1.ファラオの見た夢
・ヨセフ物語を読み続けています。ヨセフは兄弟たちに妬まれてエジプトに奴隷として売られ、エジプトの地では、10年間働いた宮廷侍従長の妻による誘いを断ったために告発されて投獄されます。踏んだり蹴ったりの人生でした。そのヨセフが冤罪により獄にとらわれて3年が経ちました。その時、エジプトの王(ファラオ)は不吉な夢を見たと創世記は語ります。「ファラオは夢を見た。ナイル川のほとりに立っていると、突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がって来て、岸辺にいる雌牛のそばに立った。そして、醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。ファラオは、そこで目が覚めた」(41:1-4)。不吉な夢です。ファラオはさらに二番目の夢を見ます「今度は、太って、よく実った七つの穂が、一本の茎から出てきた。すると、その後から、実が入っていない、東風で干からびた七つの穂が生えてきて、実の入っていない穂が、太って、実の入った七つの穂をのみ込んでしまった。ファラオは、そこで目が覚めた。それは夢であった」(41:5-7)。この夢もまた不吉です。
・エジプトの穀物生産の可否はナイル川に依存します。ナイルの水量が減少すれば飢饉が発生し、東風(砂漠の熱風)が吹くと、穀物が枯れてしまいます。当時、夢は「神の啓示」と考えられていました。ファラオは夢の意味を知るためにエジプト中の賢者を集めましたが、誰も夢の意味を解き明かすことができませんでした(41:8)。王は焦ります「神が何かを啓示しておられるのにその意味が分からない。国家の存亡にかかわるかもしれない夢なのに、誰も夢解きが出来ない」。その時、給仕役の長が自分の夢を解き明かしたヨセフのことを思い出し、ファラオに推薦することから、ヨセフの出番になります。
・「私は、今日になって自分の過ちを思い出しました・・・侍従長の家にある牢獄に私と料理役の長を入れられた時、同じ夜に、私たちはそれぞれ夢を見たのですが、そのどちらにも意味が隠されていました。そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をした処、私たちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かした通りに・・・なりました」(41:10-13)。不遇の中にあっても導きを信じて待つ時、神の約束は成就します。しかし、それが何時なのか、どのようにしてなのか、人は知ることが許されていません。給仕役の助言を受けてヨセフが牢から引き出されてファラオの前に出ます。
・ヨセフはファラオの夢の意味を解き明かします。「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のことです。七つのよく実った穂も七年のことです。どちらの夢も同じ意味でございます。その後から上がって来た七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉のことです」(41:25-27)。そしてヨセフは、この夢は神がファラオに飢饉への準備をさせるために与えられたと告げます「ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです」(41:28)。
2.夢の対応策を示すヨセフとその登用
・聖書の中心使信は、「未来を決定するのは、人ではなく、神である」ということです。この世を支配するエジプト王さえも未来に対しては無力です。しかし神の言葉は、いつの日か、何らかの形で成就します。ヨセフはファラオの夢を解くだけでなく、その対応策をも提案します。「ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう」(41:33-36)。
・ヨセフはこの13年間、奴隷として不遇の日々を送ってきました。最初の10年間は宮廷の侍従長ポテパルの奴隷として働きました。次の3年間は不当な冤罪により投獄されています。その彼が自分を牢から解放してほしいと願うのではなく、エジプトのために自分の持てる精一杯の知恵を提供します。ヨセフの夢解きとその対応策はファラオの心を動かします。彼は語ります「お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいない」(41:39)。こうしてヨセフは宰相に登用されます(41:40)。17歳の時に奴隷としてエジプトに売られてきたヨセフが(37:2)、30歳になってエジプトの宰相となります。13年間の忍耐が報われました。それはヨセフにとっての運命の転換でしたが、同時にエジプトにとっても大飢饉の破局から救済されるという運命の転換にもなります。
・神の啓示通りに7年間の豊作の時が訪れます。ヨセフは豊作の7年間にできるだけの穀物備蓄を行なわせました(41:49「ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた」)。7年間の豊作の後、深刻な飢饉がエジプトを襲います。その飢饉はエジプトだけでなく、当時の世界全体を覆います。「飢饉は世界各地に及んだ。ヨセフはすべての穀倉を開いてエジプト人に穀物を売ったが、エジプトの国の飢饉は激しくなっていった。また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである」(41:56-57)。
