江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2025年3月16日(マタイによる福音書21:12-17、幼子や乳飲み子たちの賛美)宣教:鬼澤神学生

投稿日:2025年3月17日 更新日:

https://www.youtube.com/watch?v=dcQRxdACWbo

 

1.神殿での出来事
・皆さん、今日ご一緒に学ぶのは、イエスが神殿でなさった出来事です。
この場面には、神の御前にあるべき姿がどのようなものなのか、
また、幼子のような賛美がいかに大切であるかが描かれています。
・まず、私たちが思い浮かべる神殿とはどのような場所でしょうか?
それは、神を礼拝し、祈るための聖なる場所です。
神殿に集う人々は、神を第一にし、心を尽くして礼拝をささげるべきでした。
・しかし、イエスが訪れたとき、そこでは何が起こっていたでしょうか?
人々の心は神から離れ、神殿の境内は商売の場となり、利益が優先されていました。
そこには、本来あるべき「祈りの心」「神への信仰」が見られず、
神殿はまるで市場のような様相を呈していたのです。
・そこで、イエスは怒りをもって行動されました。
商人たちを追い出し、両替人の台をひっくり返し、こう言われました。
・「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:13)
・これは、単に神殿の中で商売をしていたことを問題視されたのではありません。
それ以上に、人々が神を第一とせず、自分の利益や形式的な信仰にとらわれていたことが問題だったのです。

2. イエスの怒り:何が間違っていたのか?
・皆さん、聖書の中でイエスが激しく怒りをあらわにされた場面は、それほど多くはありません。
しかし、この神殿での出来事は、その数少ない場面の一つです。
それほどまでに、イエスの心を痛めたものとは何だったのでしょうか?
なぜ、イエスはここまで厳しく行動されたのでしょうか?
・それは、「神の家が、本来あるべき姿を失ってしまっていたから」 です。
神殿とは、何のためにあるのでしょうか?
それは、人々が神を礼拝し、祈りをささげるための場所。
神に心を向け、神との交わりを深める場所です。
・しかし、イエスが訪れたとき、そこには何があったでしょうか?
祈りの場であるはずの神殿が、商売の場 へと変わってしまっていたのです。
人々は、神を礼拝することよりも、利益を追い求めることに夢中になっていました。
〈商売の裏にあったもの〉
・神殿で行われていた商売は、一見すると必要なものでした。
巡礼者たちは、神殿で供え物をささげるために、動物を購入しなければなりませんでした。
また、献金を捧げるためには、特定の通貨に両替する必要がありました。
そのため、商人たちは動物を売り、両替人たちは通貨を交換する役割を担っていたのです。
・しかし、そこには大きな問題がありました。
供え物の動物は、不当に高い価格で売られていました。
両替の際の手数料も、必要以上に高く設定されていました。
つまり、商人たちや両替人たちは、神を礼拝しようとする人々から利益をむさぼっていた のです。
・特に、貧しい人々にとっては、この仕組みは大きな負担でした。
彼らは、神を礼拝したくても、高額な供え物を買うことができませんでした。
神のもとに来ることを願いながらも、経済的な理由でそれができない。
そういう人々がいたのです。
・これが、イエスの心を痛めたのです。
イエスは、目に見える商売の問題だけでなく、
その背後にある、人々の心の問題を見抜いておられました。
〈「祈りの家」が「強盗の巣」に〉
・イエスは、商人たちを追い出し、両替人の台をひっくり返し、こう言われました。
「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。
ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:13)
これは、強い言葉です。
なぜ「強盗の巣」と言われたのでしょうか?
・神殿の中で行われていた商売は、単なる売り買いではなく、人々の信仰を利用し、搾取する仕組み になっていたのです。
・本来、神殿は「すべての人が神の前に出て祈ることのできる場所」であるはずでした。
それなのに、一部の人々が権力を持ち、利益を追求し、貧しい人々や弱い立場の人々を排除する場所となってしまっていたのです。
・だからこそ、イエスはこの状況に対して、神殿を本来の姿に戻すために行動された のです。
・ここで、私たち自身に問いかけてみたいと思います。
「私たちの心の神殿はどうなっているでしょうか?」
私たちは、神を礼拝すると言いながら、本当に神を第一にしているでしょうか?
・あるいは、私たちの信仰は、表面的なものになってはいないでしょうか?
・イエスが怒りをもって行動されたのは、単に商売の問題ではありません。
それは、人々の心が神から離れ、自己中心的になってしまっていたこと なのです。
私たちの心の中にも、時として「強盗の巣」となってしまうものがあります。
• 自分の利益を優先してしまうとき
• 形式的な信仰に満足してしまうとき
• 神を第一にすることよりも、この世の価値観に流されてしまうとき
・イエスは、神殿を清められました。
それは、目に見える建物だけでなく、
私たちの心の神殿もまた、清められるべきだ ということを示しておられるのです。
〈心の神殿を「祈りの家」として整えよう〉
・イエスが言われたように、
神の家は 「祈りの家」 であるべきです。
・そして、それは教会だけでなく、私たちの心の中にも「祈りの家」を持つことが求められています。
・もし、私たちの心が「強盗の巣」のように、自己中心的な考えで満たされているなら、今こそ、イエスに心を清めていただく必要があります。
・神を第一にする心を取り戻しましょう。
形だけの信仰ではなく、心からの礼拝をささげましょう。
祈りの家として、自分の心を整えましょう。
・そうすることで、私たちは、本当に神が喜ばれる信仰の歩みへと導かれていくのです。
・あなたの心の神殿は、今どのような状態でしょうか?
イエスが清めてくださることを願い、祈りの家として整えていきましょう。

