1.聖霊とは何か
・教会は三つの時を大事な時として覚えます。キリストが生まれられたクリスマス、キリストが復活されたイースター、そしてキリストの霊である聖霊が弟子たちに与えられたペンテコステの三つです。ペンテコステとは50の意味です。イエスが復活されてから50日目に弟子たちに聖霊が降り、それまで臆病で逃げ隠れしていた弟子たちが、公衆の前に出て「イエスこそ神の子であった」と宣教を始めました。その言葉を聞いて人々が心動かされ3000人の人がバプテスマを受け、以後その日が教会の誕生日として祝われるようになりました。
・ヨハネは聖霊の働きについて次のように述べます「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:3)。ヨハネ福音書ではイエスは繰り返し、「私は天に帰るが、帰ったらあなた方に聖霊を送る」と約束されています(14:28)。同じ約束が16章5節にもあります「今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている」(16:5)。ここでは死ぬことが「天に帰る」ことだといわれています。人が死ぬことは当然であり、それは「天に帰る」ことであり、悲しむべきことではないとイエスは言われています。死が「天に帰る」ことなのか、それとも「虚無に消える」ことなのか、その理解いかんで死の意味は異なってきます。それは現在をどう生きるかという課題にもつながります。「人生は死で終わるのか」、そう考えれば人は虚無的になり、「どうせ死ぬのだ。今を楽しもう」となります。しかし「死を超えた命がある」ことを信じる人は現在を大事に生きます。
・イエスの弟子たちはイエスの死に直面していました。イエスは言われます「私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(16:6-7)。ここで弁護者と言われているのが「聖霊」、「イエスの霊」です。「私はいなくなるが、私の代りに聖霊が遣わされてあなた方を助けるだろう」とイエスは言われます。障害のあるお子さんをお持ちの親は、「自分が死んだらこの子はどうなるだろう」と心配しながら死んでいかれます。しかし、ここでは「心配することはない、必要な助けが与えられる」と語られます。これを信じることが出来るかどうか、人生の重要な分岐点になります。聖霊はギリシャ語「パラクレートス」ですが、パラ=そばに、クレートス=呼ばれる、そばに呼ばれる者の意味です。ギリシャ語では裁判の時にそばにいて弁護してくれる人をパラクレートスと言いますので、新共同訳は聖霊を「弁護者」と訳しますが、口語訳では「助け主」、英語訳では「Helper」です。「助け主が与えられるから、私がいなくなっても心配することはない」とイエスは弟子たちに言われたのです。
2.聖霊が与えられる
・では聖霊はどのように私たちを助けてくれるのでしょうか。イエスは言葉を続けられます「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らが私を信じないこと、義についてとは、私が父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」(16:8-11)。ここでは人間の法廷ではなく、神の法廷において何が罪であり、何が正しいのか、何が裁かれるのかが明らかにされると言われています。
・まず「罪」とは、「イエスが救い主であることを受入れない」ことだと言われています。「神が世を救うために救済者を送って下さった、その救済者を信じないことが罪だ」と言われています。私たちは、「罪とは人に悪いことをすること」だと考えていますが、神の法廷における「罪」とは「神に対して悪いことをする」、すなわち神が私たちのために救いの手段を与えて下さったのに、それを拒絶することが罪なのです。そしてその罪から一切の悪が流れ出ます。だからイエスは言われます「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない」(マタイ12:31)。人は罪を犯さざるを得ない存在ですが、「その罪は全て赦され」ます。それを信じて悔い改めた時に救いが与えられます。しかしそれを信じることが出来ない時、赦しを拒否する時、「“霊”に対する冒涜は赦されない」と宣言されます。
・次に「義」とは「イエスが天の父の下に帰り、この地上からいなくなることだ」と言われています。イエスが天に帰られることを通して、聖霊が与えられ、何が正しいのかを私たちに教えます。イザヤは言いました「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」(イザヤ49:4)。信仰者は何が正しいかを人に聞くのではなく、神に聞きます。だから人から疎外され、捨てられても、神は共にいて下さると信じるゆえに、生きる力が与えられます。
・最後に「裁き」とは「この世の支配者が断罪されることだ」と言われます。イエスはユダヤ教当局者によって十字架に裁かれましたが、神は十字架に死なれたイエスを復活させることを通して、世を断罪されました。「裁かれた者が裁き主になられた」、このことをペテロの説教を通して知らされた民衆は、ペンテコステの日に3000人が悔い改めてバプテスマを受けたと使徒言行録は記します(使徒2:41)。こうして初代教会が立ち上がります。
・イエスの言葉は続きます。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)。ここに言う真理とは「アレティア」、隠されたことです。聖霊は私たちに隠されたことを伝えます。すなわちイエスが十字架で死なれたことにより私たちの罪が赦されたこと、イエスが復活されたことにより私たちも「死んでも生きる」ことが出来ること、助け主が与えられて共にいて下さることを私たちに明らかにしてくれるのです。
