・皆さん、おはようございます。8月は、申命記から御言葉を聴いていきます。
本日は、申命記5章1節から22節を通して、「申ねて命じる」というテーマを共に味わいたいと思います。モーセは、イスラエルの民を前に「シェマア イスラエル・イスラエルよ、聞け。」(5:1)と情熱をこめて強く呼びかけます。人生の転機を目前に控えた民に対し、何度も繰り返し語りかけるその姿は、単なる情報の伝達ではなく、神の言葉を生きる力として根付かせるための深い愛と責任の表れです。「申ねて」(繰り返して)語ることの重要性が、ここには込められています。
申命記5章の深い意味
申命記の原題はヘブライ語で「言葉」(デバリーム)です。七十人訳ギリシア語聖書では、「第二の律法」とされています。モーセは、訣別の言葉として、主に選ばれた民が心を尽くし、思いを尽くして守るべき主の戒めを一人称で一つ一つ情熱を込めて語っています。5章1節「聞け、イスラエルよ」(シェマア・イスラエル)と呼びかけから始まります。
・2節の「契約」(ベリート)を「結ぶ」(カラット)の直訳は「契約を切る」です。この表現の由来は、古代西アジア世界で広く行われていた契約の儀式にさかのぼります。契約を結ぶ際、動物をいけにえとして「切り裂き」、その肉片を左右に分けて地面に並べました。契約を交わす当事者は、その切り裂かれた動物の間を通り抜けるという儀式を行いました。これは、「もしこの契約を破れば、この動物のようにされても仕方がない」という厳粛な誓約の印でした。この慣習は、創世記15章でアブラハムと神との契約締結の場面にも描かれています。そこでは、神が命じてアブラハムが複数の動物を二つに切り裂き、向かい合わせに並べる場面が記されています(創世記15:9-10)。その後、神の象徴である煙と炎がその間を通り抜け、契約が成立しました。このような背景から、「契約を切る」というヘブライ語表現は、単なる合意や約束以上の、命を伴う真剣な誓いとしての「契約」の重みを示しています。切り裂かれる動物は、契約の破棄がもたらす結果と、当事者の覚悟を象徴しています。
・契約を「切る」と表現するのは、古代の契約儀式において動物を切り裂く行為が不可欠な要素だったためであり、それは契約の厳粛さと破棄した際の重大な結果を象徴していました。
・4節では、「顔と顔を合わせて」神と語ったのはモーセだけでしたが、イスラエルの民は荒野で本音や愚痴を神に対して直接訴えるほど近い関係であったと言えます。
さらに、6節からは出エジプト記20章の十戒を繰り返し、7節・8節・9節・11節・14節・17節・18節・19節・20節・21節では「ありえない」という否定の命令(ロー)が、10節・12節・13節・15節・16節では肯定の命令「守れ」(シャモル)が語られています。14節では、出エジプト記にない追加箇所として「あなたの牛やろば、奴隷」も休ませることが強調され、15節では安息日の意義として「エジプト脱出」が挙げられています。天地創造を強調する出エジプト記との違いも注目すべき点です。
また16節では「あなたの神、主が」「幸いを得る(あなたに良くなるために)」という追加があり、21節「あなたは欲しがるな」では行為以前の心の在り方が問われています。2節・3節についても、七十人訳とヘブライ語聖書で「おまえたちの」と「我々の」と訳語が異なり、3節では「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」と強調されています。七十人訳ギリシア語聖書では、「主はこの契約をおまえたちの父祖とではなく、おまえたちと結んだのだ。おまえたちはみな今日、ここに生きている。」と記されています。
・十戒が再び語られるこの場面で、神は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(5:6)という言葉で、ご自身を民に示します。律法は単なる規則やルールの集まりではなく、神と人との関係の中で与えられる、いのちの道しるべです。神の律法の根底には、人間の弱さや忘れやすさを知りつつも、何度でも語りかけ、導き直してくださる神の忍耐と慈しみが表れています。ただ従うべき義務としてではなく、神の愛に応えて歩む招きとして、その御言葉を受け止めることが求められています。
・私たちが日常生活の中で聖書の言葉を忘れてしまうことがあるいように、イスラエルの民もまた、繰り返し神の言葉を聞き直さなければなりませんでした。申命記が「申ねて命じる」書であることは、重要なことを何度も思い起こし、決して忘れずに心に刻み続けることが信仰の歩みに不可欠であることを教えています。神が民に何度も語りかけるのは、私たち一人ひとりの内に、神の約束と恵みをしっかり根付かせたいと願われているからです。
・この繰り返しには、単なる記憶の定着という目的だけでなく、人の弱さや迷いを受け止め、何度でもやり直すことのできる神の赦しとあたたかさが表れています。イスラエルの民が荒野を旅する中で、何度も迷ったり、失敗したり、神に立ち返ったように、私たちも人生の歩みの中で何度も神の御声を聞き直し、御言葉に立ち返る必要があります。そのたびごとに、神は「あなたはわたしのものだ」と繰り返し呼びかけてくださるのです。