3. 神殿に集まった人々:目の見えない人と足の不自由な人
・皆さん、イエスが神殿を清められた後、そこに集まってきたのは、どのような人々だったでしょうか?
・それは、目の見えない人、足の不自由な人たち でした。
彼らは、当時の社会の中で、最も弱い立場に置かれていた人々でした。
・当時の宗教指導者たちは、病気や障がいを持つ人々を、「罪の結果」と見なしていました。
彼らが苦しんでいるのは、本人や家族の罪のせいであると考えられ、神殿に入ることすら許されないことがあったのです。
・つまり、神を礼拝したくても、「あなたは神にふさわしくない」と退けられてしまう人々がいたのです。
彼らは、社会の中で二重の苦しみを負っていました。
病や障がいそのものの苦しみ、そして、それによる人々からの拒絶。
・しかし、イエスは違いました。
イエスは、彼らを拒むことなく、受け入れ、その傷ついた体と心を癒されました。
〈イエスが見ておられたもの〉
・イエスの目には、社会的な身分や能力の違いは何の意味もありませんでした。
イエスが見ておられたのは、ただ一つ、「神の前にへりくだり、助けを求める心を持つかどうか」 でした。
・ここで、私たちに問われていることがあります。
「私たちは、神の前にどのような心で立っているでしょうか?」
・私たちは時に、知識や経験、地位や実績に頼ってしまいます。
「私はこれだけ聖書を知っている」
「私は長年、教会に通っている」
「私はこれだけの働きをしている」
そうしたことで、自分を誇ってしまうことはないでしょうか?
・しかし、イエスは言われました。
「心の貧しい者は幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)
・神の恵みにあずかるのは、知識や経験、地位や実績によるものではありません。
むしろ、自分の弱さを認め、神の前にへりくだる者こそが、イエスの愛と恵みを受けることができるのです。
・あなたは、神の前にどのような心を持っていますか?
・イエスが神殿を清められた後、そこに来たのは、社会から排除された人々でした。
彼らは、何も持っていませんでした。
財産も、名誉も、社会的な地位もありませんでした。
しかし、彼らは神の前にただ、「主よ、助けてください」 と願い求める心を持っていました。
・そして、その願いは、イエスによって聞き入れられたのです。
・では、私たちはどうでしょうか?
私たちは、自分の正しさを誇ってしまってはいないでしょうか?
自分の力に頼り、神に助けを求めることを忘れてはいないでしょうか?
・今日、イエスは私たちにも同じ問いを投げかけておられます。
「あなたは、どのような心で神の前に立っていますか?」
・もし、あなたが自分の力に頼り、自分の知識や経験にしがみついているなら、今こそ、へりくだって神に助けを求めましょう。
・イエスは、あなたを拒むことなく、あなたを受け入れ、あなたの心を癒してくださるお方です。
私たちも、目の見えない人や足の不自由な人々のように、神の前にへりくだり、ただ、「主よ、助けてください」 と祈る者となりましょう。

