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・本日、私たちはマタイによる福音書8章5節から13節の箇所を通して、イエスが示された愛とその権威について共に学んでいきます。この物語には、信仰の本質とは何か、そして神の愛がどのように働くのかという、私たちの信仰生活において非常に重要なメッセージが込められています。この箇所を深く味わいながら、私たちがイエスの愛と権威にどのように応答すべきかを考えていきましょう。
・また、今日の招詞である詩篇103篇13節の言葉を心に留めてください。
「父がその子を憐れむように 主は主を畏れる人を憐れんでくださる。」
この詩篇の言葉は、神が持つ深いあわれみと愛の性質を力強く語っています。イエスが百卒長の願いに応えたその行動には、この神のあわれみ深い本質が色濃く表されています。イエスはどのような時にも、私たちの必要に目を留め、無条件の愛をもって応えてくださるお方です。
・この物語を通して、私たちもまた信仰をもって主に近づき、心からの応答を捧げる者となりましょう。それは、単にイエスの愛に気づくことだけでなく、その愛に応える具体的な行動として表されるべきものです。この時間を通して、イエスの愛の深さをさらに知り、主の権威に従う信仰の歩みへと進んでいきましょう。
1. 百人隊長の謙遜な信仰
・この物語は、イエスがカペナウムに戻られたときの出来事から始まります。ある百人隊長が、自分の家で大切にしている僕が重い病に苦しんでいることをイエスに訴えました。この百卒長の行動には、私たちが信仰者として学ぶべきいくつかの重要な姿勢が込められています。
・まず、特に注目すべきは、彼の謙遜な態度です。百人隊長はローマ軍の高官であり、権威と力を持つ立場にありました。しかし、彼はその地位に誇りを持ってイエスの前に立つのではなく、むしろへりくだった心をもってイエスに近づきました。彼はこう言います。
「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉をください。そうすれば僕はなおります。」
・この言葉は、彼の深い信仰とイエスへの完全な信頼を表しています。百人隊長は、イエスが自分の家に来て直接触れる必要がないことを理解していました。彼にとっては、イエスの「お言葉」こそが力そのものであり、それだけで病がいやされると確信していたのです。このような信仰は、イエスご自身が驚かれるほどのものでした。なぜなら、当時のイスラエルの民の中でも、これほどの信仰を持つ者は非常に稀だったからです。
・私たちは、この百卒長の姿勢から何を学べるでしょうか?まず第一に、自分の立場や能力に頼るのではなく、神の力と権威を信じて委ねる謙遜さです。そして、神の言葉そのものに力があると信じ、それに全幅の信頼を置く信仰です。彼の行動と言葉は、私たちに「信仰とは何か」を改めて問いかけています。
・この物語を心に留めながら、私たちもまた百卒長のように、へりくだりつつ主の力を信じる者となりましょう。イエスの言葉が持つ力を信じ、その愛と権威に応答していく歩みを選び取りましょう。
2. イエスの愛と権威
・百人隊長の信仰に触れたイエスは、その姿勢に深く感心され、こう語られました。
「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」
・この言葉には、とても深い意味が込められています。イスラエルの民は、神に選ばれた特別な民であり、旧約聖書に記された神の約束を受け継ぐ者たちです。しかし、イエスはその民の中にさえ、このような純粋で力強い信仰を見たことがないと述べられました。ここでイエスが認めた百卒長の信仰とは、単なる感情的な信頼ではなく、神の御言葉の力とその権威を完全に信じる確信に満ちたものでした。百人隊長は、イエスが自ら行動されなくても、ただ一言の言葉を発するだけで僕がいやされると信じていたのです。
・この場面で、イエスの愛と権威がどれほど広く、深いものであるかがはっきりと示されています。まず、イエスは百人隊長がローマの軍人であることや異邦人であることを理由に拒むことはありませんでした。当時のユダヤ人社会では、異邦人との接触は避けられることが一般的でしたが、イエスはそのような偏見にとらわれることなく、百人隊長の信仰を受け入れ、その願いに応えられました。
・さらに、イエスの行動を通して示された愛は、特定の民族や立場に限定されるものではありませんでした。それは、神を信じるすべての者に等しく注がれる無条件の愛です。イエスの愛には壁がなく、その権威は言葉ひとつで遠く離れた者にさえ届くのです。この奇跡は、イエスの愛と権威が、肉体的な距離や社会的な隔たりを超えて働くものであることを強く教えています。
