江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年9月8日説教(創世記39:1-23、エジプトのヨセフ、主は共におられた)

投稿日:2024年9月7日 更新日:

 

1.エジプトに売られたヨセフ

 

・ヨセフ物語を読み続けています。ヤコブは最愛の妻ラケルの子ヨセフを偏愛し、ヨセフには兄たちと違う特別の着物(長い晴れ着)を着せ、羊飼いの仕事をさせないで手元に置いて、秘書の仕事をさせていました。父親の偏愛を受けたヨセフは十一番目の子であるにもかかわらず、次第に兄たちを見下すようになり、兄たちはヨセフを憎み、商人たちに奴隷として売り渡し、ヨセフはエジプトに連れて来られました。エジプトで売られた先は、王の侍従長ポティファルの家でした。

・「主が共におられたので、ヨセフはポティファルの信頼を得た」と創世記は語ります。「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」(39:1-3)。主人ポティファルは、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」(39:4)。ヨセフは侍従長ポティパルの家で10年間働き、17歳の青白い少年が今や20代後半の堂々たる青年になっています。

・ヨセフはその能力と忠実さによって主人の信頼を得て、家令(財産管理人)に任じられました。彼は奴隷ではあっても安定した生活に満足しています。そこに思わぬ出来事が起こります。主人の妻が美貌のヨセフに思いをかけて来たのです。「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。『私の床に入りなさい』」(39:5-7)。しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に語ります。「ご存じのように、御主人は私を側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべて私の手に委ねてくださいました。この家では、私の上に立つ者はいませんから、私の意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。私は、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(37:8-9)。

・主人の妻はそれでも毎日ヨセフに言い寄り、あるとき強引にヨセフに関係を迫り、ヨセフは彼女の手に着物を残して逃げます。「彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『私の床に入りなさい』。ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た」(39:10-12)。

・主人の妻にとってヨセフと寝ることは快楽の追求でした。しかし、ヨセフにとってそれは命にかかわる出来事、破滅への道でした。ヨセフは彼女から逃げます。拒絶された妻は腹いせにヨセフを告発し(39:13-18)、怒った主人はヨセフを投獄します「『あなたの奴隷が私にこんなことをしたのです』と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた」(39:19-20)。この事件を通してヨセフはイスラエルの知恵の言葉を思い起こしたでしょう。箴言は語ります「彼女の美しさを心に慕うな。そのまなざしのとりこになるな。遊女への支払いは一塊のパン程度だが、人妻は貴い命を要求する」(箴言6:25-26)。「人妻は貴い命を要求する」、姦淫は人と人の関係を破壊する毒なのです。現代においても離婚の最大要因は不貞、姦淫です。親たちの罪によって、多くの子供たちが不幸になって行く現実があります。

 

2.主が共におられた

 

・ヨセフは不当な姦淫の誘いを断った故に投獄されますが、ヨセフ物語は創世記37章から始まり、39章に続きますが、その間に38章が挿入されています。38章はヨセフの兄弟ユダが嫁のタマルと過ちを犯し、その結果嫁のタマルは妊娠して子が生まれるという姦淫の物語です。何故直接にはヨセフ物語と関係しないユダ物語がここに唐突に挿入されているのでしょうか。多くの注解者は、ヨセフの兄ユダは姦淫の罪を犯したが、弟ヨセフはそれを拒否した、その対比を見よと創世記編集者が語っていると理解します。同時このユダとタマルの姦淫を通して生まれた子がやがてキリスト・イエスの系図に組み込まれることは留意すべきです。マタイは書きます「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを生み」(マタイ、1:1-3)、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(同1:16)。神は姦淫を犯したユダとタマルを赦され、その子が救い主の系図に入ることを認められたのです。神の摂理はまさに不思議です。そして創世記の出来事が新約の基礎になっているのです。

・39章からは姦淫を拒否した故に獄に入れられるヨセフが、その苦難を通して、新しい希望を見出す物語が展開していきます。主人ポティファルはヨセフを投獄しましたが、その投獄された先は王の囚人をつなぐ獄舎であり、そのことが、ヨセフが王の側近と知り合い、エジプト王に仕える契機となります。投獄されたヨセフには先のことは見えません。ただ創世記は、監獄の中でも主はヨセフと共におられたため、看守長もヨセフを信頼して全てを任せるようになったと記します。「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手に委ね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手に委ねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」(39:21-23)。

・創世記39章には「主が共におられた」という言葉が5回も出て来ます(2,3,5,21,23節)。全ての出来事を「主の導き」と信じる時に、出来事の意味が見えてきます。詩篇105は歌います「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめ一人の人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現する時まで」(詩編105:16-19)。「御言葉が実現する時まで」、ヨセフは「首に鉄の枷をはめられ」、「火で練り清められ」ます。

 

3.定められた時を待つ

 

・ヨセフは主人の妻から言いがかりをつけられた時も、抗弁をせずに、無言で主人の妻の罪を担います。神の摂理を信じる者は未来を神に委ね、言い訳をしません。神に委ねることができるゆえに、苦難の中でも平静です。今日の招詞に詩編119:71-72を選びました。次のような言葉です「卑しめられたのは私のために良いことでした。私はあなたの掟を学ぶようになりました。あなたの口から出る律法は私にとって、幾千の金銀にまさる恵みです」。ヨセフの獄中生活は3年間にも及びました(41:1)。無実の罪での3年間の投獄はあまりにも長い。ヨセフの気持ちの中では希望と失望が交互していたであろうと思えます。

