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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2025年1月12日(マタイ4:12-17,23-25、イエスは身を削って人々を癒された)宣教:鬼澤神学生

投稿日:2025年1月19日 更新日:

 

 

 

・イエスがこの地上で行われた「癒し」の業を、私たちはどう受け止めるべきでしょうか?
イエスの生涯を見ると、彼が人々の病や苦しみに深く寄り添い、身を削るようにしてその痛みを共有された姿が浮かび上がります。しかし、それは単なる肉体の病を癒す奇跡の連続ではありませんでした。むしろ、その背後には「神の国」の到来を告げる深いメッセージが隠されているのです。

ガリラヤで始まった癒しの働き
・イエスが宣教を始められた場所は、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたガリラヤ地方でした。この地は、エルサレムの人々から軽蔑され、「暗闇」や「死の陰」の地とさえ見なされていました。しかし、イエスはあえてその地を選び、こう宣言されたのです。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4:17)。
・この「天の国」とは、単に未来の楽園ではありません。それは、今ここにおいて神の支配が始まったことを意味しています。そして、その支配が目に見える形で表されたのが、イエスが行われた癒しの業でした。盲人の目を開き、足の不自由な人を立ち上がらせ、皮膚病を患う人々を清め、悪霊に取りつかれた人々を解放する――それらの出来事は、神の国が現実となっていることの証でした。しかし、皆さん、ここで問い直さなければなりません。
イエスの癒しの目的は単に病を治すことにあったのでしょうか?癒しそのものが彼の最終目標だったのでしょうか?

イエスの癒しの本質、共感と救い
・イエスが行われた癒しは、単なる「治癒」ではありませんでした。カトリック教会司祭の本田哲郎神父はギリシャ語の「セラペオー」という言葉に注目し、これが「看病する」「手当てをする」という意味を持つことを指摘しました。つまり、イエスの癒しの本質は「病を治す奇跡」ではなく、「苦しむ者に寄り添い、その痛みに共感し、支えること」だったのです。
・考えてみてください。イエスは重い皮膚病の人々に触れ、律法で触れることを禁じられた死者にさえ触れました。触れることで彼らの苦しみに共感し、その孤独を引き受けられたのです。その結果、病が癒されたかどうかは重要ではありません。それよりも、イエスがその人々の中に神の愛と憐れみを現したことこそが、本質なのです。
・マザーテレサが行ったのも同じでした。彼女は「死に行く人々を看取る」ことに献身しましたが、「治す」ことを目標にはしませんでした。それでも彼女の手当てを受けた人々は、生きる希望を取り戻し、平安の中で息を引き取ったのです。イエスが目指された癒しとは、このような慰めと共感、そして神の愛を示す行為だったのです。

癒しは奇跡か、それとも信仰か?
・イエスの癒しは、奇跡として語られることが多いですが、その奇跡を可能にしたのは「信仰と希望」でした。東京教区の補佐司教だった幸田和生神父は、こう語ります。「イエスは、絶望の中にいた病人たちに『神はあなたを愛しておられる』と語りかけ、その信頼が人々の中に希望を生み、癒しをもたらした」と。絶望に囚われていた人々が、イエスとの出会いを通じて「立ち上がる力」を得たのです。しかし、ここで私たちは問われます。
私たちは日々の生活の中で、この「癒し」の力を他者に示しているでしょうか?私たちは苦しむ人々に寄り添い、その痛みに共感し、神の愛を伝える存在となっているでしょうか?

私たちにできる癒しの業
・皆さん、私たちはイエスのように奇跡を起こすことはできません。病気を治す力も、死者をよみがえらせる力も持ち合わせていません。しかし、それは私たちが「癒しの業」に関われないという意味ではありません。
• 足の不自由な人が教会に来られるよう、玄関の段差をなくす。
• 病気の人を訪ね、その枕元で賛美を共に歌う。
• 孤独な人に声をかけ、一緒に祈る。
・これらは、誰にでもできる「癒しの業」です。イエスの前に中風の人を運んだ四人の男たちのように、私たちはその信仰を行動で示すことが求められています。

あなたの行動は?
・では、ここで問いかけます。
もし私たちが他者の苦しみに背を向け、イエスが示された癒しの業を行わないならば、私たちは本当に「キリストの弟子」と呼ばれるに値するのでしょうか?
・私たちは「救いは十字架から来る」という真理を口で語るだけでは十分ではありません。その真理を行動で示し、苦しむ人々にイエスの愛を伝えなければなりません。あなたが今日、苦しむ隣人に対して何を行うのか。イエスが十字架の上で身を削り、私たちを癒してくださったように、私たちもまたその愛に応える生き方を求められているのです。

