江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年6月16日説教(第二コリント5:2-21、キリストの愛に駆り立てられて)

投稿日:2024年6月15日 更新日:

 

1.キリストの愛に駆り立てられて

 

・コリント第二の手紙を読んでいます。パウロは紀元50年頃、コリントで開拓伝道を行い、1年半後にそこに教会が生まれました。その後、彼はエフェソの開拓伝道に向かいますが、パウロが不在の間、エルサレム教会から派遣された巡回伝道者たちがコリントを訪れ、パウロと異なる福音を宣べ、教会の信仰が次第に別のものに変わって行きました。エルサレム教会の伝道者たちは、「パウロは直弟子ではないから使徒とはいえない」とか、「彼は自分の異端的な信仰を教会に押し付けている」と批判したようです。いまだユダヤ教の枠内にいたエルサレム教会の人々は、パウロの「律法から自由な」、「割礼なしの福音」を理解できなかったのです。コリント教会の一部の人たちは彼らの影響を受け、パウロに批判的になっていきます。その教会に対し、パウロが書いた弁解の手紙の一部が、第二コリント5章です。

・パウロは語ります「私たちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです」(5:13)と。正気ではない=ギリシャ語エクシステーミという言葉です。エクス=外に、イステミー=立つ、外に立つ、世の常識の外に立つという意味です。使徒言行録によりますと、パウロはユダヤ教の戒めである律法に熱心なファリサイ派に属し、律法を軽んじるキリスト教徒を異端として捕縛するために、ダマスコに赴く途上で、復活のキリストに出会っています。その時、パウロは、「サウル、サウル、何故私を迫害するのか」(使徒9:4)というキリストの言葉を聞きます(サウル=パウロの旧名)。この言葉でパウロに地面に倒され、目が見えなくなり、キリスト教徒のアナニアに助けられます。この時、パウロは、「イエスは復活して今も生きておられる」ことを自ら体験しました。この神秘体験を通して、古いサウロは死に、新しいパウロが生まれました。

・キリストの迫害者だったサウロが一転してキリストの伝道者パウロになり、それからの彼は気が狂ったように伝道に邁進しました。周囲の人々は彼の変化に驚きます「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」(ガラテヤ1:23)。パウロは、それを「キリストの愛が私たちを駆り立てている」(5:14)と述べます。パウロは語ります「私はもはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きる」(5:15)存在に変えられたと。

 

2.復活のキリストとの出会いが全てを変えた

 

・パウロは続けます「それで、私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(5:16)。肉に従ってキリストを見るとは、歴史に現れたナザレのイエスをこの世的視点から見ることです。イエスの奇跡と力ある説教を見て、人々は「この人は聖書に預言された救世主(メシア)かもしれない」、「この人は私たちをローマ帝国の支配から解放してくれるかもしれない」と期待を寄せました。しかしイエスは無力にもローマ軍によって反乱者として逮捕され、十字架刑で処刑されました。神からの救済の奇跡は起きず、人々は深く失望しました。肉に従って見れば、イエスは当時たくさん出た偽メシアの一人、ローマによって処刑された何千人もの反乱者の一人に過ぎませんでした。

・弟子たちも同じように失望し、散らされて行きました。しかしその弟子たちが、やがてエルサレムに戻り、「この人こそメシアであった」と宣教を始め、死を持って脅されても宣教を止めませんでした。何故ならば彼らは復活のイエスと出会い、そのことを通して「イエスがメシア=キリストである」との確信を持ったからです。その証しが、第一コリント15:3-5にあります「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。

・ここで注目すべきは、復活のイエスと出会ったのは弟子たちだけだったとのパウロの証言です。イエスこそ神の子であるとの希望を持った人だけが復活のイエスと出会い、その他の人々は出会わなかった。つまり「イエスがキリストである」という真理は肉の目では見えず、霊の目だけが見える真理なのです。熱心なユダヤ教徒であったパウロも、最初はイエスがキリストであるとは思いもしませんでした。だからキリスト教徒たちを異端として迫害しました。しかしダマスコでの回心体験を通して、パウロは「イエスこそキリストである」ことを確信します。だから彼は「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(5:16)と語るのです。ペテロやパウロを伝道者として駆り立てたものは、復活のイエスとの顕現体験です。しかし、イエスの復活を目撃したのは弟子たちだけで、他の人は体験しなかった。復活は客観的な出来事ではなく、主観的な出来事なのでしょうか。

・復活にはいろいろな理解がありますが、個人的に最も納得できるのは大貫隆先生の復活理解です。大貫先生は「イエスという経験」(2003年、岩波書店)の中で語ります「ペテロを筆頭として、イエス処刑後に残された者たちは、何処とも知れず逃亡先に蟄居して、(中略)必死でイエスの残酷な刑死の意味を問い続けたに違いない。(中略)彼らは旧約聖書を繰り返し読み、そこに意味を見出そうとした。そして旧約聖書の光に照らされて、いまや謎と見えたイエスの刑死が、実は神の永遠の救済計画の中に初めから含まれ、旧約聖書で預言された出来事として了解し直された」(p220)。彼らによって見出された聖書箇所の一つがイザヤ53章4-5節です「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた」。この「イエスの死の了解体験」が、「イエスは私たちの罪のために死なれた」という贖罪信仰になっていきます。

