【招詞】「人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。」(ヨナ1:16)
【第一部】逃げる預言者――召命から背を向けたヨナ
神は語られます! そして、神が語られるとき、それはただの言葉ではありません。それは命を呼び出す声、魂を揺り動かす声、あなたをその場に立たせ、行動させる――神ご自身の声なのです!
ヨナ書の始まりは、こう記されています。
「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。」
そうです、これはただの物語の導入ではありません。これは神の召命の瞬間です。創造主なる神が、ひとりの人間――ヨナという預言者に、はっきりと語りかけたのです。兄弟姉妹、あなたにも、神は語られていませんか? 心の奥底で、何度も響いてくるあの声――「行け」「語れ」「赦せ」「戻れ」――その声を聞いたことがあるのではないでしょうか?
神はヨナに命じられました。
「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」
これは明確な命令です。妥協の余地はありません。「さあ」という言葉には、神の熱意と迫る愛が込められています。神は、ヨナに大胆に語りかけました。敵であるアッシリアの首都ニネベに行って、悔い改めの呼びかけをせよと命じられたのです。
ところが、ヨナはどうしたか?
聖書はこう語ります。
「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。」
なんということでしょうか! 神の声を聞いた者が、その声から逃げたのです。召命に背を向けたのです。しかも、主から「逃れようとして」出発したと記されています。彼は、神の御心が耐えられなかった。敵に向かって語れという使命が、あまりにも自分の正義や感情に反していたのです。
でも、これが私たちの姿ではないでしょうか?
神が赦しなさいと語られるとき、私たちは「いや、それはできません」と答える。
神が仕えなさいと呼ばれるとき、私たちは「他の誰かがやればいい」と思う。
神が悔い改めなさいと言われるとき、私たちは「今はまだその時ではない」と心を閉ざす。
私たちは、ヨナと同じように、神の声に対して耳をふさぎ、自分の思いを優先し、自分の計画を握りしめてしまうのです。
ヨナは逃げました。ヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけました。都合の良い「逃げ道」が、まるで用意されていたかのように、そこにあったのです。そして彼は、船賃を払い、神の目から逃れようとして人々に紛れ、船底へと降っていきました。
けれども、神の目から逃げられる者など、一人としていません!
詩編139編にはこうあります。
「わたしが天に昇っても、あなたはそこにおられ、陰府に身を横たえても、見よ、あなたはそこにおられる。」(詩編139:8)
どこに行っても、主はそこにおられます。山の頂にも、海の深みにも、都会の雑踏にも、孤独な病室にも、あなたの罪のただ中にも――神はそこにおられるのです!
そして主は、ヨナの逃走に対して、海に向かって風を放たれました。
「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。」
これは自然の偶然ではありません。これは、逃げる者を愛する神の「召し戻し」です。嵐は裁きではなく、招きなのです。神はヨナを見捨てず、嵐を通して、「戻ってこい」と叫ばれたのです。
船の上では大混乱です。乗組員たちは恐れ、自分の神々に叫び、積み荷を投げ出します。しかしヨナはどうしていたか?
「ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。」
なんという対照でしょうか。嵐のただ中で、人々が助かろうと必死な中、神の預言者は眠っていたのです。
これはただの肉体的な眠りではありません。これは霊的な無感覚の眠りです。
神の召命から逃げ、現実の責任からも目を背け、心を閉ざし、信仰の目も耳もふさいでしまった――これは、私たち自身にも起こりうる「信仰の眠り」の姿です。
そしてついに、船長がヨナのもとに来て、こう語ります。
「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。」
これが、今日私たちへの神の問いかけです!
「あなたは、目を閉じていないか? 逃げ続けてはいないか? あなたの神に、今こそ呼びかけよ!」と。
主は呼びかけておられます。「さあ、起きよ!」と。
霊的な眠りから目覚めなさい。信仰の無関心から立ち上がりなさい。神の声に応えるときです。あなたに託された使命があるのです!
私たちはここで知るのです。
神の召しは、私たちの都合を超えてやってくる。
神の声は、私たちが準備できているかどうかに関わらず、私たちの人生に入り込んでくる。
そして――どんなに遠くへ逃げようとしても、神はあなたを追い、あなたを呼び、あなたを決してあきらめない!
今日、神の御手はあなたにも伸ばされています。
嵐の中でさえ、神はあなたを見つけ出されるのです。
タルシシュへ向かっていようとも、主はあなたを追ってこられるのです。
だから、目を覚ましなさい。立ち上がりなさい。呼ばれているのです。
今、あなたの神に応えましょう!
【第二部】問われるアイデンティティ――嵐の中でヨナが語ったこと
皆さん!
神から逃げようとする者は誰でしょうか? それは、私やあなた――まさに私たち自身のことです。神の召しが自分にとって都合が悪いとき、痛みを伴うとき、恥をさらすように感じられるとき、人は逃げ出そうとするのです。そう、それはヨナの物語だけではありません。これは、あなたの物語です!