・現代の私たちにも同じように、神の言葉は日々新しく、繰り返し心に届けられています。忙しさや困難、迷いの中でも、神の恵みの言葉に繰り返し向き合い、心に刻み、生活の隅々にまでその導きを求めていくことが大切です。神がどんな時代、どんな状況の中でも、私たち一人ひとりに語りかけてくださるという事実は、信仰者にとって大きな慰めと励ましとなります。
・今週も、神の御声に謙虚に耳を傾け、繰り返し語られる恵みの言葉に心から応え、日々の歩みの中で「申ねて命じる」恵みを味わい続けたいと願います。神の愛と招きが、私たちの心に深く根付き、どんな時にも希望の光となりますように。
「申ねて命じる」——繰り返しの恵み
・申命記5章に描かれるモーセの姿は、人生の岐路に立つ者たちにとって、繰り返しの重要性を深く教えてくれます。イスラエルの民は、長きにわたる荒野の旅を経て、ようやく約束の地を目前にしています。その決定的な瞬間に、モーセは神から与えられた十戒と契約の言葉をもう一度「申ねて」民全体に語りかけます。この「申ねて語る」行為は、単なる復唱や規則の確認にとどまらず、民一人ひとりの心に、神と自分との関係の重みと新しさを深く刻み込むためのものでした。
・繰り返しには力があります。たとえば、楽器の練習やスポーツのトレーニング、詩や歌の暗唱など、私たちは何度も同じことを繰り返すことで、体と心に知識や技術を染み込ませます。同じように、信仰の歩みもまた、神の御言葉や約束を何度も思い起こし、心に留め続ける営みと言えるでしょう。イスラエルの民が荒野で様々な困難に直面し、時には疑い、時には失敗しながらも、そのたびに神の御言葉と約束に立ち返ったように、現代を生きる私たちもまた、日々の生活や人間関係、悩みや迷いの中で、何度でも神の声を聞き直し、御言葉の真実に立ち返る必要があります。
・この繰り返しの中には、人の弱さや限界に寄り添う神の深い憐れみと配慮が息づいています。神は、民が一度理解すればよいとは考えず、何度でも語りかけ、やり直す機会を与えてくださいます。それは、私たちが失敗や過ちを犯したときも、絶望したときも、神が「あなたはわたしのものだ」と変わらぬ愛をもって呼びかけてくださるという、かけがえのない慰めと励ましとなります。
・また、現代社会は目まぐるしい変化と多忙の中にあり、私たちの心はしばしば騒がしく、神の声がかき消されがちです。しかし、聖書を開き、祈りの中で神の御言葉に触れるたびに、繰り返し届けられる恵みの言葉が、心の奥深くに染み入り、日々の歩みを照らす光となっていきます。たとえば、困難の中で「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」という御言葉が何度も思い起こされるように、神の約束は時を超え、状況を超えて、繰り返し私たちを力づけてくれるのです。
・申命記のモーセの語りと、イエス・キリストが新約聖書で弟子たちに語った「わたしの愛にとどまりなさい」という呼びかけは、時代も状況も異なりながら、根底に流れる神の愛の一貫性を示しています。モーセが「聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。」(5:1)と幾度となく語ったように、イエスも「とどまる」ことの大切さを弟子たちに繰り返し伝えています。それは、単なる外面的な律法の遵守ではなく、神との生きた関係を深め、日常のあらゆる場面で信仰を実践する力となるからです。
・私たちも、礼拝や聖書の学び、日々の祈りの中で、神の御言葉を何度も繰り返し心に刻み、生活の中に根付かせていきたいものです。繰り返される御言葉の恵みが、時として単調に思えるかもしれませんが、その積み重ねこそが信仰の根を太く、強くしていきます。そして、どんな時にも神の愛と招きが私たちを包み、希望の光となって進むべき道を照らしてくださいます。
・人生の歩みの中で困難や迷いに直面しても、繰り返し語られる神の言葉を頼りに、謙虚に耳を傾け、心から応え続けていきましょう。「申ねて命じる」恵みを味わいながら、今日も、明日も、そしてこれからも、神の愛と導きが私たちの人生に深く根付いていきますように。
招詞:ヨハネによる福音書15章10,17節
・ヨハネによる福音書15章10,17節の御言葉を招詞として味わいたいと思います。皆様と共にお読みしたいと思います。
-ヨハネ15:10,17「 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」「 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」 ありがとうございます。
・イエスが弟子たちに向けて語ったこの言葉には、「命じる」だけでなく、「とどまる」ことの大切さが込められています。また、申命記5章でモーセが神の民に「申ねて命じる」姿と深く響き合っています。
イエスの新しい契約と申命記の「申ねて命じる」
