1.新小岩バプテスト教会の松本理主任牧師就任按手式と「沖縄命どぅ宝の日」
・おはようございます。本日も皆さまと共に礼拝をささげる恵みにあずかれることを心から感謝します。フィリピ書の学びも、いよいよ第4週目に入りました。本日の御言葉を通して、今週も主の導きと恵みに気づくひとときとなりますように願います。
さて、本日の主日礼拝を迎える前日の6月21日(土)には、新小岩バプテスト教会において、松本理(おさむ)先生の主任牧師就任按手式が厳かに執り行われました。この重要な節目の式典には、多くの来賓者が招かれ、その数は合計で27名にのぼりました。その中には、私たち篠崎教会からも8名の兄弟姉妹が出席し、祈りとともに松本先生の新たな歩みの門出を共に祝いました。式は感謝と祝福に満ち、主の導きと働きがこれからも新小岩教会に豊かに現されていくことを確信する素晴らしい時となりました。
式の後にパーティーも予定されていましたが、私のこの説教原稿が未完成だったためパーティー開始早々に失礼して帰宅を急ぎましたが、途中の「美味いと評判のたこ焼き屋」さんに寄ることになり、結局教会に戻ったのは18時頃になってしまいました。この原稿を作成しながらたこ焼きを頂きましたが、評判通りでした。
・また、明日6月23日は「沖縄命(ぬち)どぅ宝の日」として覚えられている特別な日です。「ぬちどぅたから」というこの言葉は、沖縄の方言で「命こそ宝である」という意味を持っており、命の尊さを深く心に刻む表現として知られています。私たちが日々の生活の中で忘れがちなこの真理を、改めて思い起こす大切な機会です。
日本バプテスト女性連合は、2007年に開催された第35回総会において、6月23日を「沖縄(命どぅ宝)の日」として正式に定め、全国の諸教会がこの日を「平和を祈る日」として覚え続けてきました。今年でその制定から18年の月日が経ちました。今もなお、世界各地では戦争や武力衝突が続き、特に子どもたちや女性、一般市民の命が無慈悲に奪われています。この現実は私たちの心を深く揺さぶるものです。
また、国内に目を向ければ、沖縄は依然として多くの米軍基地を抱え続けており、日本における軍事的緊張の最前線という現実を担っています。そのような状況の中で、私たちはただ傍観するのではなく、主イエスの教えに従って、差別や虐殺、貧困、戦争、暴力といったすべての不義に対して毅然と立ち向かい、平和を実現する器として用いられる者でありたいと願います。
主イエスは、十字架とその死、そして復活を通して平和の本質を示されました。その主が今も私たちに語りかけておられます。「あなたがた自身が、平和をつくり出す者となりなさい」と。
私たち一人ひとりが、この「命こそ宝」であるというメッセージを心に刻みながら、共に主に祈り、平和の実現に向けて歩みを進めてまいりましょう。
2.聖書の神 ― その御性質とご計画
聖書が証しする神とは、いったいどのようなお方でしょうか。
まず第一に、すべてに先立って「神がおられる」という事実があります。人間が想像力で神を生み出したのではありませんし、人間の頭の中だけに存在する観念でもありません。天地創造のときから、神ご自身が「わたしはある(出エジプト記3:14)」と告げられたとおり、神は永遠に実在し、生きて働かれるお方です。
1) 創造と委託――被造物への信頼
神は、人間をはじめ、動物、空の鳥、地を這うもの、海の魚に至るまで、あらゆる生き物と自然界を創造されました。そして、人に対してそれらを「支配せよ・治めよ」と言って、管理を委ねる特別な使命を与えられました(創世記1章)。ところが人間は、自然界や他者を愛をもって管理するのではなく、自己中心的な支配へと傾き、やがて平和を破壊する結果を招いてしまったのです。
2) 太陽も雨もすべての人に――無条件の愛「アガペー」
それでも神は、悪人にも善人にも分け隔てなく太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます(マタイ5:45)。対象を選ばずに注がれるこの愛こそ、聖書の言う「アガペー」です。私たちの状態や行いにかかわりなく、神は一貫してご自身の愛を与え続けてくださるのです。
3) 平和と救いのご計画――イエス・キリストによる成就
