・本日、私たちはマタイによる福音書6章5節から15節の御言葉を通して、イエスが教えられた祈りの本質について深く考えていきます。この箇所では、祈りとは何か、どのような心の姿勢で行うべきかが示されています。そしてまた、祈りに含まれる「願い」との違いについても重要な教えが含まれています。
・祈りとは何でしょうか?祈りは、ただ言葉を並べたり、自分の願望を羅列したりするだけの行為ではありません。それは、私たちの心を神に向け、神との交わりを持つ神聖な行為です。祈りは、人間が創造主である神とつながり、その御心を求めるための時間です。祈りを通して、私たちは自分自身を超えて、神の偉大さを認め、神の御名が崇められることを願い求めるのです。
・イエスがこの箇所で教えられた祈りの姿勢は、詩篇19:14の招詞、**「どうか、わたしの口のことばと、わたしの心の思いとが、御前に受けいれられますように」**という言葉に集約されています。この詩篇の言葉は、祈りが単なる言葉の表現ではなく、心の態度そのものが問われていることを教えています。祈りは神との対話であり、私たちの思いや願いが、まず神に喜ばれるものでなければなりません。
・ここで考えなければならないのは、私たちの祈りの本質がどこにあるかということです。私たちの祈りは、形式的になってはいないでしょうか?祈りの言葉は立派に聞こえるかもしれませんが、その背後にある心の動機が問われます。神の御前に立つとき、私たちの口から出る言葉も、心の奥底の思いも、すべて神に見抜かれているのです。
・イエスが教えられた祈りの姿勢は、ただ言葉を並べるのではなく、心から神に向かうことの大切さを強調しています。祈りは、神の御前で心を開き、神を賛美し、神の御心に従うことを誓う時間です。私たちが祈るとき、言葉以上に大切なのは、祈りをささげる心の態度です。その心が、神に喜ばれるものであるように努めるべきです。
・また、祈りの中で私たちは、神の栄光を第一に求め、神の御名があがめられ、御国が来ることを願います。祈りを始めるとき、私たちの心がまず神に向けられ、神の偉大さを賛美するところから始まるべきなのです。この姿勢を持たずして、祈りが単なる「お願い」に終わるなら、それは神聖な祈りではなく、自己中心的な行為に過ぎません。
・祈りは、神への賛美と信頼、そして御心を求める行為です。イエスが教えられた祈りの本質を忘れることなく、私たちの口の言葉も、心の思いも、神に受け入れられるものであるように祈りましょう。祈りとは、神とともに歩むための第一歩であり、私たちの信仰の土台なのです。
1. 偽善的な祈りではなく、隠れたところでの祈り
・イエスがここで戒められているのは、「偽善的な祈り」の姿勢です。イエスは、「偽善者たちのようにするな」と明確に語られました。では、偽善的な祈りとは何でしょうか?それは、人からの称賛や評価を目的として行う祈りです。彼らは会堂や大通りで、誰もが見ている前で大きな声で祈り、その信仰深さをアピールしようとしていました。しかし、イエスはその行動を厳しく非難されています。その理由は何でしょうか?
・偽善的な祈りは、見かけ上は神への信仰を表しているように見えますが、実際には神ではなく「人」を意識している行為です。それは、祈りの本来の目的である「神との交わり」から外れ、自己中心的な動機によって歪められた行いに過ぎません。その結果、偽善的な祈りをする人々は、人からの称賛という「報い」を受けるだけで終わり、神からの本当の祝福を失ってしまいます。
・イエスはこのような態度を厳しく戒め、「祈りは神との真実な交わりであり、他者に見せるためのものではない」と教えられました。祈りの目的を間違えないことが重要です。私たちは人に見せるために祈るのではなく、神の御前で心を注ぎ出すために祈るのです。
《隠れたところで祈る》
・では、イエスが求められる「正しい祈りの姿勢」とは何でしょうか?それは、他者の目や評価を意識せず、純粋に神との交わりに集中することです。イエスは、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」と教えられました。この教えの本質は、祈りが「隠れたところ」で行われるべきだということです。
・「隠れたところ」とは、単に物理的に人目を避けることを意味するだけではありません。それは、心の中の静かな場所を指しています。他者の評価や世間の目から離れ、神だけに集中する姿勢を象徴しています。このような祈りは、見せかけや形式に囚われることなく、神との親しい交わりに集中することができます。
・イエスが語られたこの言葉は、私たちに祈りの目的を再確認させます。祈りは、神に自分のすべてを開き、神の前に正直に立つための時間です。人の評価を求める祈りは、私たちを神から遠ざけますが、隠れたところでの祈りは、神に心を向け、神と親しく交わる機会を与えてくれます。
《神は心の奥底を探り、真実を知っておられる》
