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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2025年8月31日 申命記34:1~12 ピスガの山頂 副題:モーセ最後の姿

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はじめに
・おはようございます。申命記最終週となりました。私たちは人生の旅路において、時にピスガの山頂から景色を眺めるような瞬間に立ち会います。申命記34章は、モーセという偉大な指導者が神の導きのもと、その生涯の終わりを迎える場面を描いています。「ピスガの山頂」は、約束の地を目の当たりにしながらも、自らは足を踏み入れることなく、次の世代へとバトンを託したモーセの最後の地です。
本日はこの箇所から、私たち自身の信仰生活、希望、そして委ねることの意味についてご一緒に考えていきましょう。

1.ピスガの山頂に立つ時
・申命記34章1節には、「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、」とあります。モーセが見た景色は、約束の地、カナンの全域でした。四十年の荒野の旅を終え、ついにここまで辿り着いたモーセ。しかし彼はそこに入ることは許されませんでした。
・この場面は、私たちの人生にも重ね合わせることができるのではないでしょうか。あなたが長く祈り続けてきたこと、努力してきたことの結果を目の前にしながらも、自らは成し遂げることなく、次の世代に託さなければならない時が訪れることもあります。ピスガの山頂は、達成と未達成が交錯する場所です。その場所に立つ私たちは、何を感じ、どんな選択をするのでしょうか。
・ピスガの山頂に立ったモーセの心には、これまでともに歩んできた民たちへの深い思いと、神の約束の確かさが静かに広がっていたことでしょう。彼は、荒野のさなかで何度も神に仕え、試練や困難に直面しながらも、決して歩みを止めませんでした。その道のりの果てに、目では見ることの出来ないものの大切さ、 すなわち、自分が成し遂げることだけではなく、信仰の灯が次の世代に受け継がれ、希望のバトンが渡っていく尊さを、モーセは身をもって示しています。山頂から見る景色は、彼自身の歩みの集大成であると同時に、新たな旅立ちへの静かな預言でもありました。私たちもまた、自らの人生の節目で、与えられた場所から見える恵みと使命をしっかりと受け止め、これから進むべき道を静かに見据える者でありたいと思います。

2.約束の地に入れない訳
・ところで、なぜモーセは約束の地に足を踏み入れることが許されなかったのでしょうか。その理由は、民数記20章12節に記されています。「主はモーセとアロンに向かって言われた。『あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。』」(民数記20:12、新共同訳)
・この出来事はメリバの水の場面で起こりました。イスラエルの民が水に渇いたとき、主はモーセに「岩に命じて水を出せ」と命じられましたが、モーセは怒りに駆られ、杖で二度岩を打ち、水を出しました。この行為は、神の言葉に従わず、モーセ自身が感情に流されたものとされています。
・モーセは聖書において偉大な指導者として描かれていますが、その生涯の初期にはエジプトで人の命を奪うという重大な過ちを犯しています。この行為が、感情に流された結果であったのかどうかについて、聖書の該当箇所を参照しつつ考えてみましょう。
-出エジプト記2章11,12節「モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。」
・この記述から、モーセは同胞が虐げられているのを目撃し、衝動的に行動したことがうかがえます。彼は「周囲を見回し、誰もいないのを確かめて」実行に移しているため、計画的な部分も認められますが、根底には同胞への強い憐れみと怒りがあったと考えられます。
・モーセはエジプト王宮で育ちながら、ヘブライ人の苦しみに心を痛めていました。この場面のモーセは民への「同情」と「憤り」に駆られて行動したと読むことができます。事実、ヘブライ人同士の争いに介入した際も、すぐに自分の行動が知られてしまい、エジプト王に命を狙われて逃亡を余儀なくされます(出エジプト記2:15)。
・聖書は、モーセの行為を直接的に「怒り」や「感情」によるものと断定してはいません。しかし、出エジプト記の流れから、彼が「虐げられる同胞を救いたい」という衝動に駆られ、怒りを抑えきれずにエジプト人を殺めてあやめてしまったことが読み取れます。この点は、後年、メリバの水で神の命令通りに行動せず、感情に流されたと指摘される申命記や民数記の場面と共通しています。モーセは感情の高ぶりの中で過ちを犯したことが、彼自身の人間的弱さとして聖書の中で描かれています。モーセがエジプトで人の命を奪った行為も、メリバの水事件同様、感情に流された結果と解釈できます。聖書は、偉大な指導者であっても、感情に支配されることがあることを記しています。
・神はモーセの信仰と従順を非常に重んじられました。だからこそ、民の前で神の聖なる御心を示し損ねたことが、大きな責任として問われました。申命記32章51,52節でも、「あなたたちは、ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない。」と明確に記されています。(あなたたちは、モーセとアロンのこと。)
・このことから、神への信頼と従順の重要性、そして指導者が与えられた使命をどのようにまっとうするか、その重みを学ぶことができます。
・このようにモーセの歩みには人間的な弱さや葛藤がありましたが、それでも彼は自らに課せられた使命を握りしめ、最後まで神に寄り添い続けました。指導者として時に悩み、民の不信や反発に直面しながらも、彼は神の御言葉と約束を決して見失いませんでした。ピスガの山頂に立ったモーセの姿は、私たち一人ひとりが人生の節目で直面する「自分の手では届かない願い」や「委ねるしかない現実」に対する模範でもあります。人生には、自分で結果を見ることが許されずとも、次の誰かや、新しい時代へと希望を託し、静かにその景色を見守る勇気が求められるのです。