・このヨハネ福音書の視点、すなわち物事を人間の視点ではなく、天の視点から見ることは大事なことです。100年に一度の大災害があったとしても、長い歴史の中では繰り返し起こっているであり、特に騒ぐことではありません。GMが倒産してもトヨタが赤字になっても、あるいは自分の勤める企業が倒産し失業したとしても特に騒ぐ出来事ではありません。長い歴史の中で何度も世界恐慌が起きていますが、人はそれを乗り越えることができました。詩篇2編は言います「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか・・・天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲けられる」(詩篇2:1-4)。天に対する信仰を持つことによって、私たちは地上の出来事を相対化することが出来ます。地上の出来事に縛られないことの大事さを考えるべきです。
3.共にいて下さる方を信じる
・今日の招詞に詩篇23:4を選びました。次のような言葉です「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける」。旧約・新約聖書を貫く信仰は「インマヌエル」の信仰です。「神共にいます」、死の陰の谷を行く時も神は「共にいて下さる」、だから私たちは恐れる必要はない。この信仰こそが何千年もの間、人々に継承されてきた信仰です。ところが、この根本的な信仰が今の時代、崩れているような気がします。
・桜庭一樹という小説家の作品が多くの読者を魅了しています。彼女のテーマは家族です。彼女はインタビューの中でこのように言います「人に裏切られる体験を重ねると、信じられるものは家族しかいないと思える。家族は決して裏切らないからだ。でもそれは血縁、つまり自分しか信じられない自己愛だと思う・・・人は他人を本当に受入れることが出来なければ生きていけない。自分の力だけを信じ、自分を大事に握りしめているだけでは孤独の淵に沈んでしまう・・・だからみんなさびしいのだ」(2009年5月20日朝日新聞朝刊より)。「だからみんなさびしい」、信仰のない世界はさびしい世界です。彼女は最後に言います「信仰の薄い日本で聖書の代わりに空洞を埋めるものは、家族じゃないかと思う」。しかし家族でさえ、空洞を埋められない現実があります。桜庭さんの描く家族は、「家という密室で、愛という名の下に、殺される子どもたち」です。日本の殺人事件の5割は家族を主とした親族間で起きています。育児の困難、虐待や暴力、介護負担の重さ、離婚、経済的困窮、家族を取り巻く環境は決して安心できるものではありません。会社共同体が崩れ、地域共同体が崩れ、今また家族さえも崩れ始ようとしています。私たちはどうしたらよいのでしょうか。
・しかし私たちには聖書が与えられています。人々は何千年もの間、聖書を読み続け、「主は共にいます」と信じ続け、その信仰が今でも続いています。この信仰を与えられた幸いを思います。北森嘉蔵という牧師が面白いことを言いました「臨終の床に横たわった人間は、ダーウィンの“種の起源”を読もうとは思わない」。ダーウィンの「種の起源」は歴史を変えた書です。私自身はダーウィンの説く進化論は概ね正しく、人間を含めた生物は水の中から生まれ、やがて陸地に上がり、種(しゅ)が分かれてきたのだろうと常識的に考えます。生物学は「ヒトとチンパンジーの遺伝子は98.5%が一致する」ことを教えます。それは先祖が同じであることを示唆します。しかし同時に、私たちは、「神が人間を創造された、その創造は私たちの知恵を超えているところで為された」と信じます。クリスチャンだからといって、科学の常識を否定する必要はないからです。
・しかし北森先生が言われるように、臨終の床でダーウィンの本を読みたいとは思いません。何故ならそれは「人間はどこから来たのか」を科学的に説明できるかもしれませんが、「どこに行くのか」については、何の回答も持っていないからです。そして「どこに行くのか」こそが、人生の最大問題なのです。「死んだらどうなるのか」、誰にもわからない事柄です。そのわからない事柄に対して、「神がご存知だ」と委ねていくのが信仰ではないかと思います。
・聖霊の導きとは何か、ルカは使徒言行録の中で、繰り返し聖霊の導きを語ります「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った・・・ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった・・・その夜、トロアスでパウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見た時、私たちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(使徒16:6-10)。使徒言行録はそれまで三人称で記述されていましたが、16章から記述が「私たち」に変わっていきます。使徒言行録の著者ルカがトロアスからパウロの一行に加わったためと思われます。おそらくは病気のパウロが医者を必要とし、港町トロアスでマケドニア人医師ルカと出会い、彼の要請でマケドニアに行くことになったと推察されます。福音がアジアから海を越えてヨーロッパ大陸に伝わっていく、歴史的な第一歩がここに始まります。もし、“福音がヨーロッパに伝わる”ことがなかったら、歴史は大きく変わったと思われます。そのきっかけが、“聖霊に禁じられて”でした。エフェソに向かうはずのパウロたちがマケドニアに向かい、そのことを通して世界史が書き換えられていきました。
・聖霊の導きとは何か、これまでの自分の人生を考えた時、目に見えない、しかし確かに存在するものに導かれてきたという思いがあります。私は50歳になるまで、自分が牧師になるとは考えたこともありませんでした。勤めを辞めて神学大学に入学した時は、篠崎キリスト教会の名前さえ知りませんでした。それが今、ここで篠崎教会の牧師として立たされ、やがて22年になります。偶然を超える、神の摂理、導きを感じます。その神の摂理を初代教会の人々は、「聖霊」と呼んだのではないでしょうか。この不思議な導きを体験した者は、死という事柄も、神に委ねることができるようになります。私は臨終の床で読むのであれば詩篇を読みたい。そして「私の霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)といって死んでいきたい。聖書が与えられ、聖霊が共にいて下さることを知らされた幸いを感謝します。