江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2025年1月19日説教(マタイ5:43-48、敵を愛しなさい) 宣教:上原神学生

投稿日:2025年1月19日 更新日:

 

・篠崎キリスト教会にお集まりの皆様、おはようございます。

聖書教育に沿って、マタイによる福音書から聴いていきます。本日は「敵を愛しなさい」という題ですが、内容は「異邦人を愛しなさい」。「だから、イエスは異邦人を愛せよと言われた。」「異邦人を愛する時、平和が生まれる。」の3点です。皆様は、聖書に「敵」という言葉が幾つ登場しているかご存知ですか?
マタイでは10回、福音書には26回、新約では54回、旧約に455回、新共同訳全体では509回に上ります。

 

1.異邦人を愛しなさい。

モーセがシナイ山に登ってイスラエルの民に教えるべきことを神から学んだ(出エジプト記19章)の様に、弟子は(群衆と共に)ガリラヤの山で腰を下ろされたイエスから説教を聞きます。マタイ福音書は5章~7章に山上の説教を記しています。5章は幸い・地の塩、世の光・律法について・腹を立ててはならない・姦淫してはならない・離縁してはならない・誓ってはならない、復讐してはならない、そして、今日の聖書個所「敵を愛しなさい」(5:44)です。イエスは言われました「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5:43~44)「隣人を愛せ」はレビ記19:18に記されています。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」 「悪に報いるな」と箴言20:22に記されています。「悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。」 「悪を憎む」と詩編97:10に「主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り/神に逆らう者の手から助け出してくださる。」と記しています。

・「隣人を愛せ」とはレビ記の言葉で、「悪に報いる・悪を憎む」は、旧約に有りますが、「敵を憎め」とはマタイ以外聖書のどこにも記されていません。しかし、ユダヤの人々にとって、隣人とは同じ民の人々、同胞のことであり、同胞でないもの異邦人は敵でした。イスラエルの人々は高い城壁の町の中に住み、敵が攻めてきた時に、城門を閉めました。城門の内側にいる人だけが隣人であり、城門の外にいる人々は何をするかわからない異邦人、敵であり、敵である異邦人を愛することは身の危険を意味しました。ですから、イスラエルの人々の理解では「隣人を愛するとは、隣人でない者・異邦人=敵から隣人を守る」ことだったのです。その人々にイエスは「敵を愛しなさい、城門の外にいる異邦人を愛しなさい」と言われたのです。マタイはイエスをユダのベツレヘムで生まれたと記していますが、イエス自身ユダからサマリアよりも遠いガリラヤのナザレ出身でした。「敵を憎め」の憎めは、ヘブライ的対象表現として忌み嫌う、他のものに比べて軽視する、大事にしない、斥けるという意味もあり、ユダヤ人はサマリア人を異邦人として忌み嫌い、軽視して、斥けていました。

・46-47節にあるように「自分を愛してくれる人を愛したり、自分の兄弟にだけ挨拶することは最低限の事」です。私たちの日常生活を見ると、自分の家族も愛せなかったり、だから家族から愛されなかったり、友人の気持ちを理解しようともしなかったり、同僚に挨拶もできない人がいます。この様な悲しい現実を教会で見ることが無い様にしたいと切に願います。イエスは「単に異邦人・外国人だから憎んではいけない。愛しなさい。」と言っているのです。

・迫害する者を憎むのは人間にとって自然の感情です。古代において、またイエスの時代においても、迫害する者を愛するのは危険でした。現代でもそうです。イエスは「迫害するものを愛せ。」とは言っていません。「自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言っているのです。ルカ23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕十字架上のイエスの迫害する者のための執り成しの祈りの言葉です。

イエスは続けて言われます「あなたがたの天の父の子になるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(5:45)。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5:48)。完全な者とは、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるが、「然りを然りとし、否を否とする」とされる方ことです。どの様な相手であれ恵みを施しても、悪いことは悪い、違うことは違う、ダメなものはダメと言うことです。

2.だから、イエスは異邦人を愛せよと言われた。

・今日のテキストの少し前、5:38以下でイエスは言われます「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。これはレビ記24:20からの言葉 「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」相手に与えた損害に対する自分自身の償いを述べています。相手に対する要求では決してありません。

しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。・イエスは「右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為だ」と言います。イエスはこれを弟子たちに言っているのです。弟子たちは立派な成人であり、イエスが王になった際には自分も出世できると固く信じてイエスに従って来ています。これは、いじめを受けている子どもやハラスメントの被害者に言う言葉では決してありません。自殺を思いとどまっている子どもやハラスメント被害者は自殺してしまうでしょう。パウロは「敵を愛せよ、愛することによって、敵は敵でなくなる」と言います。その言葉がローマ12:19-21にあります「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい・・・あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。「善を持って悪に勝て、敵にあなた方の信仰を示し、敵を変えよ」と、パウロは言います。イエスが言われた、敵対関係を一方的に切断せよとの考え方をパウロも継承しているのですが、言うべき相手を考慮して言うべき言葉です。

 

  • 異邦人を愛する時、平和が生まれる。

・今日の招詞にルカによる福音書10:30~34を選びました。 ご一緒に読みたいと思います。

「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人を半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

・ユダヤ人の指導者である祭司や模範となるべきレビ人が同胞のユダヤ人・隣人を愛するどころか命の危機を見て見ぬふりをして立ち去った。エリコからエルサレムに上って行く場合は、神殿での務めがあり宗教上の理由(穢れを畏れた。)と言えますが、「その道を下って来た」神殿の務めを終えて、エルサレムから別荘や別宅のあるエリコへ向かっていく途中で面倒に巻き込まれたくない。自分も追いはぎに襲われるかもしれないと、自身のことしか考えなかった祭司やレビ人。ところが、