・この物語を通して、私たちはイエスの愛の広さと深さを知ることができます。そして、私たちもまた、百人隊長のようにイエスの権威を信じ、その愛に応答する信仰を持つことが求められています。イエスが示された無条件の愛と、その権威の力を思いながら、私たちの信仰生活を深めていきましょう。イエスの言葉には力があり、私たちがどんな状況にあっても、それに応えてくださることを信じて歩む者でありたいと願います。
3. 信仰の応答と祝福
・イエスは百人隊長に対して、こう語られました。
「行け、あなたの信じたとおりになるように。」
・そして、その瞬間、彼の僕はいやされました。この出来事は、信仰がどれほどの力を持つのかを、私たちに鮮やかに示しています。百人隊長の信仰は、単なる希望や願望ではありませんでした。それは、イエスの権威と力を完全に信じ、疑うことのない確信に満ちたものでした。彼は、自分の力ではどうにもできない状況の中で、イエスだけが救い主であり、全てを変える力を持っていると信じていたのです。そして、イエスはその信仰に応えて奇跡を行われました。
・この物語を通して示されているのは、信仰が神の働きにどれほど大きな役割を果たすかということです。百人隊長の信仰には、謙遜と確信、そしてイエスへの完全な依存がありました。彼は「お言葉だけで十分です」と語り、イエスの権威を信じ切ったのです。このような信仰をもって応答する者に対して、イエスは祝福を惜しむことなく注いでくださるのです。
・また、イエスの言葉とその結果から、私たちは神の愛とあわれみ深い性質を改めて見ることができます。詩篇103篇13節に記されているように、
「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。」
この招詞が語る神の愛は、ただ情け深いだけではなく、信じる者に具体的に働きかけ、癒しと祝福を与える力強い愛です。百卒長は、この神の愛に信仰をもって応答しました。そしてその信仰は、彼自身だけでなく、彼の僕にまで祝福をもたらしました。
・私たちも、この物語から学ぶべきことがあります。私たちが信仰をもって神に応答するとき、神はその信仰に応じて働かれるお方です。そして、私たちの生活の中で奇跡を起こし、必要に応えてくださるのです。このことを心に刻み、神への信頼と謙遜な心をもって歩む者となりましょう。
・たとえどんなに困難な状況にあっても、イエスの権威と力を信じ、神に祈り求めるとき、その信仰は私たちを祝福へと導きます。この信仰の応答を通して、私たちも百卒長のように神の力と愛を経験し、その恵みを証しする者となりたいと願います。
4. 東から西から集まる者たちへの約束
・イエスは百人隊長の信仰を称賛されるとともに、さらなる教えを語られました。
「多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく。」
・この言葉には、イエスが示された救いの計画の壮大さが込められています。救いはイスラエルの民だけに限られたものではなく、全世界、すべての国々の人々に広がるのです。百卒長のように、イエスを信じる信仰を持つ者は、民族や文化に関係なく、神の国に迎え入れられるのです。これは、神の恵みがどれほど大きく、深いものであるかを教えてくれる力強いメッセージです。
・しかし同時に、イエスは警告もされています。
「一方で、神の国の子らは外の暗闇に放り出され、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりする。」
ここには、信仰を持つことの重要性が強調されています。救いは神の恵みであり、誰にでも開かれたものですが、それを拒む者、神の愛を受け入れない者は、その恵みを享受することができません。信仰は単なる形や言葉ではなく、心からの応答であるべきなのです。
5.私たちへの招き
・皆さん、この百人隊長の信仰から私たちは何を学べるでしょうか?それは、イエスの愛と権威をどのように受け止め、応答するかという問いを投げかけています。百人隊長の信仰は、謙遜で、イエスの言葉に完全な信頼を置いたものでした。彼は自分の立場や力に頼らず、ただイエスの権威に希望を託しました。そしてその信仰が、奇跡をもたらしたのです。
・私たちもまた、百人隊長のように謙遜な心を持ち、イエスの御言葉を信じ、信仰によって生きることが求められています。イエスの愛はすべての人に注がれており、それは私たちがどのような背景や過去を持っていても変わりません。イエスの愛は私たちを包み込み、その愛の中に私たちは新しい命を見出すことができるのです。
・今日の詩篇103篇13節の招詞にあるように、「父がその子を憐れむように 主は主を畏れる人を憐れんでくださる。」
神のあわれみは、信じるすべての者に注がれるものです。私たちは、この神の深い愛とあわれみに信頼し、信仰を持って歩むよう招かれています。どうか、今日の御言葉を通して、イエスの愛と権威を新たに受け入れ、信仰をもって生きる決意を深めていきましょう。