1.モーセの座に就く律法学者とファリサイ派の人々を非難する
・今週も聖書教育に沿ってマタイによる福音書23章から聴いていきます。
-マタイ23:2,3a「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」
・律法学者とファリサイ派の人々は「モ-セの座に就き」、モ-セの律法を研究し、民衆に教えていました。イエスは彼らの言う事の正しさを認められました。律法(モーセ五書)は紀元前五世紀に捕囚の地バビロンで編纂され完成しますが、時代の変化に応じた解釈が求められ、律法学者とファリサイ派の人々は再解釈を行い、民衆に厳格な律法厳守を求めていました。
-マタイ23:3b「しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」
・しかし、彼らはそれを実行しない。だから「行いは見倣うな」と言われます。彼らも実行できない厳格な律法厳守を民衆に求めていました。マタイはこの23章で激しく律法学者とファリサイ派の人々を非難します。マルコやルカに比べてその言葉は非常に厳しいです。紀元後70年の神殿崩壊に伴い、祭司階級が消滅し、ユダヤ教はファリサイ派中心の律法共同体になって行き、マタイ教会を始めとするクリスチャン信徒たちを激しく迫害しました。23章のファリサイ派批判は70年以降の情勢も色濃く反映している様です。
-ヨハネ9:22「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」
・イエスが生まれつき目の見えない人の肉の目と心の目を開き、その彼が神を知り、神を見て、神に跪くという神の業が現れた時代にもファリサイ派の人々の迫害があったことをヨハネも記しています。
・ファリサイ派は、成文律法(モーセ5書・トーラー)と同じ様に、解釈の積み重ねである口伝律法(くでんりっぽう・後のミシュナー)にも権威を認めていました。そのため律法の数は膨大になり、民衆にとっては背負い切れない重荷になっていました。しかも、彼ら自身は命令するだけで、律法を守れない人々を助けようともしませんでした。
-マタイ23:4「『彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとしない』」。
・イエスが「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」と教えているのは、律法の重荷のことと考えられます。イエスは律法の本質を「神を愛し、隣人を愛す」ことだと言われ、律法の細部も「神を愛し、隣人を愛す」の本質と何ら変わらないと言われました。
-マタイ11:28-30「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
・ファリサイ派の人々は「聖句の入った小箱を常に身につけていました」。彼らは自身が律法に忠実であることを民衆に見せるために、聖句の入った箱を目立つようにし、そして衣の房を長くしました。また彼らは宴会や会堂で上席に座ることを求め、広場で、先生と呼ばれることを求めました。彼らは人々からの賞賛・名誉を求めたのです。
-マタイ23:5-7「そのすることは、すべて人に見せるためであり、聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座に、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、「先生(ラビ、大いなる者)」と呼ばれたりすることを好む」。
・イエスは律法学者とファリサイ派の人々を批判すると同時に、弟子たちをも戒められます。「あなたたちの間で「先生」「父」「教師」の肩書で呼びあってはならない」と。「父」は「天の父お一人」だけであり、「教師(ラビ)」は「キリスト一人」だけである。あなたがた弟子たちは互いに兄弟と呼びあうべきです。共同体の中で序列争いをしていた当時の教会に対するマタイの警告がここに反映されています。
-マタイ23:8-12「だが、あなたがたは『先生(ラビ)』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで後は皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父お一人だけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
2.あなたたち偽善者は不幸だ
・イエスは「律法学者とファリサイ派の人たちは偽善者であり、人々の前で天の国を閉ざす」と非難しています。
-マタイ23:13-15「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人も入らせない。律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまう」。
・イエスは「誓ってはならない」と戒められたが、それは約束の言葉の信頼を無くさないためでした。ファリサイ派の人々は誓いをかける対象で、誓いの価値が左右されると考えていました。イエスはそれを批判されます。23章16節以下は、マルコやルカにはない、マタイの固有の資料に基づく批判です。
