(正義と憐れみの神の声に応える)
・おはようございます。アモス書3週の内の1週目です。
私たちは日々の生活の中で、人間関係や社会の問題に直面しながら、「神はどのようなことを私たちに求めておられるのだろうか」と思い悩むことがあります。旧約聖書アモス書1章と2章は、まさにその問いに対する答えの一つを示しています。アモスは紀元前8世紀、社会的・宗教的腐敗が進んだイスラエルとその周辺諸国に向けて、神の言葉を預かった預言者でした。
・アモス書に記されている神の声は、私たちが社会の中でどのように生きるべきかという指針を与えてくれます。預言者アモスの使命は、単なる警告ではなく、神との関係を回復し、隣人に対する愛と正義を実践することへと人々を導くものでした。私たちもまた、日々の選択や行動を通して、神の求められる正義と憐れみを自らの生活の中に反映させることが求められています。
(アモス書1章と2章の背景)
・アモス書の冒頭である1章と2章では、まずイスラエルの隣国であるダマスコ、ガザ、ティルス、エドム、アモン、モアブといった諸国への神の裁きが語られます。これらの国々は、暴力や残虐、背信などの罪に満ちていました。神は「三つの罪、四つの罪のゆえに…」と繰り返し、彼らの行った悪に対する厳しい裁きを宣言されます。その後、2章ではユダ、そしてイスラエル自身にも神の裁きの言葉が向けられます。
・アモスが語った神の言葉は、当時の人々だけでなく、現代を生きる私たちにも深い問いかけを与えています。彼は、見せかけの宗教的な儀式や形式だけではなく、日々の生活の中で実際に行われている正義や隣人への配慮の欠如を厳しく指摘しました。神は、私たちの心のあり方や行動の一つ一つを見ておられることを忘れてはいけません。
・アモス書1章と2章のメッセージは、単なる歴史的な出来事や遠い過去の物語ではありません。私たちが生きる現代社会においても、貧しい人々や弱い立場の人々が不当に扱われたり、正義が軽んじられてしまう場面が少なくありません。神はそのような社会のあり方に対して、今もなお、私たち一人ひとりに問いかけておられます。
・また、アモスが語った神の裁きや警告は、恐れや絶望を与えるためのものではなく、むしろ悔い改めと回復への道を示す招きでもあります。神は、私たちが真実に立ち返り、隣人と共に生きる社会を築くことを望んでおられます。
(神の正義はすべての人に及ぶ)
・ここで注目すべきは、神の正義の普遍性です。イスラエルの民はしばしば「自分たちは選ばれた民であり、特別な存在だ」と考えています。しかし、アモスはまずイスラエルの外にある国々の罪を指摘し、彼らにも神の裁きが下ることを明らかにします。それは、神の御前においてはどの国も、どの民族も、公平に裁かれるということを意味しています。
・また、2章6節以降ではイスラエル自身の罪が糾弾されます。貧しい者を虐げ、正義を曲げ、神に背き続けてきた民に対し、神は「お前たちをエジプトの地から上らせ/四十年の間、導いて荒れ野を行かせ」(2:10a)と慈しみを示されながらも、彼らの罪を厳しく裁かれます。
・このように、アモス書のメッセージは、表面的な信仰や形式主義ではなく、生活の具体的な場面でどのように神の正義と憐れみを実践しているかを問います。信仰とは、日々の選択や態度、行動に現れるものであり、決して他人事ではありません。私たちが直面する小さな決断の積み重ねが、神の御心にかなう歩みとなることを意識しましょう。
・アモス書1章と2章に記されている裁きの宣言には、神の正義が決して一部の人々や国だけに向けられるものではなく、すべての人間社会に共通して求められているものであることが示されています。現代に生きる私たちも、社会の中で日々どのような選択をしているか、行動が公正さや思いやりに基づいているかを問い直す必要があります。また、神のメッセージは、悔い改めと新しい歩みへの希望をもたらしていることを心に留めるべきです。
(招詞)
・招詞にペトロの手紙一3章14節を選びました。ご一緒にお読みしたいと思います。―「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」 ありがとうございます。
・ここで引用されたペトロの手紙一3章14節の御言葉は、アモス書1章と2章が語る神からの問いと深く響き合います。アモス書では、正義と憐れみを実践しない社会や個々人に対して神の厳しい裁きが宣言されますが、それは単なる罰ではなく、悔い改めと真の正義への回帰を促すための呼びかけです。