3. 約束の地を見渡す恵み
・神はモーセに「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」(34:4)と言われます。モーセは自分の目で約束の実現を見届けることができました。たとえそこに足を踏み入れられなくとも、神の計画が確かに進み、次の世代に希望が渡されることを知るのです。
・ここに、神の恵みの深さがあります。私たちが歩んできた道、時には失敗や挫折の連続だったかもしれません。それでも、神はその歩みを無駄にはされません。あなたの祈りや働きが、目に見えないかもしれませんが、確かに神のご計画の中で生かされているのです。
・モーセが約束の地を遠くから見渡した瞬間、そのまなざしには神の約束の確かさと、歩んできた歴史の重みが映し出されていたことでしょう。たとえ自分自身がその地に入ることができなかったとしても、彼の使命は次の世代へとしっかりと受け継がれていきます。信仰の旅路の中で、私たちもまた、今までの歩みを振り返り、神が導いてくださったすべての時に感謝しつつ、新しい扉が開かれる瞬間を静かに待つことが求められているのです。
・モーセの歩みの終盤には、約束の地を目前にしながらも自らの役割を終え、静かに次世代へ希望を渡す決意が映し出されます。神の導きの中で培われてきた知恵や経験は、本人の手を離れてもヨシュアに受け継がれ、新たな時代が始まろうとしています。モーセがピスガの頂で見つめた景色には、信仰の歴史と神の約束が結晶となって広がっていたことでしょう。私たちもまた、人生の節目で自分の歩みを振り返り、次へとバトンを渡す勇気を持つことが求められます。その勇気は、目に見える収穫ではなく、未来への信頼と神への委ねから生まれるものです。

4. バトンを渡す勇気
・申命記34章9節には、「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。」と記されています。モーセは自分の役割を全うし、次の指導者ヨシュアへバトンを渡します。自分で収穫を得られずとも、種を蒔く人としての働きを喜び、後進へと託す姿勢は、信仰者にとって非常に大切なものです。
・あなたは今、誰かに何かを託す準備をしていますか。もしかしたら、すぐに結果が見えなくても、あなたの蒔いた種は必ずや実を結ぶでしょう。自分の役割を認め、神に委ねることは、最も深い信仰の表れです。
・ヨシュアに託された新たな時代の幕開けは、神の計画が個人の働きを超えて連綿と続いていくことの証です。モーセの歩みが終わりを迎えるとき、彼の祈りや導き、そして遺した信仰は、次のリーダーと民全体の希望となっていきます。私たち自身の人生においても、目に見える成果や役割の交代を恐れるのではなく、託す勇気と謙虚さを持つことが求められています。神のご計画は常に前進し、私たち一人ひとりの小さな忠実が、やがて大きな祝福へとつながるのです。
・モーセが約束の地を目前にして自らの使命を果たし終えたあと、ヨシュアの新たな指導のもとでイスラエルの民は次の一歩を踏み出します。そこで示されるのは、過去の歩みに感謝しつつも、新しい時代へ無事に橋渡しをする重要性です。私たちの日常にも、これまでの経験や導きを受け継ぎながら、次に何を委ね、どのように歩むかが問われる瞬間があります。過ぎ去った日々や成し遂げた役割に執着せず、神の導きのもと、未来を信じて一歩を踏み出すことで、希望のバトンはさらに先へと託されていくのです。