異邦人のサマリア人は「憐れに思い」助けます。この「憐れに思い」はギリシア語 splagcni,zomai スプラングクニゾマイ ヘブライ語 ラハミム スプラングクニゾマイ も ラハミム も内蔵の意で繊細な感情の座としての心を意味します。心からなる同情、共感共苦と言われます。 同胞の隣人であるユダヤ人を愛するどころか見捨て・切り捨てる祭司やレビ人に対してサマリア人は神の愛を示します。同胞も異邦人も愛せなかったイスラエルは今も異邦人をアパルトヘイト(人種差別)し、ジェノサイド(大量殺戮)し続けています。イスラエルは今も心がまっすぐでなく、かたくなな民である。(申命記9:4~6)の言う通りです。

イエスの十字架が敵意を滅ぼすとパウロは言います。平和が生まれないのは、迫害する者が迫害する者であり続ける為であり、キリストを信じることによって、私たちはこの敵意と言う隔ての壁を取り除くことができるのだと。何故ならば、キリストが私たちのためと同じく、迫害する者のためにも死んでくれるからです。イエスは十字架上で自分を殺そうとする迫害する者に対して、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と執り成しの祈りを祈りました。イエスの弟子たちは復活のイエスに出会って、再びエルサレムでの宣教を始めますが、その弟子たちにも迫害の手は容赦なく襲い掛かります。弟子の一人ステパノは石打の刑で殺されますが、彼は「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と執り成しの祈りを叫んで死んでいきました(使徒7:60)。イエスの祈りがステパノにおいても祈られました。その後、教会はローマ帝国によって迫害され続けますが、イエスの弟子たちはローマに報復せず、祈って伝道し続けました。イエスの十字架・復活から約300年後、キリスト教はローマの国教になります(313年、ミラノ勅令)。報復しなかった者が力を誇った者を征服したのです。「善をもって悪に勝て」というパウロの言葉が世界史の中で、成就したのです。
・マルテイン・ルーサー・キングは、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行いました。当時、キングはアトランタのエベニーザ教会の牧師でしたが、黒人差別撤廃運動の指導者として投獄されたり、教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていました。そのような中で行われた説教です。キングは言います「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅し、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」と彼は聴衆に語りかけました。

・「愛が敵を友に変える」、キングは歴史を導く神の力を信じました。だから自らの手で敵に報復しないで、裁きを神に委ねました。白人は黒人を差別し、投獄し、彼らの家に爆弾を投げ込みました。しかし、キリストは彼らのためにも十字架にかかられるから、白人を憎まない。人間の愛は、「隣人を愛し敵を憎む」愛です。しかし、キングはそれを超える神の愛、アガペーを私たちの人間関係にも適用すべきだと言います。何故ならば、「天の父の子となるためである。あなたがたは信仰者ではないか、信仰者であれば歴史は神が導かれることを信じていこう」。キングのこの言葉にアメリカは変わった様に見えました。キングは1968年に暗殺されましたが、アメリカは18年後の1986年に、キングの誕生日である1月15日を国民の祝日にしただけです。アフリカをルーツに持つ大統領が誕生しましたが、黒人差別、非白人差別は未だに根強く続いていますし、女性牧師も認めない、女性の大統領も拒否しています。WASP(ワスプ)ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの男性中心の社会が続いている。と言えます。アメリカもイスラエル同様に 心がまっすぐでなく、かたくなな民である。と言えます。

・キングは迫害する者に執り成しの祈りを祈り、愛そうと努力して迫害する者に殺されました。

・イエスは言います。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」は、今の言葉に言い換えると「異邦人を愛し、自分を迫害する者のために執り成しの祈りを祈りなさい。天の父は悪人にも、正しくない者にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるかたであり、悪人も正しくない者もご存じである。あなたがたも悪は悪と言い、正しくない事は正しくないと言い、悪を正しなさい。」となります。

・マタイ福音書によれば、イエスのユダに対する最後の言葉は「友よ」です(マタイ26:50「イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた」)。ユダヤ人が大勢の人の前(公開)で「友よ」という場合は皮肉であり実勢には、「友」ではありません。イエスはここで自分を裏切るユダにただやるべきことをしなさいと言っているだけです。イエスは自殺したユダを執り成しの祈りを祈って、赦しておられるのです。

・イエスは私たちに、不可能な、非現実的なことを求めておられるのでは決してありません。異邦人を愛し、迫害する者に執り成しの祈りを祈り、正すべきことを正す。ことを薦めているのです。パウロは言いました「知識(グノーシス)は人を高ぶらせるが、愛(アガペー)は造り上げる」(第一コリント8:1)。アガペーの愛は相手の悪を数えないゆえに、その愛は人を造り上げるのです。キリストの十字架と復活に立つ信仰は、私たちにアガペーへの道、兄弟を異邦人を愛する道、そして平和へと導きます。

・ 異邦人に対する愛は平和を生みます。毎週土曜日の午前中に違う国をルーツに持つ人たちに、日本語の学びを行うことは、正に平和を生み出す愛の行為と言えるでしょう。

単に異邦人だから、その国が嫌いだから、嫌いな国の人々だから、何人だから嫌いという人と愛の大きさ・深さが違うのです。

 

祈ります。

聖書は神の言葉が記されていると言われます。

聖書は罪深い人間が聖霊の助けによって記されたと。

私たちが聖霊の助け・導きを受けて聖書から聴いていく時

聖書の言葉が神の言葉になる。と信じます。

宣教は語る者と聴く者の共同作業と信じます。

本日のメッセージが聖霊の導きで語られた。と信じ。

共におられる主の恵みと神の愛を感謝し、イエス・キリストの名前で祈ります。アーメン。

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