ヨナは、主の言葉に背を向け、ニネベではなく、反対方向のタルシシュへ向かいました。嵐が起こりました。海は荒れ狂いました。そしてそのただ中で、ひとつの真理が突きつけられたのです。
――人は、神の召しからは逃げられない!
嵐の中、乗組員たちは懸命に船を操ります。彼らは信仰者ではありません。異邦人です。それぞれの神に祈っていました。しかし、彼らの努力は報われませんでした。なぜなら、彼らが直面していたのは単なる自然の怒りではなく、創造主なる神の聖なる介入だったからです。
彼らは決断を迫られました。ひとつの手段――くじを引くという、当時の習わしに託しました。
「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」
人の目には偶然のように見えることでも、神の主権のもとでは偶然などありません。くじはヨナに当たりました。神が指を差されたのです。「おまえだ」と。
すると、乗組員たちはヨナに詰め寄ります。問いが投げかけられます。
「あなたは何者か? どこから来たのか? 何の仕事をしているのか? どの国の人間なのか?」
これらの問いは、単なる情報収集ではありません。これはアイデンティティの核心を突く問いです。
あなたは誰ですか? 何のために生きているのですか? 苦しみの中で、嵐のただ中で、その問いが私たちにも向けられているのです。
そしてヨナが答えます。
「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」
なんという答えでしょう! 堂々たる信仰告白のようにも聞こえます。しかし同時に、そこには深い矛盾が流れています。主を畏れる者――そう語る彼が、今まさに、その主から逃げているのです。
あなたの信仰はどうですか?
日曜には「主を信じます」と告白しながら、月曜からは自分勝手に歩いていないでしょうか?
祈るべきときに沈黙し、立つべきときに退き、赦すべきときに背を向けてはいないでしょうか?
乗組員たちはヨナの言葉を聞いて、さらに恐れました。
「なんという事をしたのだ。」
ヨナが逃亡者であることを彼らに明かしたとき、彼らは怒りよりも、畏れをもってそれを受け止めたのです。神の主権を感じ取ったのです。ヨナの不従順によって、彼らの目が開かれていったのです。
そして、問いが飛びます。
「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか?」
ヨナは答えます。
「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。」
これは自己犠牲ではありません。これは悔い改めの始まりです。ヨナが初めて、自分の罪を認め、その責任を受け止めようとしている姿です。
ここで問われるのは、私たちの責任です。
「誰のせいか」ではなく、「私の責任をどう受け止めるか」。
神が問いかけておられるのです。「あなたの人生の舵を、私に戻す気があるか?」
けれど、異邦の船乗りたちは、すぐにヨナを海に投げることを選びませんでした。
聖書は言います。
「乗組員は船を漕いで陸に戻そうとした。」
なんという思いやりでしょう! 異邦の民が、預言者の命をなんとか救おうと努力するのです。皮肉にも、この場面では信仰を持たない彼らの方が、神の心に近い行動をとっているようにさえ見えるのです。
しかし、人間の努力では限界がありました。海はますます荒れ、ついには彼らは祈り始めました。
「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」
この祈りは異邦の者から発せられたものです。そう、ヨナの逃亡の只中でさえ、神は人々の口に御名を告白させておられる!
やがて、彼らはヨナを海に投げました。そして――奇跡が起きます。
「荒れ狂っていた海は静まった。」
神の御言葉に従ったとき、嵐は静まるのです。悔い改めがあるところに、神の平安が流れ込むのです。
ヨナの不従順は、神の御業を妨げませんでした。むしろ、神はその弱さの中にご自身の力を現されました。
異邦の乗組員たちはどうしたか?
「人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。」
なんという逆転でしょう! 神に背を向けた預言者の姿を通して、神に立ち返る者たちが起こされたのです。神の憐れみは、罪深い者をさえ用いて、人を救いへと導くのです。
あなたの人生は今、嵐の中にあるかもしれません。
自分の矛盾、罪、不従順、失敗、逃避、眠っていた信仰――あらゆる重荷の中にあるかもしれません。
でも、主はあなたを見放してはおられません。主は今も、あなたを召しておられるのです。
あなたのアイデンティティは、「逃げている者」ではありません。
「失敗した者」でもありません。
神に呼ばれ、用いられる「主のしもべ」なのです。
だから、今こそ立ち返りましょう。
あなたの神を呼び求めましょう。
嵐の中でこそ、神の声を聞きましょう!
主の召しに応える者の人生には、神の平安と救いが満ちあふれるのです!
【第三部】主の憐れみは逃げる者にも注がれる――再び立ち上がる召命の道
皆さん!
もし今、あなたが「自分にはもう希望がない」「神の召しに応える資格なんてない」と感じているなら、どうか耳を傾けてください。神の言葉は今日、あなたにも向けられています!