5. モーセの偉大さと謙遜
・申命記34章10節から12節には、「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。」と記されています。モーセは神と顔と顔を合わせて語り、多くの奇跡を行いました。しかし、彼は決して自分の力を誇ることなく、いつも神の御心に耳を傾け、民のためにとりなし続けました。
・どんなに大きな働きを担ったとしても、最終的には神の御手に委ねることが求められます。謙遜の心をもって、あなたの歩みを見直し、神を讃えることを忘れないでください。
・モーセの生涯の終幕は、単なる指導者の交代ではなく、信仰の歩みが個人を超えて次の時代へと継承されていく大いなる節目です。モーセの謙遜さと献身的な姿勢は、今を生きる私たちにも深い示唆を与えてくれます。自らの使命を果たした後は、次世代へ希望と信頼を託し、神の計画の中で新たな歩みに心を開くことが求められます。こうした受け渡しの中にこそ、神の恵みと導きが色濃く現れているのです。

6. 新たな歩みへの一歩
・モーセの物語から、私たちは「受け継ぐ」という行為が、単なる地位や役割の移譲ではなく、信仰の精神や志を次代へと手渡す大切な営みであることを学びます。時代が移り変わっても、神の約束は変わることなく、今を生きる者たちに新たな使命と責任が託されています。私たちは、過去の導きに感謝を捧げつつ、自分自身が与えられた場所で誠実に歩むことによって、未来への道を切り拓くことができるのです。こうした歩みの中で、神の導きに信頼し、祈りと希望をもって次の一歩を踏み出す勇気を心に刻みたいものです。

7.招詞
・招詞にローマの信徒への手紙8章5,6節を選びました。皆さんとご一緒に読みたいと思います。
「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ローマの信徒への手紙8章5節、6節) ありがとうございます。
・モーセがピスガの山頂に立ち、約束の地を目にしながらも、自身では踏み入れることが出来ないという現実を受けとめたその瞬間、彼の心はまさに「霊に傾く思い」で満たされていたことでしょう。目の前の現実や未達成の思いにとらわれるのではなく、神の御霊に導かれる命と平和への信頼こそ、彼の歩みを貫いたものです。私たちもまた、モーセの姿に倣い、神の霊に心を向けて歩むとき、人生の頂において新たな希望と平安を受け取ることができるのです。
・ピスガの山頂に立つモーセの姿は、過去と未来、個人の歩みと共同体の希望が交錯する象徴的な瞬間でもあります。彼が見つめた景色は、ただ約束を待つ者の視点だけでなく、次の世代へ信仰と使命を託す決意を映し出していました。私たちもまた、人生の節目に立ち、神の導きのもとで自分自身の歩みを振り返るとき、どんな状況にあっても新しい一歩と希望が与えられることを覚えたいと思います。
・それゆえ、私たちは今の歩みの中で与えられた使命や役割に真摯に向き合い、過去から受け継いだ思いや祈りを心に刻みながら、未来を見据えて進むことが求められています。たとえ自分の手で成果を見ることができない場面があったとしても、誠実な働きや蒔いた種はやがて次世代へと引き継がれ、神の壮大なご計画の中で実を結ぶのです。日々の小さな忠実が大きな希望となり、私たち自身の歩みもまた、誰かの人生の節目や新しい道の一端を担っていることを忘れずにいたいものです。これから始まる新たな時代や、目の前に広がる景色を前にしたとき、私たちの心が謙虚に神の導きへ応答できるよう、その勇気と信仰を養い続けて、行こうではありませんか。