・詩篇139篇23-24節には、このように記されています。
「神よ、わたしを探り、わたしの心を知ってください。わたしを試み、わたしの思い煩いを知ってください。」
・この御言葉が教えているのは、神は私たちの祈りの言葉だけでなく、その背後にある心の動機や思いをも探り、知っておられるということです。表面的には立派な祈りをしていても、その心が真実でなければ、神に喜ばれる祈りにはなりません。
・私たちの祈りが、形式的な行動や習慣的な儀式に終わっていないかどうか、心に問う必要があります。神の御前に立つとき、私たちは心を偽ることはできません。私たちがどのような状況にあろうとも、神はそのすべてを見ておられるのです。ですから、祈りとは、神に向けて心を開き、自分のすべてを委ねる行為でなければなりません。
《祈りは形式ではなく、神との親密な対話》
・イエスが教えられたように、祈りは形式や外見のためのものではありません。それは、神との親密な対話です。祈りを通して、私たちは神の偉大さを認め、神への信頼を表し、神の御心を求めます。祈りは私たちの心を神に近づけ、神との関係を深めるための神聖な時間です。
・祈りが自己中心的な行動や偽善的な行為に陥ることを避け、真実な心で祈りましょう。神に喜ばれる祈りは、人目を避けた隠れたところで行われ、神だけに向けられたものです。神は、そんな祈りを見ておられ、祝福を与えてくださるのです。
2. 祈りと願いの違い
《祈りとは何か》
・祈りとは、神に向けて心を開き、神の偉大さを認め、神を賛美し、そして御心を求める行為です。それは、私たちが神と交わるための神聖な手段であり、祈りの中心には常に神との親しい関係があります。祈りの中で、私たちは神を崇め、その偉大さを認める言葉をささげます。そして、神の御名が全地であがめられること、神の御国が来ることを第一に願います。
・主の祈りの冒頭にある「御名があがめられますように」「御国がきますように」という言葉は、祈りの出発点が自分自身の願望ではなく、神の栄光にあるべきことを教えています。祈りとは、私たちの思いや願いを神に向ける前に、まず神を第一に置き、神を賛美するところから始まるべきなのです。
・祈りはまた、神の御心を求める行為でもあります。祈りを通じて、私たちは神の御計画と御心を知り、従うことを誓います。祈りは、神の御心を押し付けるための手段ではなく、自分の心を神の御心に合わせるための時間です。そのため、祈りは私たちの信仰の深さを示し、神との関係を築くための重要な行為なのです。
《願いとは何か》
・一方、願いとは、私たちの必要や願望を神に託す行為です。それは、私たちが日々の生活に必要なものを神に求め、神の助けと導きを信じて委ねる行動です。主の祈りにおける「日ごとの食物を、きょうもお与えください」という部分は、私たちが生きるために必要な糧を神に求める祈りです。
・願いは、私たちが自分の力だけでは生きていけないことを認め、神の恵みと供給に完全に依存していることを示しています。それは、信仰の一つの表現でもあります。私たちの願いは、神がすべてを備えてくださるお方であると信じ、神に依存する姿勢を表しているのです。
・しかし願いは、自己中心的な欲望や単なる要求に終わるものではあってはなりません。願いは、感謝と信仰をもってささげるべきものです。それがただの要求にすぎないならば、神に喜ばれる祈りにはなりません。
《祈りと願いの関係》
・祈りと願いは密接に関連していますが、祈りは願いを含みつつ、それを超えたものです。祈りは、私たちが神に向かう行為であり、その中心には神への賛美、感謝、そして神の御心を求めることがあります。祈りは、私たちの願いを神の御心に従わせるものでもあります。つまり、私たちの願いが祈りの中で調整され、神の御心に合うものとなるのです。
・願いは祈りの一部であり、私たちの生活の中での必要や願望を神に委ねる行為です。しかし、それが祈りのすべてではありません。願いは、神への信頼と依存を表す行為として、祈りの中で感謝と共にささげられるべきです。
• フィリピ人への手紙 4:6
「何事も思い煩うのはやめなさい。どんな場合にも、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げなさい。」
・この御言葉が教えているのは、願いを神に託す際には、必ず感謝と信仰を伴うべきであるということです。私たちが願いをささげるとき、神が私たちの生活を支えてくださっていることへの感謝を忘れてはいけません。そして、神の御心が最善であると信じて、願いを神に委ねる姿勢を持たなければならないのです。
《感謝と信仰に基づく願いの力》
・願いが感謝と信仰に基づいてささげられるとき、それは神の御心にかなう祈りとなります。祈りの中で神に願いを託すことは、私たちが神を信頼し、自分の力ではなく神の力に頼っていることを示す行為です。そして、神はそのような祈りを喜ばれ、私たちに必要なものを備えてくださいます。
