1.ハランでのヤコブの苦闘
・創世記のヤコブ物語を読んでいます。ヤコブはイサクの次男でしたが、長子権を兄エソウから騙し取り、更には父イサクを欺いて家督相続の祝福もエソウから盗みました。長子権をだまし取られたエサウは、ヤコブを憎むようになり、「必ず弟のヤコブを殺してやる」(27:41)と誓います。エサウの言葉を母リベカは聞き、ヤコブに自分の実家であるハランの兄ラバンの所へ逃げるように勧めます(27:44)。1ヶ月の長い旅の後、ヤコブはハランに到着し、その地の井戸でいとこのラケルに出会います(29:9)。そして叔父ラバンに会い、ラバンは甥のヤコブを親族として迎え入れました(29:14)。ヤコブは叔父に自分の過去の経歴を、兄をだまし、父をだまして、故郷を追われてきたことを「すべて話し」ました。
・ラバンには二人の娘がいましたが、ヤコブは美しい妹娘ラケルに心惹かれ、彼女のために7年間働くことを申し出ます。当時、娘は父親の財産であり、嫁を得るためには金銀を払うか、労働奉仕をするかが必要でした。ヤコブは7年後にラケルを嫁にすることを条件にラバンの家で働くこととなりました(29:18-20)。しかし、最初に与えられたのはラケルではなく姉娘のレアでした。ラバンは言います「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしない。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない」(29:26-27)。かつてヤコブはエソウを騙して長子権を得ましたが、今度は叔父ラバンに騙され、ヤコブはラケルのためにもう7年の無償労働奉仕を行うこととなりました。「欺く者が欺かれる」という応報の出来事が起こったのです。
・ヤコブは二人の妻のために14年間無償労働をします。古代世界にあっては、多くの子を得る為に、一夫多妻は認められましたが、このような制度により、妻たちは苦しみます。姉娘レアは最初の子が生まれると「ルベン」と名付けます「主は私の苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫も私を愛してくれるにちがいない」。二人目の子は「シメオン」と名付けられます。「主は私が疎んじられていることを耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった」(29:33)レアはヤコブに愛されなかった、子に対する命名は「夫に愛されない妻」の悲哀に満ちています。
・このレアの子「レビ」の子孫からモーセが生まれ、四人目の子「ユダ」の子孫からダビデが生れます。レアがなければ、レビもユダも生まれず、モーセもダビデも現れなかった。ここに神の摂理があります(牧野信二・創世記注解)。他方、妹ラケルは子を産むことができず、姉を妬み、夫を呪います。ヤコブは兄エソウと相続権を争いましたが、今度はレアとラケルの姉妹が妻と母の座をかけて争います。ヤコブの子供たちは二人の妻の争いの中で生まれていきます。レアは子を産みましたがヤコブに疎まれ、ラケルは夫から愛されましたが子を恵まれなかった。当時の女性にとって、祝福とは子が与えられることです。美しいラケルは子が与えられず、苦しみます。
・ラケルは何とかして夫の子を持ちたいと思い、仕え女のビルハを夫のもとに入れて子を持とうとします。他方、姉のレアも対抗して、仕え女ジルパをヤコブのもとに入れます。こうしてヤコブの子は増えていきました。最後に神はラケルの胎を開き、ヨセフが与えられます(30:23-24)。このヨセフがやがて一族をエジプトに導く者となります。創世記は37章からヨセフ物語が語られます。神の経綸は不思議です。夫に疎まれたレアの子レビからモーセが起こされ、民をエジプトから約束の地に導きます。その約束の地で主体となって国を作ったのがレアの子ユダの子孫であるダビデであり、そのダビデからイエス・キリストが生まれます。
2.ヤコブの脱走
・ヤコブは二人の妻のために14年間の無償労働を行い、期限が満ちた時、独立して故郷に帰ることを義父に申し出ます。「私を独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせて下さい。私は今まで、妻を得るためにあなたのところで働いてきたのですから、妻子と共に帰らせてください。あなたのために、私がどんなに尽くしてきたか、よくご存じのはずです」(30:25-26)。この言葉にラバンは狼狽し、あわてます。働き者のヤコブを失うことは大きな損失であり、ハランに留まるように説得し、今後はふさわしい報酬を払うことを約束します。ヤコブは「黒い羊とぶちやまだらの山羊が生まれたらそれを報酬としてほしい」と申し出、ラバンは了解します。自然のままでは羊の大半は白く、黒い羊は少数派です。また、ぶちやまだらの山羊も多くはありませんでした。ヤコブはこれまでの牧畜の知恵を働かせ、黒い羊とぶちやまだらの山羊を増やして行きます。ヤコブの財産が増えるのを見たラバンの一族は不機嫌になり、ヤコブを中傷するようになります。ラバンの息子たちは「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と非難し、ラバンの態度も変わってきます。(31:1-2)
・ヤコブにしてみれば20年間の努力の結果が彼の財産形成となっていますが、ラバンたちはそう見ない。ヤコブはいよいよラバンと別れ、父の家に帰る時が来たことを悟ります」(31:3)。ヤコブはラバンの娘である妻たちに帰国の意思を伝え、娘たちも父ラバンのやり方が公平ではないことを知っていたので、ヤコブに従ってこの地を離れることに同意します(31:14-16)。出発の時、ラケルは父の家の守り神(テラフィム)を盗みました。父の家の幸福を自分の家に運ぶ為です。
