正しく歩き、愛しなさい」
と言われているように感じるかもしれません。そして、自分を正直に振り返れば、私たちは皆、立ち止まります。忙しさを言い訳にしたことがあります。怒りのままに言葉を投げたことがあります。
人の失敗をいつまでも覚え、自分の失敗は隠したことがあります。
知恵の道を知っていても、その道から外れてしまいます。
もし今日の箴言が、「もっと努力しなさい」という命令だけで終わるなら、疲れている人にはさらに重い荷物になります。しかし、聖書はそこで終わりません。
箴言が示す知恵の道を完全に歩み、その道から外れる私たちを迎えに来てくださった方が、イエス・キリストです。
福音とは、「もっと頑張って立派になれば、神様に愛してもらえる」という教えではありません。
私たちが神様から離れ、正しい道を歩めないときにも、神様は私たちを愛し、イエス・キリストを遣わして、赦しと新しい命への道を開いてくださったという良い知らせです。
今日の招詞も、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と始まっていました。
私たちが自分の体を献げるより先に、神様の憐れみが私たちへ注がれているのです。
イエス様こそ、神の知恵をからだ全体で体現された方です。
その耳は、誰にも聴いてもらえなかった人の声を聴きました。
その目は、人々が見過ごした小さな人を見つめました。
その口は、罪を明らかにしながらも、赦しと命を語りました。
その手は、病気の人に触れ、子どもたちを抱きました。その足は、避けられていた人のもとへ向かいました。
イエス様の全存在が、父なる神様への従順と、隣人への愛に献げられていました。
そしてイエス様は、私たちが神様から離れ、人を傷つけ、自分でも直せない罪を背負って、十字架にかかられました。「愛はすべての罪を覆う」という言葉は、十字架において最も深く示されます。
イエス様の愛は、罪を見なかったことにする愛ではありません。
罪の重さを御自身が引き受け、私たちに赦しと神様との新しい関係を開く愛です。
神様は、イエス様を死者の中から復活させました。
だから、私たちの失敗や壊れた関係が最後の言葉ではありません。神様の愛と命が最後の言葉です。
私たちは赦され、もう一度やり直し、愛の一歩を踏み出すことができます。
たとえば、疲れて帰宅した晩、家族の何気ない一言に腹を立て、強い言葉を返してしまったとします。
言った直後に後悔しても、私たちはしばしば自分を正当化します。
「疲れていたのだから仕方がない」「向こうが先に余計なことを言ったのだ」と理由を並べます。
しかし、十字架の前では、言い訳を手放して、「あの言い方は間違っていた。
傷つけてごめんなさい」と告げることができます。
謝ったからといって、すぐに関係が元どおりになるとは限りません。
相手が受けた傷に耳を傾け、同じことを繰り返さないために、休み方や話し方を見直す必要もあります。
福音によるやり直しとは、失敗をなかったことにすることではありません。
赦しを受け、責任を引き受けながら、愛の方向へ向き直ることです。
そして、その歩みを支えてくださるのが聖霊です。
聖霊とは、目には見えなくても、今も私たちと共にいて、心を新しくし、イエス様の生き方へ導いてくださる神様です。
知恵ある生き方は、自分の力だけで自分を作り替えることではありません。
聖霊が、私たちの耳、口、手、足を、少しずつキリストに似たものへ変えてくださるのです。
昨日できなかったことが、今日すぐ完璧にできるとは限りません。
それでも、昨日は聞き流していた声に、今日は少し耳を傾けられるかもしれません。
昨日は言い返した言葉を、今日は一度飲み込めるかもしれません。
昨日は通り過ぎた人の前で、今日は足を止められるかもしれません。
その小さな変化を、聖霊は用いてくださいます。
結 今週、からだの一つを神様に献げる
・では今週、耳、口、手、足のうち一つを選び、神様に献げてみましょう。
全部を一度に変える必要はありません。大きなことを約束する必要もありません。
神様は、私たちができそうにない立派な計画を立てることよりも、今日の一歩を信頼して差し出すことを喜んでくださいます。
耳を献げるなら、今週一度、家族や友人に「最近どうですか」と尋ね、途中で口をはさまずに聴いてみる。口を献げるなら、感謝を伝えそびれている人へ、短くてもよいので感謝を言葉にしてみる。
手を献げるなら、後回しにしている片づけや連絡を一つ行う。
足を献げるなら、孤立している人のそばへ行き、挨拶をする。
あるいは、助けが必要な自分自身のために、信頼できる人のところへ向かう。それも大切な一歩です。
礼拝を終えて家に帰る前に、一つだけ決めてみてください。そして、その一つを祈りのうちに行ってみましょう。できたなら、自分を誇るのではなく、力を与えてくださった神様に感謝しましょう。
できなかったなら、隠れないでください。「主よ、できませんでした。赦してください。もう一度導いてください」と祈り、翌日にもう一度始めればよいのです。
キリストの十字架には赦しがあり、復活には新しい出発があります。
聖霊は私たちを見放さず、きょうも内側から造り変えてくださいます。
その繰り返しの中で、知恵は頭の中の考えから、私たちの体に刻まれた生き方へと育てられていきます。
教会は、賢い人や立派な人だけが集まる場所ではありません。
神様の知恵と赦しが必要だと認める人が、共に御言葉を聴き、支え合い、少しずつ新しくされていく場所です。
今日初めて来られた方も、迷いの中にある方も、疲れている方も、この交わりへ招かれています。
一人の優しい言葉、一つの誠実な行動、一歩の和解が、教会全体を通して神様の知恵を見えるものにします。神様は今日、私たちに問いかけておられます。
「あなたの耳を、口を、手を、足を、わたしの愛のために用いさせてくれますか。」
私たちは、自分の完全さを差し出すのではありません。
神の憐れみに支えられ、弱さを抱えたまま、自分自身を主に献げます。
そして、この後に歌う「主のためにわれは生く」の言葉のように、主の御心を求めながら、与えられた毎日を主のために生きていきましょう。
主イエスの恵みに信頼し、聖霊に導かれ、からだ全体で神の知恵を体現する一週間へ、共に歩み出しましょう。
宣教者の祈り
・命と知恵の源であり、深い憐れみをもって私たちを招いてくださる神様。
私たちは、正しい道を知りながら迷い、人を生かす言葉よりも傷つける言葉を選び、
愛よりも憎しみに心を支配されてしまいます。どうか私たちを憐れみ、赦してください。
私たちのために十字架にかかり、復活してくださった主イエス・キリストを感謝します。
あなたの愛が、私たちの罪を覆い、新しい命の道を開いてくださったことを信じます。
聖霊なる神様、私たちの心を新しくしてください。
人の声を聴く耳、命を語る口、誠実に働き支える手、困っている人へ近づき和解へ進む足をお与えください。家庭で、学校で、職場で、教会で、私たちのからだ全体を通して、キリストの知恵と愛が表されますように。
初めて教会に来られた方、迷いの中にある方、傷つき疲れている方を、あなたの平安で包んでください。
私たちを互いに裁く者ではなく、共に赦しを受け、共に成長する者としてください。
今週の一歩をあなたにお献げします。
小さな言葉と行いを用いて、だれかに希望を届けることができますように。
私たちの知恵ではなく、十字架と復活に現されたあなたの知恵によって歩ませてください。
私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。