・願いを通して、私たちは自分の弱さを認め、神の前にへりくだることを学びます。また、祈りの中で願いをささげることは、私たちの信仰を具体的に示す機会でもあります。神は、私たちがどのような願いを持っているかをご存じですが、それをあえて祈りの中で言葉にすることを求めておられます。それは、私たちが神との関係を築き、祈りを通じて信仰を成長させるためです。
3. 主の祈りに学ぶ祈りの本質
・イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」は、祈りの模範として、祈りの本質を簡潔に、かつ深く示しています。この祈りを通して、私たちは神に向かう姿勢、心構え、そして祈りの中で求めるべきことを学ぶことができます。
《神を賛美し、御心を求める祈り》
・主の祈りの冒頭にある「御名があがめられますように」「御国がきますように」という言葉は、祈りがまず神を中心に据え、神を賛美するものでなければならないことを教えています。祈りの出発点は、私たち自身の願いや問題ではなく、神の栄光を第一に求めることにあります。
・ここで問わなければならないのは、私たちの祈りが本当に神を賛美するものになっているかどうかです。祈りの中で、自分自身の願望に終始し、神の御心を求めることを忘れていないでしょうか?イエスが教えられたように、私たちはまず神の御名があがめられ、神の御国がこの地に実現することを心から願うべきです。
・祈りは、神への賛美から始まります。神がこの世界を創造し、私たちを守り導いてくださることへの感謝と賛美をもって祈りましょう。それは、神が全能であり、御心を通して最善を成してくださるお方であることを信じる信仰の表れです。
《必要を委ねる祈り》
・「日ごとの食物を、きょうもお与えください」という言葉は、私たちの日常生活の必要を神に委ねる信仰を表しています。ここで教えられているのは、私たちの毎日の糧、つまり生きるために必要なものが神から与えられるものであるという認識です。
・しかし考えてみてください。私たちは、自分の生活の必要を本当に神に委ねているでしょうか?あるいは、自分の力や努力だけに頼っていないでしょうか?この祈りは、私たちが神に全面的に依存している存在であることを教えています。
・イエスは、神が私たちの必要をすべてご存じであることを強調されました。だからこそ、私たちはその必要を神に信頼して委ね、今日の分の糧を与えてくださるよう祈るべきです。この祈りを通して、私たちは自分の弱さを認め、神の恵みに頼ることを学びます。
《他者を赦す祈り》
・「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように」という言葉は、祈りの中で他者を赦す心を求めています。他者を赦すことは、神から赦しを受ける前提条件であり、私たちの祈りの中で最も重要な部分の一つです。
・私たちは、他者を赦すことの難しさを知っています。しかし、神が私たちを完全に赦してくださったように、私たちもまた他者を赦さなければなりません。他者を赦すことは、神の赦しを体験するための鍵であり、私たちの信仰の成熟を示すものでもあります。
・エペソ人への手紙4章32節には、こう書かれています。
「互いに親切にし、あわれみの心を持ち、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
この御言葉は、神から赦しを受けた私たちが、赦しを他者に与えるべき理由を示しています。赦しの心は、祈りの中で育まれ、祈りを通して実践されるものです。
《赦しの祈り: 信仰の実践としての赦し》
・イエスは、他者を赦すことが信仰の実践であると教えられました。主の祈りの中で、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さる」と語られたのは、赦しが私たちの祈りの中核にあることを示しています。
・他者を赦さない心を持ち続けるならば、神との関係は妨げられます。赦しは、神との和解の一部であり、他者との和解の一部でもあります。赦しを通して、私たちは神の愛と恵みを体験し、それを他者に示すことができるのです。
《真実な祈りに生きる》
・祈りは、私たちが神と向き合うための神聖な時間です。祈りを通して、私たちは神を賛美し、神の御心を求め、必要を委ね、他者を赦す心を持つことができます。このような祈りは、私たちの信仰を深め、神との関係を強めます。
・詩篇19:14には、こう記されています。
「どうか、わたしの口のことばと、わたしの心の思いとが、御前に受けいれられますように。」
この御言葉のように、私たちの祈りの言葉も、心の態度も、神に受け入れられるものであるよう願い求めましょう。
・祈りを通じて、私たちは神との親しい交わりを体験し、信仰を深めることができます。どうか、隠れたところで神に心を注ぎ、真実な祈りを捧げる者となりましょう。その祈りが私たちを強め、神の祝福を豊かに受ける道となるのです。