1.エソウとヤコブの物語
・創世記を読んでいます。二代目族長イサクには二人の息子がいました。長男エソウと次男ヤコブです。イサクは年老い、長子のエソウを後継者にするために、エソウに語ります「狩りに行き、ごちそうを作ってほしい、その後に族長の祝福をしよう」。イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなっていいました。そこで上の息子のエサウを呼び寄せて語ります。「こんなに年をとったので、私はいつ死ぬか分からない。今すぐに、弓と矢筒など、狩りの道具を持って野に行き、獲物を取って来て、私の好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、私自身の祝福をお前に与えたい」(27:1-4)。
・「おまえを次の族長にしよう」とイサクは長子のエソウに語ります。ところが母親リベカは長男ではなく、次男ヤコブに長子の祝福を与えるために計略を巡らします。「リベカは息子のヤコブに言った『今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。「獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。私は死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい」と。私の子よ。今、私が言うことをよく聞いてその通りにしなさい。家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。私が、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう』」。(27:6-10)。
・ヤコブは父をだますことをためらいますが、母リベカは「呪いは自分が受ける」とまで言い、ヤコブを励まして祝福を受けることができるようにします。ヤコブは母リベカに言いました「エサウ兄さんはとても毛深いのに、私の肌は滑らかです。お父さんが私に触れば、だましているのが分かります。そうしたら、私は祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます」。それに対して母は言います「私の子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、私の言うとおりに、行って取って来なさい」(27:11-13)。
・人間的に見ればリベカやヤコブの行為は許せない行為、不正なものでした。しかし多くの新約記者はその行為の中に神の導きを見ました。パウロは語ります「『私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてある通りです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない・・・神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」(ローマ9:13-18)。神は何故、エソウではなくヤコブを選ばれたのか。創世記26章34節-35節は語ります「エサウは、四十歳の時ヘト人ベエリの娘ユディトとヘト人エロンの娘バセマトを妻として迎えた。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった」(26:34-35)。エソウに長子権が与えられれば、他民族との婚姻を通してイスラエル民族の血統が保たれえなくなる故に、神はヤコブを選ばれたと創世記は示唆します。
2.祝福を騙し取るヤコブ
・ヤコブは目の見えない父イサクをだまして祝福を受け取ります。「ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。『ああ、私の子の香りは主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒をお前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は祝福されるように』」。祝福の内容は族長としての支配権を与えるものでした(7:27-29)。
・やがてエソウが狩りから帰りますが、既に祝福はヤコブに為されており、イサクさえもその決定を覆すことはできなかったとあります。「イサクがヤコブを祝福し終えて、ヤコブが父イサクの前から立ち去るとすぐ、兄エサウが狩りから帰って来た。彼もおいしい料理を作り、父のところへ持って来て言った『私のお父さん。起きて、息子の獲物を食べてください。そして、あなた自身の祝福を私に与えてください』」。父イサクは驚きます。彼は「お前は誰なのか」と聞き、「あなたの息子、長男のエサウです」と答えを聞き、イサクは激しく体を震わせます「では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取って私のところに持って来たのは」。「お前が来る前に私は彼を祝福してしまった」。エサウは父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った『私のお父さん。私も、この私も祝福してください』。イサクは言った『お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった』」(27:32-35)。
・弟に騙されたと知ったエソウはヤコブを呪い、殺す決意を固めます。「エサウは叫んだ『彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、私の足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あの時は私の長子の権利を奪い、今度は私の祝福を奪ってしまった」(27:36)。新約記者と異なり、旧約の預言者たちはヤコブの行為を肯定しません。ヤコブの行ったことは明らかに欺瞞行為でした。エレミヤは語ります「人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても、『押しのける者(ヤコブ)』であり、隣人はことごとく中傷して歩く」(エレミヤ9:3)。
3.ヤコブの逃亡
・怒ったエソウはヤコブを殺そうとしています。母リベカはヤコブの命を救うために、メソポタミヤのハランにある彼女の実家に息子を避難させようとします。「上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。彼女は人をやって、下の息子のヤコブを呼び寄せて言った『大変です。エサウ兄さんがお前を殺して恨みを晴らそうとしています。私の子よ。今、私の言うことをよく聞き、急いでハランに、私の兄ラバンの所へ逃げて行きなさい。そして、お兄さんの怒りが治まるまで、しばらく伯父さんの所に置いてもらいなさい』」(27:42-44)。