-マタイ23:16-17「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かでものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」。
・イエスは、彼らの教えがいかに形式主義に陥っているかを鋭く批判される。
-マタイ23:18-22「また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。」
3.仕える者になりなさい
・聖書は人間の罪の本質をエゴイズム・自己中心主義にあるとみています。イエスは、「人間は罪を背負った存在でありながら、その人間を神は一方的に受容し、愛してくださる。人間は既に神に赦されている。だから、この世的な生き方から解放されなさい」と言われる。それが「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」ということの意味だと考えられます。
・弟子たちもまたこの世の価値基準で動かされていました。だからイエスは彼らを戒められる「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。私たちは、「競争社会の中で勝ち続けなさい、そのために今は苦しい勉強や厳しいトレーニングに耐えなさい。それが必ず報われる時が来るから」、と教育されてきました。一言で言えば「勝ち組になり続けなさい」という生き方だ。それに対してイエスは「勝ち組になり続けて本当に人生は充実するものになるのか。利害損得だけで人は幸せになれるのか。人生は人と人が愛し合う時にこそ満たされるのではないのか」と言われます。私たちはイエスから「世にあって、神の国の価値観を生きる」人生へと招かれているのです。
・マタイ20章のぶどう園の労働者の譬えでは、1時間しか働かない・働けない労働者に主人は1日分の賃金を払う。その賃金がないと、その人の家族はその日のパンを食べることが出来ないからです。12時間働いた労働者は1時間働いた労働者よりも暑い日中にたくさんの仕事をした、役に立っていると思っているから、1時間しか働かない人と同じ賃金であることに抗議します。それに対して主人は言います。「あなたが12時間働くことが出来たのは、神があなたに健康な体と働く場所を与えてくれたからではないか。あなたが明日病気になって働くことが出来なくなっても、神はあなたに1日分の糧を下さるだろう。神の恵み、神の憐れみとはそのようなものだ」と。
・これだけのことをしたからそれに見合う報酬をほしいという「世の価値観」と存在することに意味があり、働くことが難しい場合は無償で糧を与えようという、「神の国の価値観」の対立がここにあります。この世は、作業効率や生産性向上こそ価値があるとする。イエスの弟子たちもこの視点に立ちます。イエスの生前にペテロは言いました「私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。ヤコブとヨハネも従属の見返りを求めました。しかしイエスは語られる。「父なる神は満足に働けない者にも1日分の糧を下さる。弱い人間、作業効率よく働ける人間でもなく、生産性向上を求められる存在でもない人間にも、生きることを許しておられます。私たちも年を取れば、また病気になれば、弱い人間、作業効率や生産性向上を求められない人間になる。その私たちをも生かして下さる弱い人にも優しい神の国のセイフティーネット・神の恵みを知った時、私たちの心に深い安心感と共に心から湧き上がる思いは感謝です」。その安心感と感謝が人に仕える行為へと私たちを導きます。主の祈り、『我らの日用の糧を今日も与えたまえ』。教会はこの世の価値観とは別の視点に立つ。その時、教会は世の光、地の塩になることが出来ます。教会はそれを目指す場であることを皆さんと共に確認したい。と思います。
・今週の招詞にコロサイの信徒への手紙1章25節を選びました。
「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」
私は4月から篠崎キリスト教会の副牧師として、神・主イエスキリスト・キリストの体である教会に、そして教会の兄弟姉妹に仕える者となります。今年の初めに川口牧師が全治4か月の重症で入院と聞いた時、どう礼拝を守るのか、守れるのか。不安の中で礼拝の宣教と礼典執行を代務しました。宣教は任されていましたが、礼典については鬼澤神学生と相談して祝禱は終禱として行い、主の晩餐式は牧師を目指す神学生信徒による参与として現状のオープンで執行代務する事としてこの3月迄続けて来ました。執事と教会員皆様のご理解とご協力によるものであると感謝していますが、同時に川口牧師が私達の礼典執行を黙認してくださった事も大きかった。と理解しています。3月30日の総務執事・神学生・私の按手は中止となりましたが、4月から主任牧師不在、礼典を委託されていない副牧師の状態で礼拝の礼典をどうしたら良いのか?洗礼(バプテスマ)の予定が有るからとの理由ではなく、毎週の・毎月の礼拝の礼典執行を可能にする為に現に宣教と礼典執行代務している私と鬼澤寛神学生に按手を再検討して頂きたいと思います。誰から按手を受けるのかは重要な事です。私は是非川口牧師から按手を受け、篠崎の牧会と宣教と礼典のバトンを受け、引き継ぎたいと切に願っています。