1.伝道者の報酬をめぐる問題
・コリント書を読んでいます。パウロはコリント8章で、「偶像に供えられた肉を食べても良いのか」の問題に関して、「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」(8:13)と語ります。キリスト者は全ての食物を食べることが許されています。「地とそこに満ちているものは全て主のもの」(10:26)だからです。しかし、それが「人々をつまずかせるならば食べない」、それがパウロの決意です。人々につまずきを与えるような行為はしない、しかし当時コリントの人がつまずいていた、もう一つの問題がありました。それは「伝道者は報酬を受けるべきかどうか」という問題です。その問題について語られた箇所が今日読みますコリント9章です。
・コリント9章から推察されますことは、教会の中にパウロが伝道者としての報酬を受け取らないことに違和感を抱く人々がいた事です。エルサレムから派遣された伝道者たちは派遣費用や滞在費を教会から受け取っていたようですが(9:4-6)、パウロはそれをコリント教会に求めなかったため、教会内のある人々は「パウロは金儲けのために活動しているのではないか」、「彼がエルサレム教会に捧げるとして集めている献金は実は自分のためではないか」とか、「パウロがお金を受け取らないのは自分がペテロやヤコブのような使徒ではないことを知っているからだ」とか、批判していたようです。
・それに対し、パウロは反論します「私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のために私が働いて得た成果ではないか。他の人たちにとって私は使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、私が使徒であることの生きた証拠だからです」(9:1-2)。使徒とは「派遣された者」の意味です。ペテロやヤコブはエルサレム教会から派遣されて伝道の任にあたっていましたが、パウロは天幕づくりをして生活費を自分で稼ぎながら(使徒18:3)、コリントで開拓伝道し、教会を立てました。
・報酬の問題についてパウロは、語ります。「私たちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、私たちはなおさらそうではありませんか」(9:11-12a)。肉のもの、金銭的報酬です。教会の設立者であるパウロが報酬を受ける権利があることは自明なことです。しかし、パウロは報酬を受ける権利を放棄します。彼は語ります「私たちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます」(9:12b)。それは何故か、「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、(神から)強いられてするなら、それは、委ねられている務めなのです。では、私の報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせる時にそれを無報酬で伝え、福音を伝える私が当然持っている権利を用いないということです」(9:17-18)。「伝道者が報酬を受けることによって誤解が生じる時には、報酬を受けないで働く」と彼は語るのです。
2.教会の現実の中で伝道者の報酬問題を考える
・パウロの問題提起「伝道者が報酬を受けることによって多くの誤解が生じる」という事柄は、現代の教会にとっても大事な議論です。教会には牧師と信徒がいます。牧師は信徒が捧げた献金の中から生活に必要な報酬を受けます。伝道のために働く者が報酬を受け取るのは当然です。パウロもそうだと言います「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」(9:14)。しかし信徒もまた伝道のために働いています。信徒は無報酬で福音宣教のために働き、牧師は報酬をいただいて働く、その違いはどこから来るのか、難しい問題をはらんでいます。牧師と信徒はどこが異なるのか、牧師は伝道のために必要な専門教育を受け、専門職として説教や礼典の執行を行います。牧師は教会で働く職業人です。
・職業人であれば相応の給与を受けるのは当然であり、そのため日本バプテスト連盟では標準牧師給を定めています。連盟牧師給支援規定では「50歳、妻、子2人、勤続20年」の平均的牧師の場合、牧師基本給+家族手当+夏期・冬期手当てを総計すると、年間支給額が6,727,680円となります。さらに教職者の社会保険料(健康保険・介護保険・厚生年金保険の1/2は教会負担)を合わせれば、7,405,714円となります。その一方で、連盟所属のバプテスト教会の平均の経常献金は500万円~600万円台です。フルタイムの牧師招聘のためには、最低でも経常献金1,000万円の水準が必要となりますが、これは連盟330教会の3割、100教会しかありません。つまり「平均的な教会はフルタイムの牧師を招聘できない」という現実があります。ですから経常献金が600万円の篠崎キリスト教会の牧師給は年間340万円、標準牧師給の1/2です。
・現代の宣教者にパウロのような完全自給の伝道を求めることは非現実的です。ここにおいて「現代の天幕伝道としての兼業牧師の招聘」が重要な課題となります。兼業牧師の招聘とは、「独自収入を持った牧師の招聘」です。具体的には「働きながら牧会を行う」、「何らかの副業を持つ」、「年金等の収入を持つ」、「家族が働いて生計を整える」等が可能な牧師の招聘です。私の給与が標準牧師給の1/2であるのは私が既に年金収入を持っているからです。日本の牧師の多くは報酬が不足しても教会のために働いています。パウロが手紙の中で語るように「私はこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない・・・だれも、私のこの誇りを無意味なものにしてはならない。私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」(9:15-16)。