・ヤコブは父イサクを騙しましたが、イサクはこれを赦し、ヤコブを祝福してはメソポタミヤの地に送り出します。「イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた『お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、そこでラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい。どうか、全能の神がお前を祝福して繁栄させ、お前を増やして多くの民の群れとしてくださるように。どうか、アブラハムの祝福がお前とその子孫に及び、神がアブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように』」(28:1-4)。「カナンの娘の中から妻を迎えてはいけない」、イスラエルは聖別された民として、他民族との結婚を禁じられます。それは他民族との婚姻を通じて偶像礼拝等の悪習が入り込むことを防止するためであったとされています。イサクは血の純潔をおろそかにしたエソウではなく、ヤコブの選びの意味を民族の形成の中に見たのです。
・イスラエルは、バビロン捕囚後には異民族との婚姻を律法で禁止します。主ではなく、他の神々を礼拝したゆえに、自分たちは国を滅ぼされたと彼らは理解したのです。同族婚の維持に民族の盛衰がかかっていると捕囚を経験した指導者たちは考えたのです。これは私たちも学ぶべきかもしれません。信仰の継承のためには、私たちの娘・息子を同じ信仰者と結婚させたほうが良い。しかし日本の親たちはそれを強制しません。信仰は自由に選ぶべきであり、子に強制しないのは当然です。しかしそれゆえに信仰の継承がうまくいかないのも事実です。
4.イスラエルの選びの意味
・ヤコブの12人の息子からイスラエル民族が始まりますが、現実のイスラエルの歴史は苦難の連続でした。約束の地に入ったイスラエルは王国を形成しますが、やがて国は分裂し、北王国はアッシリアに滅ぼされ、残った南王国もバビロニアに滅ぼされました。生き残った民は国を再建しますが、その国はペルシャ帝国の支配下に置かれ、ペルシャなき後はギリシャ、そしてローマの支配を次々に受け、ついには紀元70年にローマに滅ぼされて、彼らは流浪の民になります。中世時代にユダヤ人たちはキリスト教徒に迫害され、近世では寄留先の居住国から追われ、第二次大戦中は民族虐殺(ホロコースト)の憂き目にあいました。どこに選ばれた祝福があったのでしょうか。
・しかし3千年の歴史を振り返る時、そこに確かに祝福があったことを私たちは知ります。世界帝国となったアッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、全ての強大国は滅んできました。また当時カナンに住んでいたアモリ人、モアブ人、ペリシテ人、アラム人等の弱小民族も滅んできました。その中で、イスラエルだけが滅びず、今日まで生き残っています。プロイセンのフリードリヒ大王はある時、侍医のツインマーマンに尋ねます「お前にできるなら、神が存在することを証明せよ」。侍医は答えました「陛下、それはユダヤ人です」。イスラエルだけが民族として3千年間を生き残った、そこに神の存在のしるしを見たのです。
・イスラエルは選ばれた故に苦難という鍛錬を受け、その苦難の中で主に祈り続けて来ました。この祈りこそ、イスラエルを生存させてきたものです。イスラエルは苦難を通して、自分たちが神の民であることを証し続けて来たのです。イスラエルは神の民として選ばれましたが、それはイスラエルを通して、諸国民を救うためでした。そのためにイスラエルは選びの民としてさまざまの試練を与えられました。その試練の中で、イスラエルから御子キリストが生まれて行きます。そのキリストの十字架と復活を通して、新しいイスラエル、教会が生まれて来ました。教会はこの世の中で、「神に従う生き方」をするように呼び集められた群れです。しかしその教会もこの世と同じ堕落をします。新約聖書の三分の一はパウロ書簡ですが、それらの手紙はいろいろな問題を抱える教会に宛てて出されたものです。今日の招詞に第一コリント1:27-28を選びました。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」。
・争いを繰り返す教会の人々にパウロは語ります「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」(第一コリント1:26)。そのあなたたちが、「私は正しい、あなたは間違っている」とお互いを批判して教会を混乱させている。しかしあなたを選ばれた神は、知恵のある者よりも無学な者を、権力のある者よりも無力な者を、家柄のよい者よりも身分の卑しい者を選ばれたではないか。そのような者が神の召しを受け、信仰を与えられ、主の救いにあずかっているのに、「私が正しい」と争い合うのは何故かとパウロは語ります
・私たちは神から選ばれて教会に召されましたが、それは我々が正しいからでも信仰深いからでもなく、ただただ神の恵み、神の憐れみによるものです。だから「だれ一人、神の前で誇る」(第一コリント1:29)ことは出来ない。この神の選びと召しは、人間の一切の誇りを打ち砕きます。自分の立派さ、清さ正しさを誇る思いが、神の選びと召しの前では打ち砕かれるのです。そういう人間の誇りが砕かれ、ただ一つ残るもの、それは神が私たちを選び、キリスト・イエスに結びつけて下さったという恵みの事実であり、そのキリストが、私たちにとって「義と聖と贖い」となって下さったということです。だからパウロは言います「誇る者は主を誇れ」(1:31)。
・私たちは宣教40年の年に、新しい会堂を与えられました。それから10年が経ちました。私たちの教会の50年間の歩みは決して順調な歩みではありませんでした。かつては牧師交代の度に教会員が散らされていった歴史があります。民が散らされたということは、教会の中に争いがあったことを意味します。私たちは罪を犯し、裁かれたのです。私たちもまたイスラエルやコリントの民と同じ、「かたくなな民」なのです。しかし主はその私たちに新しい会堂を与えて下さった。それは私たちが過去の人々に比べて、信仰が厚いとか、行いが優れているからではありません。「背いても、背いても、なお捨てたまわない神の恵み」があったからです。この会堂は私たちが快適な教会生活を送るために与えられたのではなく、私たちを通して福音が隣人に伝えられる、その拠点として与えられたことを覚えたいと思います。