信仰を行動に移す
・私たちの手で他者を癒すことはできません。しかし、イエスのもとに人を運び、その愛に触れる機会を与えることはできます。それが私たちの使命です。信仰は行動を伴って初めて意味を持ちます。苦しむ人々に寄り添い、共に祈り、支えることで、私たちは「神の国」を現実のものとしていくのです。
・「あなたの信仰を見て、イエスは癒された」(マルコ2:5)。その言葉が私たちの人生にも当てはまるように、今週もまた、主の愛を行動で示してまいりましょう。
・イエスの癒しの目的は何だったのか?
イエスが行われた癒しの業は、単に病を治す奇跡として捉えるべきではありません。それらの行為は、「神の国」が現実となっていることを示す象徴的な出来事であり、さらに深い神学的な意味を持っています。この点を明確にするため、イエスの癒しの目的について詳しく考察します。

癒しの目的、肉体の治癒を超えた「神の国」の宣言
・イエスが最初に宣言された「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4:17)は、単なる道徳的な戒めや個人の心の内側の変化を求めたものではありません。それは、神の支配がこの地上に到来したことを示すものであり、世界全体を包括する新しい秩序の始まりを宣言するものでした。
・癒しの奇跡は、この新しい秩序、つまり「神の国」の一部として現れたものです。イエスが行った癒しは、病や障害、悪霊に苦しむ人々を社会の中に取り戻す行為でした。これらの行為は、単なる肉体の治癒ではなく、神の救いの力が現実となり、疎外された人々が神の家族として迎え入れられるという象徴的な出来事でした。

癒しの行為の例として、
• 盲人の目が開かれるは、霊的な暗闇から光の中への転換。
• 足の不自由な人が歩くは、神の国に参加する力を得る象徴。
• 重い皮膚病の人々が清められるは、宗教的・社会的な清さを回復し、共同体に迎え入れられる。
• 悪霊からの解放は、人々が神の支配の中で新しい自由を得ること。
これらの癒しは、単なる医療的な治癒ではなく、神の国の現実が「目に見える形で」始まったことを示す行為だったのです。

癒しを通して示された「共感」と「回復」
イエスの共感の姿勢
・イエスの癒しの業において特筆すべきは、彼が苦しむ人々に対して示された深い共感です。イエスは、当時の律法や社会の慣習に縛られることなく、病や障害を持つ人々に直接触れることで、彼らの苦しみに寄り添いました。特に、以下のような点が重要です。
• マルコ1:40-42の重い皮膚病の患者に触れるは、律法では「汚れた者」とされ、触れることを禁じられていた重い皮膚病の人々に対して、イエスはためらうことなく手を差し伸べました。この行為は、単に病を治すだけでなく、社会から隔絶された人々を共同体に回復させる意味を持っていました。
• マタイ8:28-34の悪霊に取りつかれた者の解放は、精神的に苦しむ人々を解放することで、イエスは彼らが神の国において自由に生きることができる存在であることを示しました。

疎外された人々の回復
・イエスが癒された人々は、単に病気を抱えるだけではなく、社会や宗教的な共同体から疎外された存在でした。彼らは、当時の社会では「罪人」と見なされ、差別や偏見にさらされていました。重い皮膚病やその他の病気を持つ人々は、しばしば「神に呪われた存在」として見なされていました。イエスはこれらの人々を癒すことで、彼らが神に愛される存在であることを示し、宗教的な清さと共同体への復帰を回復させました。
また、社会的な和解として、イエスの癒しは、単に個人の健康を取り戻すだけでなく、社会全体の中で彼らが再び尊厳を持って生きることができるようにする行為でした。

イエスの癒しの最終的な目的としての救いの宣言
救いの物語としての癒し
・イエスの癒しの行為の背後には、「救い」のメッセージが隠されています。それは単なる肉体的な回復ではなく、霊的な救い、神との和解、そして神の国への参加を意味していました。イエスが重い皮膚病の患者や罪人に対して「あなたの罪は赦された」と語ったのは、その象徴的な表現です(マタイ9:2)。

十字架と癒しの関係
・イエスの癒しの業は、最終的に彼が十字架で果たされる贖罪の業を指し示しています。「彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った」(マタイ8:17)という預言の成就として、イエスは人々の罪と苦しみをその身に背負い、十字架に至りました。
・癒しの行為そのものは、イエスの救いの全体像の一部に過ぎませんでした。それは、神の愛と赦しがどのように働くのかを示すものであり、最終的には十字架の犠牲を通じて全人類に広がる救いの約束の前兆だったのです。

癒しが現代に与える意味
・イエスの癒しの目的は、単に当時の人々の病を治すことに留まらず、今を生きる私たちにも深いメッセージを伝えています。
• 共感と支えとして、イエスが示されたように、他者の苦しみに寄り添い、共にその痛みを担うこと。
• 救いへの希望は、病や困難の中でも、神が共におられることを信じ、神の国への希望を持ち続けること。
・イエスの癒しは、「私たちの生き方」への招きでもあります。それは、他者を支え、神の愛を行動で示す生き方を求めるものです。

イエスの癒しの目的は、単なる病の治癒に留まるものではなく、「神の国」の到来を告げ、人々を社会的・霊的に回復させるものでした。それは共感と救いを通じて、疎外された人々に神の愛を示し、十字架の贖罪による最終的な救いを指し示していました。このメッセージを受け取った私たちもまた、他者に対して同じ愛と共感を示し、神の国を実現する働きに参加するよう招かれているのです。
・そこで、あなたの行動は?
では、もう一度深く問いかけます。
もし私たちが、日々目の前で苦しんでいる人々に目を背けるなら、私たちは本当に「キリストの弟子」と呼ばれるに値するのでしょうか?ただ「救いは十字架から来る」と口で語るだけでは十分でしょうか?その真理を行動で示すことなく、どうして私たちは「イエスを信じている」と言えるのでしょうか?