神には世界と人類に平和と救いをもたらすご計画があり、その御心はイエス・キリストを通して実現しました。主イエスは十字架、そしてその死に至るまで従順であり、その真実をもって人類の罪を贖(あがな)われました。そして神による三日目の復活によって、罪と死に対する最終的な勝利を宣言されたのです。これが「イエス・キリストの恵み」、すなわち**福音(よき知らせ)**にほかなりません。
4) 「キリストを知るすばらしさ」に生きる
先週、鬼澤寛神学生が熱く語ってくださったように、**「キリストを知るすばらしさ」(フィリピ3:8)**は他のいかなるものにも優ります。その中心は――
- 自分の義を捨て、キリストの義に生き続けること
- 苦しみの中でもキリストにとどまり、立ち続けること
- キリストを誇りとし、ともに歩み、ともに苦しみを負うこと
この歩みのゆく手には、**永遠の命(ゾーエの命)**が与えられ、神の栄光が待ち受けています。生きて働かれるキリストと出会い、その愛に触れる者は必ず変えられます。真の救いと自由を得た者の心には、差別・虐殺・貧困・戦争・暴力を否定し、平和を造り出す使命が刻まれるのです。私たち一人ひとりの応答が、神と人とを結び、世に光を放つ証しとなることを覚えましょう。
キリストを知るすばらしさは、ほかのすべての事にまさって尊い。
それゆえ私たちは、今日も主にあって真の救いと自由に生き、主の愛を映す器として変えられ続けるのです。フォームの始まり
その時私たちの身体は復活の命に生きる身体、キリストと同じ栄光の身体に変えてくださるとパウロは語ります。
このような希望と変革の歩みの中で、わたしたちは「すでに完成した者」として生きるのではなく、日々新たに主に近づく旅路に置かれています。信仰の道は、過去の成功や失敗にとらわれず、絶えずキリストを求め、主の愛によって造り変えられる連続の歩みです。私たちがキリスト・イエスにしっかりと結びつき、その復活の命に望みをかけて前進するとき、人生の困難や苦しみに直面しても、そこに主の力が働くことを体験するでしょう。
信仰生活はゴールではなく、永遠の命に向かって走るレースのようなものです。悩みや試練があっても、キリストと共に歩み続けることで、私たちの内に新しい命が育まれていきます。やがて主が約束された再臨の日に、すべての信仰者がキリストの栄光の姿に変えられ、天の国で完全な交わりを得るその日を、私たちは希望をもって待ち望みましょう。
3.パウロの求めるもの・目標を目指して
パウロが心の底から求めていたものは、何よりもまず、「キリストの復活にあずかること」でした。彼はただ知識としてキリストのことを知るだけではなく、キリストの真実に触れ、キリストを復活させた神の力を実際に知ることを切に願っていました。そして、自分自身もまた、キリストが歩まれた苦しみの道、すなわち十字架の苦難に共にあずかり、その苦しみを通してキリストの十字架の死と同じ姿に自らが造り変えられることを望んでいたのです。彼の願いは、どんなことがあっても、神の力によって死者の中から復活を遂げたいという強い願望に根ざしています(3:10-11)。
この思いは、ガラテヤ人への手紙2章19節にもよく表れています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています」と語るパウロは、自らの古い人としての生き方に死に、新しいいのちに生きる者としてキリストと共に歩む覚悟を持っていたのです。
さらにパウロは、「キリストは、過去に十字架につけられた方であるだけでなく、今もなお、十字架につけられたままの姿で、私たちの苦難のただ中におられるお方である」と証ししています。すなわち、キリストは、今もなお苦しむ者たちと共におられ、彼らの痛みや悲しみを共に担ってくださっているのです。私たちが苦しみの中にある時、キリストもまたその中におられ、共にいてくださるという、この深い慰めと希望をパウロは語り伝えています。