・一方、ペトロの手紙一3章14節は、新約時代に生きる信徒たちに対し、義を貫くゆえに受ける苦しみを恐れず、心を乱さずに歩むよう励ましています。アモス書が示す「正義を行うことの大切さ」と、ペトロの手紙一が語る「義のために苦しむことの価値」は、いずれも神の御心にかなう生き方を求めるという点で共通しています。
・つまり、アモス書の神からの問いは、私たちが日常の中で正義と憐れみをどのように実践しているかを問うものであり、ペトロの手紙一は、その実践の中で困難や苦しみに直面しても揺るがずに歩むようにと励ましています。両者は、信仰が単なる理論や形式ではなく、具体的な行動と選択に現れるべきこと、そしてその道のりで神が共にいてくださることを私たちに教えています。
・このことから、神の正義に対する私たちの応答がいかに重要であるかが強調されます。神は、単なる外面的な儀式や宗教的慣習ではなく、心から正義と憐れみを追求する生き方を求めておられるのです。日々の生活において、どんなに小さな選択であっても、神の御心にかなうかどうかを意識しつつ、誠実に歩むことが求められているのです。
(現代へのメッセージ)
・では、私たち現代に生きる者にとって、このアモス書1章と2章はどのような意味を持つのでしょうか。
・まず、神の正義について考えます。私たちは、自分自身や自分が属する集団だけが特別なのではなく、神の正義はすべての人に等しく及ぶことを心に留める必要があります。自分の身近なところで、弱い立場にある人々を無視したり、不正を見過ごしてはいないか、今一度省みたいと思います。
・アモスの預言の目的は、単に裁きを宣告することではありませんでした。民が自らの罪に気づき、神のもとに立ち返ることを促すために語られました。同じように、私たちも自分自身の言動や心のあり方を振り返り、神の前に悔い改める機会としたいと思います。
・さらに、社会や教会、家庭、職場といったさまざまな場面で、正義と憐れみを実践することが求められています。具体的には経済的に困窮している人、障がいや病気を抱えている人、高齢者、ひとり親家庭の親子、外国籍の人々、失業中の方、差別や偏見に苦しむ人、災害や不慮の事故で困難に直面している人などが弱い立場にある人々として挙げられます。私たちはこうした貧しい人や困っている人、弱い立場の人に寄り添い、神の愛と正義を表す者となるよう努めたいと思います。
・このメッセージは、単なる個人的な信仰の問題を超え、社会全体のあり方にも深く関わっています。現代社会においても、形式だけの信仰や慣習に流されることなく、隣人への思いやりや、弱い立場の人々への具体的な支援に目を向けることが求められています。私たちが日々の生活で示す小さな親切や誠実な行動こそが、神の正義と憐れみを現す第一歩となるのです。
・このように、アモス書1章と2章は私たちに、日々の歩みの中で正義と憐れみを具体的に実践する責任を問いかけています。神の御心に従うことは、単なる理論や知識にとどまらず、現実の社会において「隣人愛」を形にすることを意味します。私たちは、無関心や自己中心的な態度に流されることなく、目の前の困難や課題に誠実に向き合う勇気を持つことが求められています。必要としている人々の良き隣人、善いサマリア人となることが求められているのです。
(結びに)
・アモス書1章と2章は、「神の正義と憐れみ」に生きるよう私たちを招いています。神はすべての人を愛し、同時に罪を見過ごすことはありません。私たち一人ひとりが、神の御前に正しく歩み、悔い改めと愛の実践に生きることができますように、心から祈ります。
・現代の私たちにとって、アモス書のメッセージは非常に示唆に富んでいます。情報や価値観が多様化する社会の中で、正義や憐れみといった基本的な価値を見失わないことが、より重要となっています。日常生活の中で、身近な人々への共感や配慮を積み重ねることが、神の御心にかなう歩みへと導くのです。
(お祈り)
・お祈りします。真の命の神のみ名を賛美します。
私たちは静かに心をあなたに向け、日々の生活の中で正義と憐れみを実践できるよう導きを求めます。自分自身の弱さや過ちを認めつつ、周囲の人々に思いやりと誠実さをもって接することができますように。そして、困難な状況の中でも、神の愛に倣い、隣人を大切にする歩みを続ける力をお与えください。
・私たちが日々の歩みの中で「神の正義と憐れみ」を実践できる様整えてください。
周囲に目を向けることの大切さと必要としている人の良い隣人となることが出来ます様に。身近な行動から始めることができます様に。自分の考えや行動を振り返り、誰かを傷つけていないか、不公平な態度を取っていないかを省みることが出来ますよう私たちを日々整えてください。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。