・創世記は記します「ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ。ヤコブもアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げ去ることを悟られないようにした。ヤコブはこうしてすべての財産を持って逃げ出し、川を渡りギレアドの山地へ向かった」(31:17-21)。物語の背景に創世記著者が見るのは神の経綸でした。神はヤコブを祝福され、ラバンを呪われました。「お父さんが『ぶちのものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみなぶちのものを産むし、『縞のものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみな縞のものを産んだ。神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、私にお与えになったのだ」(31:8-9)。古代において人々が求めたのは神の祝福であり、この祝福を得ようとして人々は智恵を競い合って生きてきました。ヤコブはエソウに与えられるべき祝福を騙し取り、そのために約束の地を追われ、異郷の地で20年間の苦労をします。しかし、神はヤコブを見捨てず、祝福を与えられました。
3.ラバンとヤコブの争いと和解
・ヤコブが逃げたことを知ったラバンは、ヤコブを追ってギレアドで追いつき、ヤコブを非難します。ラバンは語ります「私はお前たちをひどい目に遭わせることもできるが、夕べ、お前たちの父の神が『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』と私にお告げになった。父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜ私の守り神を盗んだのか」(31:29-30)。荷物を探しても守り神は見つからず、ラバンとヤコブの立場は逆転し、ヤコブは20年間のラバンの仕打ちを非難します「この二十年間というもの、私はあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたは私の報酬を十回も変えました。もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方が私の味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を追い出したことでしょう。神は、私の労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです」(31:41-42)
・ラバンは、娘たちや孫たちや財産はすべて自分のものであり、それを取り戻すために追跡してきました。しかし、神がヤコブと共におられることを改めて思い、ヤコブに和解を申し出ます。「この娘たちは私の娘だ。この孫たちも私の孫だ。この家畜の群れも私の群れ、いや、お前の目の前にあるものはみな私のものだ。しかし、娘たちや娘たちが産んだ孫たちのために、もはや、手出しをしようとは思わない。さあ、これから、お前と私は契約を結ぼうではないか。そして、お前と私の間に何か証拠となるものを立てよう」(31:43-44)。
・二人の間に相互不可侵の契約が結ばれます。「ヤコブは一つの石を取り、それを記念碑として立て、一族の者に『石を集めてきてくれ』と言った。彼らは石を取ってきて石塚を築き、その石塚の傍らで食事を共にした・・・ラバンはまた『この石塚(ガル)は、今日からお前と私の間の証拠(エド)となる』とも言った。そこで、その名はガルエドと呼ばれるようになった。そこはまた、ミツパ(見張り所)とも呼ばれた『我々が互いに離れている時も、主がお前と私の間を見張ってくださるように。もし、お前が私の娘たちを苦しめたり、私の娘たち以外にほかの女性をめとったりするなら、たとえ、他に誰もいなくても、神御自身がお前と私の証人であることを忘れるな』とラバンが言ったからである」(31:45-50)。ラバンの一族は後にアラム人と呼ばれます。ここに約束の地に入ったイスラエル人が先住民アラム人とどのようにして共存するようになったかの歴史が物語として描かれています。
4.和解を持ち運ぶ者になる
・これが和解です。お互いに言い分はあっても譲歩し、平和を保つために協定を結ぶ。そして結んだ協定は守る。それが神の智恵でした。「ラバンは更に、ヤコブに言った『ここに石塚がある。またここに、私がお前との間に立てた記念碑がある。この石塚は証拠であり、記念碑は証人だ。敵意をもって、私がこの石塚を越えてお前の方に侵入したり、お前がこの石塚とこの記念碑を越えて私の方に侵入したりすることがないようにしよう。どうか、アブラハムの神とナホルの神、彼らの先祖の神が我々の間を正しく裁いてくださいますように』。ヤコブも、父イサクの畏れ敬う方にかけて誓った」(31:51-53)。
・和解とは双方が問題解決のために譲歩することです。今日の招詞にミカ4:3を選びました「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」との言葉はニューヨークの国連ビルの土台石に刻まれています。20世紀は戦争の世紀でした。第二次大戦が終わった時、人々はもう戦争は止めようとして国連を組織し、武器を捨てるという決意で土台石にこの言葉を刻み込みました。しかし、戦争は終わらなかったし、今でも続いています。それにも関わらず、私たちはこの御言葉を大事に読みます。何故なら、イエスが来られたことによって、人と人の間の敵意の壁が崩れたことを知っているからです。
・今日の世界はあまりにも二者択一の世界です。「資本主義と共産主義のどちらが正しいか」、「正義と民主主義のアメリカか、それともテロリストのアラブか」。このような問いかけからは平和は生まれません。ヨハネ福音書のイエスはサマリアの女性に語られました「婦人よ、私を信じなさい。ゲリジム山の神殿とエルサレムの神殿、サマリア教とユダヤ教の敵意と憎悪の感情が乗り越えられ、まことの礼拝をする者たちが、霊とまことをもって父を礼拝する時が来る。いや、来ている」(ヨハネ4:21-23)。イエスの言葉が罪の女とサマリア人の和解をもたらし、サマリアとユダヤの和解をもたらしました。人に敵意と憎悪を乗り越えさせるものは、人間の思いを超える神の言葉です。何故なら、神がこの世を支配しておられるからです。そして今、神は言われます「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とせよ」と。
・日本人にとって8月は平和を祈る時です。8月6日は広島平和記念日、8月9日は長崎平和記念日です。そのして8月15日は敗戦記念日です。聖フランシスは祈りました「神よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす者としてください」。平和を創り出すために何が必要なのか、和解とは何か、私たちはヤコブの物語を通して学びように命じられています。