このようなキリストの姿を、パウロ自身は自らの経験の中で実感していたことでしょう。彼は今、獄中にあり、自身も苦難のただ中にありました。自由を奪われ、命の危険さえある中で、パウロはキリストと共に苦しみを担いながら、その歩みを続けていたのです。復活をすでに得た者としてではなく、まだその復活を目指して日々努力し続ける者として、彼は信仰の道を歩んでいました。なぜなら、キリストの素晴らしさ、計り知れないその価値を知ったからこそ、彼はもはやキリストから離れることができなかったのです(3:12)。
フィリピの兄弟姉妹たちに対しても、パウロは「自分はすでに目標に達したとは思っていない」と正直に語ります。彼がすべきこと、それは過去の成功や失敗、栄光や挫折といったすべてをいったん忘れ、ただキリストへの真実な信仰、誠実な証しを持ち続けることでした。死者の中からキリスト・イエスを復活された神が、救い主キリストを通して私たちを天に召し、神と共に住まわせてくださるという希望を握りしめながら、パウロは復活の命に生きることを目指して前進していたのです。そして、その歩みの中で、信仰によって与えられる更なる恵み、神からの賞与があると信じ、それをフィリピの教会の人々にも伝えようとしていました。
このような思いから、招詞としてパウロの言葉である1コリント11章1節を選びました。ご一緒にお読みしたいと思います。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」とあるように、パウロは自分の信仰の姿勢を通して、他の人々にもキリストへの従順な歩みを勧めています。
獄中にありながらも、パウロは今も苦しみの中にある人々と同じように、キリストが苦しみに寄り添っておられることを信じ、そのキリストの姿を証ししていました。キリストの福音、平和、救いの喜びを語り、そして復活の命に生きることを、自身の証しをもってフィリピの兄弟姉妹たちに呼びかけていたのです。
またパウロは、律法主義に陥り、キリストの十字架の救いに敵対する者たちの末路が「滅び」であることを、涙ながらに語っています。彼らの姿を見て、かつての自分自身や、かつての仲間たちのことを思い出していたのかもしれません。その深い悲しみが、彼の言葉ににじんでいます。
パウロは最後に、私たちの「本国は天にある」と力強く宣言しています。これは、私たちが今この地上を生きているけれども、やがて本当の故郷である天に帰る日が必ず来る、という希望を意味しています。その日、主イエス・キリストが救い主として再び来られる「再臨の日」を、パウロは心から待ち望んでいたのです。
そしてその再臨の時、私たちのこの朽ちる身体は、復活の命に満たされた身体へと変えられ、キリストと同じ栄光の身体にされる、という希望をパウロは語っています。それは、ただの願望ではなく、神の約束としての確かな希望であり、信仰者にとっての最終的な完成、神との完全な交わりの実現なのです。私たちの本国は天にあるとは、いつか本国に帰る日が来るという事です。その日天から主イエス・キリストが救い主として来られる再臨の日を私たち・パウロは待っていると語ります。
結論 ― 目標と私たちが目指すもの
- キリストをより深く知る
- 単なる知識にとどまらず、十字架と復活の力を体験的に味わう。
- キリストの苦難にあずかる
- 日々の歩みの中で自己中心を捨て、隣人の痛みを担う愛を実践する。
- 復活のいのちに生きる
- 天にある本国を見据え、再臨の希望を抱きながら地上での使命を果たす。
- 信仰の賞を得るため前進し続ける
- 過去の栄光や失敗にとらわれず、キリストが与えてくださる完全な救いに向かって走り続ける。
・パウロは、私たちにもキリストへの従順な歩みをそのために勧めているのです。
祈り
真の生命の神のみ名を賛美します。
あなたがキリストを通して示してくださった復活の力と限りない愛に感謝します。
私たちがパウロのように、キリストを知るすばらしさを何ものにも代えがたい宝として受け取り、
日々の苦難の中でキリストの十字架にあずかりながら歩むことができますように。
どうか私たちの心を新たにし、天にある本国を見上げつつ、
再臨の希望に励まされて地上の使命を忠実に果たす者としてください。
キリストの苦しみをともに担う中で、
隣人の痛みを分かち合う真実の愛を行う力をお与えください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。