・エジプトの豊かな穀物備蓄が世界の民を養うようになります。神は賜物が与えられた人の活用を通して、民を養われます。政治家には正しい現状認識と知恵を生かした将来展望が必要です。ヨセフはその両方を持っていた。それが認められて、エジプトの財政大臣になりました。そして飢饉が広がる中で、カナンにいたヤコブ一族も食料を求めてエジプトに下ってきます「ヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った」(42:3)。これがやがてイスラエル民族がエジプトに住むようになる端緒になります。人間は計画し、神が導かれます。人間の計画通りには物事は進みません。しかし最後の結果を見て人は驚嘆します「神の御業は素晴らしい」と。
3.神は歴史に介入されるのか
・イエスが十字架上で叫ばれた最後の言葉は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」です。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味です。東北大震災の時に多くの人たちが「わが神、わが神、何故」と叫びました。東北学院大学・原口尚彰先生は震災直後の2011年6月7日に「神への問い」と題する説教をされました。「全能の神が創造主であり、世界はすべて主の御手の内にあるのなら、何故このような(悲惨な)ことが起こるのか、罪ない人が被災し、苦しむのはどうしてなのかという問いは、心の中に絶えず生じて来ます。誰にも答えられない。この問いは十字架上のイエスの問いでありました。神の子が、何故拷問を受け、断罪され、極悪人のように十字架刑を受けなければならなかったのかは大きな謎であり、不条理でした。そのような不条理な苦しみの中にある人間と共にイエスは歩み、その苦しみを共に担い、共に問い続けて下さるということだと思います」(東北学院大学『説教集』第16号、2012年3月から)。
・神は何故東北大震災を与えられたのか、歴史への神の介入をどう考えればよいのか。聖書は、神は人間の歴史に直接の介入はされないと語ります。歴史はあくまでも人間の歴史であり、戦争を起こすのも悲惨な罪を犯すのも人間です。また、震災は自然現象であり、神はそこにも介入されません。神は私たちと共におられますが、私たちに自立を求められます。神は啓示を通して私たちを導かれます。ヨセフに与えられた夢は神の啓示であり、その対応策はヨセフの知恵から生まれました。「飢饉が来る」という啓示を、「それに備えよ」いう智恵に昇華して対応したエジプトには幸いが与えられました。他方、「三陸海岸は津波が繰り返される危険な地」、「ここから下には住むな」という啓示を無視した日本は、津波によって多くの被害を受けました。
・旧約学者の並木浩一氏は語ります「ヨブ記の中で神が言及する地球物理的な自然は・・・固有の法則を持っている。自然も自律的であり、人間の願望には従わない。気象がそれを象徴的に語る・・・今回の東日本を襲った大地震と津波の発生は北米大陸プレートが過去に相当の回数行って来た自然界のリズムによる。この自然界のリズムに十分な配慮を払った生活形態を築かなければ、人々は再び悲惨な状況に追い込まれるだろう。ヨブ記は今日、人間に固有な責任の確認と外部世界の独自性の承認とを我々に問うている」(「ヨブ記からの問いかけ」)。「自然界のリズムに十分な配慮を払った生活形態を築かなければ、人々は再び悲惨な状況に追い込まれるだろう」、2011年3月11日の大震災は自然災害ですが、神の啓示を受け取ることが出来なかった日本人の智恵の欠如により被害が拡大しました。神の啓示に従って対応策を検討することこそが大事であることをヨセフ物語は教えます。
4.啓示を聞く
・ヨセフ物語では神の啓示が主題になります。イエス昇天後、弟子たちはエルサレムに集まり、「これからどうしたら良いのか」を求めて祈っていました。もうイエスはおられない、自分たちだけではどうしたらよいのかわからない。その時、弟子たちに聖霊が与えられ、聖霊を受けたペテロが語ります。今日の招詞です「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒言行録2:17)。この言葉はヨエル書からの引用です。ヨエル書は捕囚から帰還した人々を襲ったいなごと干ばつの災害を前にして、落胆する民に、ヨエルが語った言葉です。ヨエル時代にユダを襲ったいなごの害は史上まれに見る悲惨なものでした。数億匹のいなごが大量発生し、地上の穀物や木々を手当たり次第に食べ尽くし、ぶどうの実はもちろん、その樹皮さえも食われ、ぶどうの木は立ち枯れ、もうぶどう酒を作ることもできません。小麦や大麦の畑の実りも食い尽くされ、農夫たちは泣き叫び、人々は絶望の声を上げました。その絶望の中で「主の名を呼び求めよ、主はあなたたちを見捨てられない」とヨエルは預言します。
・初代教会の人々は、自分たちへの聖霊降臨こそが、ヨエルの預言成就だと受けとめました。「イエスが復活された、自分たちに聖霊が下った。今まさに主の日が来ている」との高揚感の中で、ペテロは説教を始めます。使命感にあふれた説教は人々を動かし、その日だけで3千人が受洗したと言われています。夢と幻が初代教会を立てて行ったのです。今、日本の教会は苦難の中にあります。新来者が減り、受洗者も減少し、教会員の高齢化が進み、教会は将来の絶滅が予想される「限界集落」になったと叫ぶ人もいます。人々は神の存在を疑い、宗教的な組織や施設に懐疑的な目を向け、教会の礼拝に参加する人が減少しています。
・それにも関わらず、私たちは毎週日曜日に教会に集まり、礼拝をしています。神が教会形成に必要な力を与えて下さると信じるからです。人々は豊かになりましたが、心は満たされていません。魂は渇いています。人々は福音を求めており、求めている人たちを、いかに教会に招くのかが私たちの課題です。「若者は幻を見、老人は夢を見る」、今、教会に必要なものはまさに、この「夢」と「幻」なのです。私たちが夢と幻を持ち、「この目であなたの救いを見た」という確信を持てば、神は必要な人をお与え下さり、教会は再生します。今日のバプテスマ式が示すことは、神は私たちに必要な人を与えて下さったという証しです。