・パウロは「私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです」と語りました。日本の牧師も同じように、「福音を伝えたい、何とかして何人かでも救いたい」(9:22)と思うからこそ、牧師の仕事に携わっているのであり、報酬目当てに働いている人は少ないと思われます。しかし、経済成長の鈍化に伴い、国民所得は伸び悩み、今では牧師給が相対的に高給になり、教会の中でつまずく人も出ています。このつまずきを無くすために、伝道者は経済的に自立すべきであるとして、無教会では報酬制度を否定しました。無教会の伝道者の多くは学校の教師等をしながら伝道して来ました。しかし今日無教会は消滅の危機を迎えています。教会に集う人たちが献金という形での経済的負担をしない時、教会員は傍観者に留まり、教会が成長しないのです。教会員の献金に依存しない宣教師が開拓した教会が伸び悩むのも同じ理由です。献金という痛みこそが「教会を教会に」します。
・牧師の学びも同じです。私は会社を辞めた後、東京神学大学に入学し、東京バプテスト神学校からの学びを継続しました。東京神学大学は日本基督教団の大学ですので、バプテストの出身者には学費補助がない。そのため、年間100万円以上の学費を自己負担して学びました。その時、自分は「職業人として神学を学んだ」と思います。学費を自己負担して学んだことにより、自分と家族の生活を懸けて必死で学んだ。他方、西南学院大学神学部は奨学金制度が充実しており、連盟の会員であれば無料で学べます。しかしその学びは緩やかなものになります。自己負担なしで学べることが、学びの真摯さを損なうのです。逆説的ですが、「痛みを感じない学びは役に立たない」と思います。
3.福音の下にある自由
・今日の招詞にフィリピ4:11-12を選びました。次のような言葉です「物欲しさにこう言っているのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。この言葉はフィリピ教会からの経済支援に対するパウロの感謝の言葉です。コリント教会から報酬を受け取らなかったパウロが、ここではフィリピ教会からの経済支援に感謝しています。伝道者が報酬を受け取るのは当然であり、そのことにつまずく人がいなければ感謝してそれを受けます。しかし「つまずく人がいれば受けない」。ここにパウロの自由さ、柔軟さがあります。
・バプテスト連盟の標準牧師給は平均700万円であり、また諸教会の平均献金額は500-600万円であると述べました。平均ですから格差があるのは当然です。献金が1000万円を超えている教会であれば恥じることなく標準牧師給を支払うべきであり、献金額が500万円に満たない教会であれば標準牧師給の半額程度に抑えるべきでしょう。パウロのいう柔軟性、「私は自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」が必要です。
・「置かれた場所で最善を尽くせ」とパウロは言います。「物が有り余っていても不足していても」、献金がたくさんある教会は十分な牧師給を払い、足らない教会は牧師給を減らして牧師は副業をする、それで良いのではないかと思います。この世の人々は自己完成のために節制を、あるいは禁欲を行います。キリスト者は他の人々に仕えるために禁欲します。伝道者が報酬を受け取ることにつまずく人がいれば、報酬の全部または一部を放棄します。パウロは語ります「私は、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです・・・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」(9:19-22)。
・ここにキリスト者の自由があります。「私は、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」。この言葉を宗教改革者ルターは次のように言い換えました「キリスト者は全ての者の上に立つ自由な君主であって何人にも従属しない。キリスト者は全ての者に奉仕する僕であって何人にも従属する」、有名なルターの「キリスト者の自由」の一節です。「富んでいる時にはその富を福音のために用い、貧しい時はその貧しさを福音のために忍ぶ」、その柔軟性を教会が持った時、教会の中で「私はパウロに、私はアポロに」という分裂は起きないし、「肉を食べるのは私の自由だ、なぜ干渉するのか」という言い争いも起きません。
・最後にパウロの至極の言葉を読みましょう「福音のためなら、私はどんなことでもします。それは、私が福音に共にあずかる者となるためです」(9:23)。パウロは生涯結婚せず、各地を放浪し、天幕を作りながら伝道し、そして殉教の死を遂げました。彼は「自分の羊」を養うために命を捧げました。福音の宣教者が自己を養うことを考え始めたら、彼はその資格を失うと思います。しかし現代の牧師にパウロのような無報酬の奉仕を求めるのは、現実的ではありません。知恵が必要です。その時、「兼業牧師の招聘」が重要な課題となります。具体的には、「職業(独自収入)を持った牧師の招聘」です。「働きながら牧会を行う」、「何らかの副業を持つ」、「年金等の収入を持つ」、「家族が働いて生計を整える」等が可能な牧師の招聘です。牧師も信徒も共に痛みを感じて教会形成を行うことが必要なのです。