4. 幼子や乳飲み子たちの賛美
・皆さん、この場面で、神殿の中に響き渡ったのは、誰の声だったでしょうか?
・それは、大人たちではありませんでした。
立派な信仰者と見なされていた宗教指導者たちでもありませんでした。
それは、幼い子どもたちの声でした。
彼らは大きな声で叫んでいました。
「ダビデの子にホサナ!」(マタイ21:15)
・これは、ただの子どもたちの無邪気な叫びではありませんでした。
この言葉には、深い意味が込められていました。
・「ダビデの子」 とは、イスラエルの民が待ち望んでいたメシア(救い主)の称号です。
「ホサナ」 とは、「救ってください!」 という祈りであり、また同時に、
「救い主が来られた!栄光あれ!」という賛美でもありました。
・つまり、子どもたちは、イエスこそがメシアであり、救い主であることを知っていたのです。
彼らは、計算や理屈ではなく、ただまっすぐにイエスを賛美しました。
〈祭司長たちの反応〉
・しかし、これを聞いた宗教指導者たちは、怒りました。
彼らはイエスに詰め寄り、こう言いました。
「子どもたちが何と言っているか聞こえるか?」(マタイ21:16)
て祭司長たちは、イエスが子どもたちの賛美を止めることを期待していました。
彼らにとって、子どもたちがイエスを「ダビデの子」と呼び、メシアとしてたたえることは、受け入れがたいことだったのです。
・しかし、イエスはこう答えられました。
「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」(マタイ21:16)
これは、詩編8:2の言葉を引用したものです。
・「幼子、乳飲み子の口によって、あなたは刃向かう者に向かって砦を築き報復する敵を絶ち滅ぼされます。」(詩編8:3)
・イエスは、この聖書の言葉を通して、神の国にふさわしい者とは誰なのかを示されました。
〈神の国にふさわしいのは誰か?〉
・イエスがここで語られたことは、「神の国に入るのは、賢い者や権力者ではなく、純粋な心で神を受け入れる者である」 ということでした。
・祭司長や律法学者たちは、長年にわたって聖書を学び、律法を守ってきました。
彼らは知識があり、社会的な地位も持っていました。
しかし、彼らの心はかたくなになり、目の前にいる救い主を認めることができませんでした。
・一方、幼子たちはどうだったでしょうか?
彼らは、知識も地位もありませんでした。
しかし、彼らの心は開かれていました。
彼らは、目の前のイエスが救い主であることを素直に信じ、心からの賛美をささげたのです。
・これこそが、神が求めておられる信仰の姿なのです。
私たちの信仰はどうでしょうか?
ここで、私たち自身に問いかけてみましょう。
・私たちは、信仰をどのように持っているでしょうか?
信仰が、単なる知識や義務になってしまってはいないでしょうか?
• 「私は聖書を知っている」
• 「私は教会に長年通っている」
• 「私は正しい行いをしている」
そうしたことで、私たちは信仰を測ってしまうことはないでしょうか?
・もちろん、聖書を学ぶことは大切です。
神の教えを守ることも大切です。
しかし、それ以上に大切なのは、神の前に、幼子のように素直な心を持つことなのです。
〈幼子のように神を賛美する〉
・幼子たちは、計算や理屈でイエスを賛美したのではありません。
ただ、目の前にいるイエスを愛し、信じ、心からの賛美をささげました。
・神は、そんな純粋な信仰を喜ばれます。
神の国は、賢い者や知識のある者のためではなく、神を素直に信じ、賛美する者のためにあるのです。
・イエスは、こう言われました。
「もし、あなたがたが回心して子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3)
・これは、私たちにとって重要なメッセージです。
私たちは、もっと子どものような信仰を持つべきなのです。
私たちも、心から「ホサナ!」と叫ぼう!神は私たちに語っておられます。
「あなたの信仰は、幼子のように純粋なものですか?」
• あなたの信仰は、心からの賛美にあふれていますか?
• あなたは、計算や理屈ではなく、ただ神を喜んでいますか?
• あなたは、神の前で子どものように素直な心を持っていますか?
・もし、信仰が知識や義務になってしまっているなら、今こそ、幼子のような信仰を取り戻しましょう。
・私たちも、子どもたちと同じように、心から「ホサナ!」と叫び、イエスを救い主として賛美しましょう。
それこそが、神が喜ばれる信仰なのです。