私たちは今、預言者ヨナの物語の終盤に差しかかっています。ニネベへの召命に背を向け、神の御心から逃げようとした男――それがヨナでした。けれども、その逃走の中で、神はヨナを見捨てられなかったのです。
いいえ、神はあきらめられなかったのです!
神の召しは、人間の不従順によって終わることはありません。
神の御計画は、私たちの逃避によって狂うことはないのです!
これはあなたのためのメッセージです。
ヨナはニネベに行くことを拒みました。あの暴虐な都、アッシリアの首都に行って、悔い改めを呼びかける――そんな使命、誰が喜んで引き受けるでしょう? しかし、神の召しは心地よいものとは限りません。むしろ、それはしばしば私たちの限界と葛藤にぶつかるものです。
だからヨナは逃げました。けれど、神はヨナを追われたのです。
嵐を起こし、人々の問いかけを通してヨナを揺さぶり、ついに、船乗りたちの信仰をも目覚めさせました。そして、神の憐れみの働きは、最も予想外なところに現れたのです――異邦人の船乗りたちが主の名を呼び、いけにえをささげ、誓いを立てたというのです!
この驚くべき展開に、あなたは目を見張るべきです。
あなたの逃げた先――そこにも神は働かれるのです。
ヨナは自らのアイデンティティを語りました。
「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」
なんと力強い信仰の言葉でしょう! しかし同時に、なんと皮肉な響きでしょうか。彼はその「主」から、いままさに逃げていたのです。
でも、神はこの不完全なヨナさえも用いられたのです。
ヨナが自分の罪を認め、自らを海に投げ込むよう願ったとき、神はその従順のわずかな芽を拾い上げて、異邦人の救いという奇跡を起こされました。
これが神のご性質です。
「あなたがたが不真実でも、主は真実でいてくださる」(Ⅱテモテ2:13)
私たちが信仰に揺れ、逃げ、つまずくときでも、神のご計画はとどまるのです!
ヨナが海に投げ込まれたとき、荒れ狂っていた海が静まりました。
これは自然の現象でしょうか? いいえ、これは神の支配の証しです!
この瞬間、乗組員たちは、ただ「何かが起こった」と感じたのではありません。「神がおられる」と確信したのです。そして彼らは主を畏れ、礼拝をささげ、誓いを立てたのです。
なんと不思議な神でしょうか!
ひとりの預言者が逃げたことを通して、まったく関係のなかった者たちが主の民となったのです。まさに神は、「石ころからでもアブラハムの子を起こす」お方です!
ここで、もう一度御言葉に目を向けましょう。
「人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。」(ヨナ1:16)
この招詞の言葉には、すべての核心があります。
主の栄光は、ヨナの失敗によって妨げられなかった。むしろ、主の恵みはその失敗のただ中でこそ輝いたのです。
皆さん、あなたの人生がどんなに遠回りしていても、主はあなたを召し続けておられます。
「もう遅すぎる」
「神は私を見放したに違いない」
「私はふさわしくない」
そう思ってはいませんか? でも神は言われるのです。
「あなたがどこにいても、わたしはそこにいる」(詩編139:8)
ヨナは、信仰と行動の間にある深いギャップを抱えた人物でした。私たちもそうです。しかし神は、そのような者を用いて、御名をあがめさせてくださるのです。
神の召しは、あなたが思うよりも深く、あなたの失敗をも越えて働くものです。
では、どう応えるべきでしょうか?
今、この瞬間が、その第一歩なのです。
もう一度、立ち上がりましょう。
神は召しておられます。
神はあなたを必要としておられます。
たとえかつて失敗したとしても、逃げたとしても、沈黙したとしても、今日、あなたの名を呼ばれています。
神の召命には、悔い改めの道が備えられています。
その先には、回復と再出発の恵みが備えられているのです。
この物語が教えているのは、ただ一つ――
**「神は逃げる者にも、恵みを注がれる」**ということ。
ヨナは海に投げ込まれ、死を覚悟しました。しかし神は彼を沈ませず、大魚を備えて彼を飲み込み、三日三晩その腹の中に生かしとどめられました。そして、再び地に吐き出されたヨナは、しぶしぶながらもニネベへ向かい、神の言葉を告げるのです。
皆さん、これこそ神の憐れみです! 完全に逆らい、逃げた者をもなお捕らえ、再び使命へと押し出される――私たちの神は「見捨てない神」なのです。
ヨナのように、あなたももう一度、神の御声に応えましょう。
嵐を越えて、船底から這い上がってでも、主の光に向かって歩み出しましょう。
神は、あなたを見捨てておられません。
あなたを追いかけ、呼び戻し、もう一度召してくださるお方なのです。
さあ、主が語られるなら、「はい、主よ。わたしはここにおります」と応えようではありませんか!
――あなたの召しは、今日、ここから始まるのです。