イエスの癒しを受け継ぐ責任
・イエスはその生涯を通じて、人々の苦しみに寄り添い、病を癒し、罪を赦し、彼らを新しい命へと導かれました。彼はただ言葉で「愛」を語ったのではありません。ご自分の行動を通じてその愛を示されたのです。特に、十字架の上で自らを犠牲にし、全人類の罪を負われたイエスの姿は、愛と癒しの究極の形です。私たちは、そのイエスの働きを知り、その愛を受け取った者です。**その愛をただ受けるだけでなく、それを他者に伝え、行動で示すことが求められています。**もし私たちが、日常の中でイエスが示された癒しの業を行わないなら、私たちの信仰はどこにあるのでしょうか?

信仰と行動は一体
・今日の招詞です。「信仰も、それだけでは、行いが伴わなければ死んだものである。しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。」この言葉は、信仰が単なる理念や考え方で終わるものではなく、具体的な行動によって初めて意味を持つことを教えています。信仰が行動として現れるとき、それは神の愛を目に見える形で人々に示すものとなります。
・中風の人を運んだ友人たちの信仰は、マルコの福音書(2:1-12)にあるように、四人の友人が中風の人をイエスのもとに運び、群衆で満たされた家の屋根を壊してまで彼をイエスの前に連れて行きました。イエスは彼らの信仰を見て、その人を癒しました。ここで重要なのは、友人たちの信仰がただの祈りや言葉で終わらず、行動として具体化されたことです。
・この物語は私たちに問いかけています。私たちの信仰は、苦しむ人々のために具体的な行動として現れているでしょうか? もしそうでなければ、それは死んだ信仰に過ぎないのではないでしょうか。
・私たちにできること、信仰を行動に移す方法は、私たちはイエスのように奇跡を起こすことはできません。病を治す力も、死者をよみがえらせる力も持ち合わせていません。しかし、それでも私たちにはできることがあります。それは、苦しむ人々をイエスのもとに連れて行くこと、そして彼らが神の愛に触れる場を作ることです。

日常の中で癒しの業を行う
• 篠崎教会ではもうなされていることですが、物理的な障壁を取り除いて、足の不自由な人が教会に来られるように段差をなくす。車椅子が利用できるトイレを作る。これらの行為は、イエスのもとに人々を連れて行くための第一歩です。また、 孤独な人に声をかけること、一人で苦しんでいる人に「あなたを気にかけています」と伝えることで、その人が再び自分の価値を感じられるよう助けることができます。病床にいる人を訪ねて、病に苦しむ人々のそばで祈り、賛美を歌うことなどでも、神の臨在と希望を分かち合うことができます。

社会的な癒しに取り組む
• 疎外された人々に寄り添う、現代の「重い皮膚病の患者」は誰でしょうか?差別や偏見に苦しむ人々、経済的に困窮する人々、社会から見放された人々に寄り添い、彼らを受け入れることが、イエスの愛を示す行動です。
• イエスの愛を伝える。「神はあなたを愛しておられる」という言葉を、苦しむ人々に伝えることで、彼らに希望を取り戻す助けをすることができます。

神の国を実現する私たちの使命

・イエスが「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣言されたとき、それは遠い未来の出来事を指していたのではありません。それは今ここに、神の国を現実のものとすることを意味していました。

私たちが日々の行動の中でイエスの愛を示すとき、神の国は私たちの周りに広がります。
「あなたの信仰を見て、イエスは癒された」(マルコ2:5)。
この言葉が私たちの人生にも適用されるように、今週も私たちの信仰を行動に移しましょう。それは、小さなことで十分です。一言の優しい言葉、一つの祈り、一歩の助け。それらがすべて、イエスの愛を示す行動となるのです。

では、もう一度問いかけます。
「あなたの行動は、イエスの愛を示していますか?」
苦しむ人々に背を向けてはいませんか?私たちは日々、隣人に対する愛を行動で示す機会を与えられています。それを無視することは、イエスの弟子としての歩みに背を向けることと同じではないでしょうか。

・お祈りします。

私たちは今週、どのような行動を取るべきでしょうか?小さな行動から始めましょう。そして、その行動を通じて、イエスが示された愛と癒しをこの世に伝えましょう。信仰は行動を伴うとき、初めて生きたものとなります。神の国を共に実現するために、私たち一人ひとりがその使命を担うのです。

「苦しむ隣人に対して、あなたは今日何を行いますか?」その問いに真摯に向き合い、主の愛を行動で示していきましょう。

主イエス・キリストの御名によりお祈りします。アーメン

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