・創世記注解者リュティは語ります「バプテスマのヨハネは荒野で生活し、ヘロデ王の城内にある地下牢で処刑されます。パウロは多くの刑罰を受けながらも福音伝道を続け、最後はローマで処刑されました。神は十字架上から『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫ばれた御子イエスを十字架に残されました。しかし神はそこにおられました・・・艱難、災難、失望、欠乏は神が我々と共におられることへの反証ではありません。むしろ、神が我々と共におられることの証拠です」(ヴァルター・リュティ「創世記講解25-50章」223p)。与えられた出来事を災いと思う時、その出来事は人の心を苦しめます。しかし出来事を神の摂理と理解した時、新しい道が開けます。ヨセフは不当な罪で投獄されましたが、その投獄された先は王の囚人をつなぐ獄舎で、この投獄がやがてヨセフが王の側近と知り合い、エジプト王に仕える契機となります。その時のヨセフには先は見えませんでしたが、主の導きを信じて待ちました。

・コヘレト書は「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」(3:17)と語ります。「定められた時」という言葉が人生を変えたと語るのは、政治学者の姜尚中氏です。彼は1950年熊本に在日韓国人二世として生まれ、早稲田大学を経て、ドイツ・エアランゲン大学に留学、1981年31歳時に帰国しますが、就職先がなく、大学非常勤講師やアルバイトをしながら働いていました。彼は語ります「僕は主夫業そして非常勤をやりながら、今でいう非正規雇用に近い不安感の中にあった。その時、上尾合同教会の土門一雄牧師に私淑して洗礼を受けた。その中で彼が私に残した言葉は、『すべてのわざには時がある』だった。牧師は僕の姿を見て焦っていると思ったのでしょう。だから『すべてのわざには時がある、植えるに時があり、生まるに時があり、死ぬるに時があり、そして踊るに時があり、笑うに時があり、悲しむに時がある』と語った。ここから教えられたことは、今の自分は不遇かもしれないけど、必ず時が巡ってくるのではないだろうかと。その時のためにただ待つのではなくて、やっぱり日々の『今ここ』を頑張るしかないと。その後、土門牧師の紹介でICU(国際基督教大学)の助教授という定職をようやく得ることができた。37歳の時だった」(2012年5月10日NHK教育テレビ「仕事学のすすめ」から)。ヨセフが神の導きを信じて待ったように、姜尚中氏もまた時を待ちました。ヨセフの物語は私たちの物語なのです。

・今日の招詞、詩編119編はバビロン捕囚時の詩と言われています。イスラエルの民は、エルサレムが占領され、信仰の中心だった神殿も破壊され、自分たちも遠いバビロンに連れ去られた時、神の導きが分からなかった。捕囚は七十年にも及んだため、「主よ、何故、私たちを苦しめるのですか」と嘆いて、死んで行った人も多かった。しかし、この70年の試練を経て、イスラエル人は神の民として自立していきます。旧約聖書が編集され、ユダヤ教が宗教として成立したのも、捕囚の時代でした。「卑しめられたのは私のために良いことでした。私はあなたの掟を学ぶようになりました」と詩編作者は歌いました。人は卑しめられなければ、あるいは底の底まで落ちなければ、神を求めない存在なのです。

・地獄を経験した故に、ヨセフは兄弟たちを許すことが出来ました。17歳の時に奴隷としてエジプトに売られてきたヨセフが(37:2)、30歳の時にファラオの夢解きを行い、7年間の豊作と7年間の飢饉を預言し、その対応策も示し、エジプトの宰相に任命されます。夢の啓示通りに最初に7年間の豊作の時が訪れます。ヨセフは豊作の7年間にできるだけの穀物備蓄を行なわせました。7年間の豊作の後、深刻な飢饉が世界を襲います。7年間の飢饉が始まり、近隣の国々の民は豊かな穀物備蓄を目指してエジプトに来ます。その中で、カナンにいたヤコブ一族も食料を求めてエジプトに下ってきます(42:3)。20年ぶりに兄弟たちに再開したヨセフは語ります「今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです・・・私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(45:4-8)。

・この言葉をヨセフが言えたのは、様々な試練があったからです。「御言葉が実現する時まで」、「首に鉄の枷をはめられ」、「火で練り清められた」からです。リュティが語るように、「艱難、災難、失望、欠乏は神が我々と共におられることの証拠」なのです。旧約の注解者ドヴォは語ります「ヨセフの物語においては、神は父祖たちの物語の中でしているようには現れないし、語らない。しかし神はすべての出来事を導いている」。まさに箴言が語りますように、「人は心に自分の道を考え図る。しかしその歩みを導く者は主である」(箴言16:9)。主が共におられる時、私たちはすべての悩み、煩いから、解放されるのです。全ての出来事を「主の導き」と信じる時に、出来事の意味が見えてくるのです。

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