・大貫先生は続けます「直接のきっかけがペテロの個人的な幻視(あるいは神秘体験)であったとしても、旧約聖書の光に照らしての、否、旧約聖書のそのものの新しい読解としての謎の解明がそこで為された」。旧約聖書では世の終わりに死人は起こされ、裁きを受けると書いてあります(ダニエル書12:2他)。だから弟子たちはイエスの復活を「彼は起こされた」(第一コリント15:4)と表現し、終末、神の国が始まったと理解したのです。

 

3.信仰に生きる

 

・パウロは語ります「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(5:17)。「私が生前のキリストに従った直弟子であろうとなかろうと大した問題ではない。またエルサレム教会からの推薦状を持つかどうかも本質的な問題ではない。私はキリストから直接に召された使者としてあなた方に接したのだ」とパウロは語ります。そして「私が委ねられたのは和解の福音だ」と語ります。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです」(5:18-19)。

・パウロはコリント教会に語りかけます「神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(5:20)と。そして語ります「罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。私たちはその方によって神の義を得ることができたのです」(5:21)。神と和解した者は人とも和解します。人が他者と争うのは、彼が神と和解していないからです。パウロは語ります「あなた方は私を憎んでいるのではないかと思えるような激しさで私を批判する。もし、あなた方が私を憎んでいるならば、あなた方は神と和解していない。だからお願いする、神と和解しなさい。神の招きは無条件である。しかし、受け入れるという決断はあなた方自身がしなければいけないのだ」と。

 

4.苦難を超えた愛を

 

・今日の招詞にヘブル12:5-6を選びました。次のような言葉です「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。肉の父が子を鍛えるように、父なる神はあなた方を鍛錬するために迫害という苦しみを与えられたと著者は語ります。私たちが与えられる苦難を受け入れることを拒み、不平のみを語る時、苦難は苦難のままに終わり、私たちを飲み尽くします。しかし、私たちがそれを神から与えられた試練であり、神はこの試練を通して、私たちを祝福されようとしておられることを知るならば、その苦難は私たちを平安の道に導きます。苦難を神からの鍛錬と受け止めても苦難は苦難です。出来れば避けたい、しかし避けられないものならば正面から受け止めよと著者は言います。

・キリスト者の喜びは苦難や悲しみがないことではありません。苦難はキリスト者にも襲いかかります。パウロは先に語りました「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。当時のパウロの置かれた現実は、「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒された」状況でした。パウロは、失敗した伝道者、教会から辞任を迫られた牧師のような惨めな状態なのです。世の人々はパウロを敗残者と考えるでしょう。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)と言います。この言葉を原文に忠実に訳すると、「途方に暮れても、途方に暮れっぱなしではない」となります。彼は失望から立ち上がる力が与えられた、それが復活のイエスから与えられる力です。だからキリスト者はどのような状況の中でも喜ぶことが出来、また悲しむ人を慰めることが出来るのです。

・私たちが福音を伝えるべき対象の日本人は、今現在、決して幸福ではありません。いろいろな調査を見ると、日本人は「豊かではあるが幸福ではない」という指標が出ています。これまで日本人を支えていた地域の絆、職場の絆、家族の絆がなくなり始め、人々が孤立化しています。神学者の栗林輝夫氏は述べます「今日我々が目撃しているのは、経済のグローバル化によって『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる』(マタイ13:2)という格差社会であり、大勢の若者がワーキング・プアに転落していく光景である。資本のグローバル化は生産拠点を労働力の安い地域(海外)に移動させ、それまで人々を結びつけてきた地域の文化を根こぎにし、地方の中小都市の街を軒並みシャッター・ストリートにした」。かつて日本は一億総中流の経済格差のない社会でしたが、今では先進国の中でアメリカに次ぐ格差社会になってしまいした。

・その時、教会はキリストの福音を発信して、人々に「生きる勇気」を与えうるかが試されます。私たちの人生において、次から次に不運と不幸が襲いかかり、不安と恐れに苦しめられる時があります。神の子とされているのに、何故次々に困難や苦難が与えられるのか、自分は呪われているのではないかとさえ思える時もあります。それは、これまでにもあったし、これからもあるでしょう。その時、私たちはどうして良いのかわからず、途方に暮れます。パウロも途方に暮れましたが、しかし「途方に暮れっぱなしではなかった」。彼は失望から立ち上がる力が与えられました。「十字架で殺されたイエスの体を身にまとって」です。復活のイエスの命が彼のうちに充満し、彼は立ち上がりました。そのイエスの力は教会の交わりを通して私たちにも与えられます。パウロの福音はイエスの復活に裏打ちされた「希望の福音」です。この希望に励まされて私たちも生きていくことができるのです。

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