・申命記5章において、モーセはイスラエルの民に十戒を繰り返し語ります。これは単なる復習ではなく、民一人ひとりが「自分のこと」として神の契約を受け取るよう促すためのものです。モーセは「イスラエルよ、聞け」と繰り返し呼びかけ、神の言葉という命の泉に、民を導きます。
・新約聖書において、イエスは「新しい契約」をもたらします。ヨハネ15章でイエスは「わたしの愛にとどまりなさい」と語り、弟子たちに互いに愛し合うことを命じます。「命じる(エンテロマイ)」というギリシア語は、旧約の律法と同じく、「道しるべ」「導き」を意味します。しかしイエスの命令は、単なる規則の遵守ではなく、「愛にとどまる」ことが中心に据えられています。
イエスの「とどまりなさい」——ギリシア語メノオーの深い意味
・ヨハネ15章でイエスが語る「とどまりなさい」(メノオー)は、単に場所にいることを指すだけでなく、「深く根ざす」「持続する」「一体となる」というニュアンスを持っています。ぶどうの木のたとえの中で、枝が木につながっていなければ実を結ぶことができないように、信仰者もキリストにつながり続けることで命を受け取ります。
この「とどまる」という動詞は、肉体的な存在だけでなく、「関係性の持続」「信頼の継続」「愛の絆」を意味します。イエスが「わたしの愛にとどまりなさい」と命じるとき、それは律法の外面的行為よりも、神との親しい関係の中で、愛によって生きることを強く求めているのです。
モーセとイエスに共通する「命じる」と「関係」
・旧約の申命記と新約のヨハネ福音書には、時代も文脈も異なる中で、神が主導し、人に語りかける「命じる」という行為が共通しています。しかし、モーセの「命じる」は、神と民の契約関係を繰り返し確認し、民が神の民としてアイデンティティを新たにするためでした。
・一方、イエスの「命じる」は、弟子たちがキリストの愛に「とどまる」ことを通して、互いに愛し合う共同体を形成し、神の国の価値を具体的に生きることを目的としています。ここに、旧約と新約を貫く「関係性の回復」という神の意図が見いだせます。
律法から愛へ——新しい契約の転換点
・申命記5章の十戒は、神と民との間の律法契約を象徴しています。しかし、イエスは十字架によって新しい契約を成就し、律法の「文字」から「霊」へ、「義務」から「愛」へと、私たちの信仰のあり方を一新しました。「律法を守れ」という命令は、「愛にとどまれ」「互いに愛し合え」というイエスの新しい命令に結実します。
今日の私たちへの適用——繰り返しの中で「とどまる」信仰を生きる
・私たちが日々の生活で神の御言葉を「繰り返し」耳にし、心に刻んでいくことは、時として単調に思えるかもしれません。しかし、その繰り返しこそが、信仰の根を深く張るための大切な営みです。イエスが「わたしの愛にとどまりなさい」と呼びかけ、モーセが「耳を傾けよ」と重ねて語ったように、私たちも神の愛に「とどまり続ける」努力を惜しまず歩みたいものです。
・また、「申ねて命じる」ことは、教会や家庭の中でも大切な役割を果たします。親が子に、教師が生徒に、繰り返し大切なことを伝える営みの中に、聖書的な知恵が息づいています。「忘れないように」「道を誤らないように」ではなく、「愛の中にとどまるために」繰り返されるのです。
祈りと実践のすすめ
・今週、私たち一人ひとりが神の言葉に繰り返し耳を傾け、イエスの愛に「とどまり」、互いに愛し合う歩みへと招かれています。日々の祈りの中で「主よ、あなたの愛に今日もとどまらせてください」と願い、生活の小さな場面で「申ねて命じられた」神の言葉を生きていきたいと願います。
結び
・ヨハネ15章17節、イエスは「これらのことをあなたがたに命じる。それは、あなたがたが互いに愛し合うためである」と語られました。申命記5章で繰り返し命じられた御言葉と、イエスの「とどまりなさい」という招きは、一見違う時代・違う言葉に思えます。しかしその根底には、「関係性の回復」「愛の共同体の形成」という、変わらぬ神のご計画が響き合っています。
今週も、神の御言葉とイエスの愛に「とどまり」、繰り返される神の招きに応えながら、互いに愛し合う群れとして歩んでいきましょう。
お祈りします。
愛なる真の命の神さま、
今日もこうして、あなたの御言葉をともに聴き、イエス・キリストの愛に「とどまる」恵みにあずかれたことを心より感謝いたします。私たちが日々の営みの中で、繰り返しあなたの招きに耳を傾け、あなたの愛に根ざして歩むことができますように。律法を通して示された御心、そしてイエスが新しく命じてくださった「互いに愛し合いなさい」という言葉が、私たちの心に深く刻まれますように。
どうか、この一週間、私たち一人ひとりがあなたの愛にとどまり、出会うすべての人と愛を分かち合うことができますよう、聖霊によって力づけてください。私たちの思いと行いが、あなたの御心に従うものとなりますように。「とどまる恵み」と「繰り返される招き」に応え、あなたの愛の共同体を築いていく群れとして、導いてください。
この祈りを、私たちの救い主イエス・キリストのお名前によってお捧げいたします。
アーメン。