5. 私たちも幼子のように
・皆さん、今日の箇所から、私たちは三つの大切なことを学びました。
1. イエスは、偽りの信仰を取り除き、心の神殿を清めようとされる。
神殿で商売が行われ、人々が礼拝よりも利益を優先していたとき、
イエスは怒りをもってそれを正されました。
それは、目に見える神殿だけの話ではありません。
私たちの心の神殿もまた、清められるべきなのです。
もし、私たちの信仰が形だけのものになっているなら、もし、私たちが神を第一にすることを忘れているなら、今こそ、イエスに心を清めていただきましょう。
2. 神の前にへりくだる者こそ、イエスの恵みにあずかる。
目の見えない人や足の不自由な人々は、神殿に入ることすら許されないことがありました。
しかし、イエスは彼らを拒まず、むしろ、受け入れ、癒されました。
なぜでしょうか?
それは、彼らが神の前にへりくだり、助けを求める心を持っていたからです。
神の前に出るとき、大切なのは、私たちの知識や経験、地位や実績ではありません。
「主よ、私はあなたを必要としています」
このへりくだった心こそが、神の恵みを受ける鍵なのです。
3. 神の国にふさわしいのは、幼子のような純粋な賛美と信仰を持つ者である。
神殿で、子どもたちは叫びました。
「ダビデの子にホサナ!」
彼らは、ただ心のままに、イエスを救い主と認め、賛美しました。
しかし、宗教指導者たちは、この賛美を不快に思いました。
彼らは聖書を知っていたにもかかわらず、目の前にいるメシアを受け入れることができませんでした。
知識や経験ではなく、幼子のような純粋な心こそ、神の国にふさわしいのです。
・あなたの心の神殿はどうなっていますか?
・皆さん、今日、神は私たち一人ひとりの心に語りかけておられます。
・あなたの心の神殿は、今どのような状態でしょうか?
そこは、神を第一にする「祈りの家」となっているでしょうか?
それとも、私たちの自己中心的な思いや、世の価値観で満たされているでしょうか?
・もし、私たちの心の中に、
• 形式的な信仰
• 自己中心的な思い
• 人の目を気にする信仰生活
があるならば、今日こそ、それを取り除き、心を神のもとへと向け直す時です。
・神は、あなたの心の神殿を「祈りの家」としたいと願っておられます。
そして、幼子のように純粋な心で神を賛美し、信頼することを求めておられます。
〈理屈ではなく、心から神を愛し、賛美する者となろう〉
・今日、私たちも心を開きましょう。
余計な理屈を手放し、
神を知識として理解しようとするのではなく、ただ、神を愛し、神を信頼し、神を賛美する者となりましょう。
・イエスは言われました。
「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた。」

この御言葉が、私たちの信仰のあり方となりますように。
私たちの信仰が、ただの知識ではなく、心から神を喜び、神を賛美するものとなりますように。
・今日、あなたの心の中で、「ホサナ!」と叫びましょう。
あなたの救い主であるイエスを、心からお迎えしましょう。

 

 

 

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