8. ピスガの山頂からの学び
・私たちは、人生の様々な場面で「ピスガの山頂」に立つことがあります。そこから見える景色は、希望に満ちたものかもしれませんし、惜別の思いが交錯するものかもしれません。それでも、神はいつも共におられ、その計画は揺るぎないものです。
・あなたが今立っている場所は、神が導いてくださった場所です。たとえ目の前に約束の地が広がっていなくとも、信仰をもって神に委ね、次の一歩を踏み出していきましょう。
・私たちの歩みの中で、時に立ち止まり振り返ることは、神の導きを認める大切な機会となります。ピスガの山頂の物語を通して、これまでの道のりに感謝しつつ、今この瞬間に与えられている使命を受け止めることで、未来への一歩を踏み出す勇気と希望を新たにすることができるのです。
・人生の歩みの中では、時に自分の力を越えた導きや、思いもよらぬ出会いに恵まれることがあります。そうしたひとつひとつの出来事が、神のご計画の中で大きな意味を持ち、やがて新しい道を照らし出す光となるのです。ピスガの山頂でモーセが遠くを見渡したように、私たちも今この時、自分の立つ場所から未来を見つめ、与えられた使命を静かに受け入れる心を持ちたいものです。そして、たとえ不安や迷いがあったとしても、神の確かな導きを信じて歩むとき、次の世代へと喜びと希望をつなげていくことができるでしょう。
・立ち止まる瞬間には、過去の歩みとこれからの未来が静かに交差します。モーセの物語が示すように、私たちは一人ひとりの人生の節目で新たな視点を授かり、これまで積み重ねてきた祈りや使命が次世代へと確かに受け継がれていくことを感じます。ピスガの山頂に立つ経験は、ただ約束の地を仰ぎ見るだけでなく、神の導きのもとで自分を見つめ直し、今この時に与えられている使命に誠実に向き合う大切さを思い起こさせます。過去からの贈り物としての信仰や希望を胸に、これから進む道に心を開きながら、日々の歩みの中で新しい光や力を見出し、未来への責任と喜びを担っていきたいものです。

結び
・ピスガの山頂は、人生の「節目」とも言える瞬間です。そこから何を見て、何を感じ、何を神に委ねるのかが問われます。モーセの生涯と申命記34章の物語は、私たちに「信仰の継承」「神への委ね」「希望を次世代へ託す」ことの大切さを教えてくれます。
・最後に、あなた自身の歩みを振り返りながら、神があなたに与えてくださった使命と希望を改めて受け止めてください。ピスガの山頂から見える景色は、あなたに新しいビジョンと力を与えてくれるはずです。
・願わくは、私たち一人ひとりが、神に委ねる勇気と次世代に希望を託す信仰を持って「ピスガの山頂」に立つことができますように。
・ピスガの山頂の物語は、今の歩みやこれからの道に新しい視点を与えてくれます。モーセが自らの使命を全うし、その後を託したように、私たちもまた人生の節目で次の世代へと希望をつなぐ責任を担っています。過ぎし日々の導きを感謝し、これから進むべき道を神に委ねることで、心に静かな確信と新しい力が宿ります。あなた自身の歩みが、神の計画の中で意味あるものとなり、未来に向けて光となっていくことを願いながら、今この瞬間に与えられた使命と出会いを大切に受け止めていきましょう。
・このようにして私たちは、日々の歩みの中で与えられるさまざまな出会いや新たな経験を、単なる偶然ではなく、神が用意された導きとして受け止めることができます。過去の道のりを感謝しつつ、今この瞬間に託された役割や使命に誠実に向き合い、未来へと続く希望の扉を開いていく、 その一歩一歩が、やがては他の誰かの勇気や慰めとなり、次の世代への贈り物となることでしょう。どんな状況にあっても、神の変わらぬ愛と導きを信頼し、これから進む道に新しい光がともされるように、心を整えて歩み続けたいと思います。

お祈りします。
恵み深い真の命の神よ、
あなたが導いてくださる歩みの中で、今日この時、申命記34章を通してモーセの生涯とピスガの山頂の物語に心を向けることができ、感謝します。
モーセが約束の地を遠くから見つめつつ、静かにあなたのみ手に自らを委ねたように、わたしたちもまた、今立っている場所において、たゆまぬ信仰と従順をもって歩み続けることができますように。
どうか、成就されない願いや目の前に見えない約束に心を曇らせるのではなく、あなたの計画と導きを信じて次の一歩を踏み出す勇気を与えください。ピスガの山頂から広がる景色のように、希望と平安でわたしたちの心を満たしてください。
また、モーセが使命を次世代へ託したように、わたしたちも自らの歩みを振り返り、あなたから託された使命と希望を新たに受け止め、次世代へと引き継ぐ者となることができますように。
ここに集う一人ひとりが、神に委ねる勇気と信仰をもって歩み続けることができますよう、どうか支え、導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン

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