1.ヨセフを通してのイエス生誕物語
・私たちはクリスマスを待つ待降節の中にいます。キリストが、どのようにして生まれられたかをマタイ福音書1章は語ります「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(1:18)。「聖霊によって身ごもる」、理解が難しい言葉がいきなり出てきます。人は通常は父と母から生まれ、両親がそろっている時、母の妊娠、子の誕生は祝福です。しかし、そうでない場合、子の妊娠が大きな波紋を招きます。ヨセフはマリアの許嫁でしたが、まだ婚約中で正式には結婚していません。その許嫁が身ごもった。ヨセフは身に覚えはありませんので、マリアが不義の罪を犯したと考えざるを得ません。そのためヨセフはマリアとの婚約を解消しようとしました。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1:19)。この短い言葉の中にヨセフの苦悩が凝縮されています。
・「これから結婚しようという女性が自分以外の人の子を宿している」、ヨセフはこの事実を知って、苦しんだに違いありません。そして、「ひそかに縁を切ろうと決心した」、マリアの妊娠の事実が表ざたになれば、当時の規定では、マリアは裁判にかけられ、村から追放されます。仮に裁判を逃れたとしても、父親のいない子を養育することは当時の社会では不可能です。来る日も来る日もヨセフは悩んだことでしょう。眠られぬ日が続く中でヨセフは夢を見ます。その夢の中で主の使いが現れ、ヨセフに「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(1:20)と述べます。「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」、ヨセフは理解できませんが、これを神の御旨として受け入れます「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた」(1:24)。
2.ヨセフの苦悩と決断
・イエス誕生の次第は多くの人々に困惑を与えてきました。マタイ福音書は冒頭にアブラハムから始まってイエスに至るまでの42代の系図を掲げます。「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」という風に父の系図が続きますが、イエスについては父の系図が突然母系に変わっています。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(1:18)。ルカ福音書もイエスの系図を掲げますが、その中で「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ3:23)と語ります。マルコ福音書ではイエスがナザレ村で「マリアの息子」(マルコ6:3)と呼ばれていたと報告しています。「父の名をつけて呼ぶ」のが慣例の社会では、決して好意的な呼び名ではありません。つまり、マタイもルカもマルコもイエスがヨセフの実子ではないことを告白しています。人間的に見れば婚姻外の妊娠であり、社会では不道徳な出来事とされます。しかし福音書記者は、これを信仰によって、「聖霊によって生まれた」と受け止めています。
・ヨセフは「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」との神の言葉を与えられ、マリアを受け入れて妻に迎えました。ヨセフは理解できない出来事を目の前に突き付けられ、苦悩し、「何故ですか」とその不条理を何度も訴えたと思われます。そのヨセフの度重なる訴えに応えて、主の使いがヨセフに現れ、「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と示されたのです。現代の言葉に直せば、主の使いはヨセフに「マリアの生む子をお前の子として受け入れてほしい」と言われたのです。
・これまでヨセフは自分のことしか考えていませんでした。しかしマリアの立場に立てば、もしヨセフが受入れなければ、マリアと幼子は悲惨さの中に放り込まれることでしょう。もしかしたら生存さえ危ぶまれる事態になるかもしれません。当時は女性が自立して子を育てる環境ではなかった。そのことを知ったヨセフは神の啓示を受け入れます。この時、ヨセフはイエスの「父となった」のです。こうしてダビデの血統に立つヨセフの受け入れによって、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1:1)が満たされました。ヨセフは神の言葉を受け入れ、その結果マリアと幼子の命が救われました。ヤコブ原福音書12:3によればマリアがイエスを産んだのは16歳の時であったとします。現代日本では、10代の妊娠は多くの問題をはらみ、その60%は人工的に中絶されます。理由は「相手と結婚していない」、「育てられない」からです。マリアとヨセフの苦悩は現代でも繰り返され、多くは胎児を犠牲にする方法で対処されています。それに対しマタイは、「神に働きかけられた人の信仰により、悲惨な事柄も祝福の出来事になる」ことを伝えています。クリスマスの喜びは、深い悩みの中での、一人の信仰者の神との出会いと決断によって起こったのです。
3.苦悩の中から喜びが
・マタイ1:23は記します「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。イザヤ7:14の預言をマタイは引用し、イザヤの預言がイエス誕生によって成就したと語ります。本来のイザヤの預言はシリアと北イスラエルがユダヤを攻撃したエフライム戦争の中でなされました。当時の王アハズは戦争の危機の中で動揺し、主ではなくアッシリアに頼って危機を逃れようとします。その結果、イスラエル北王国は滅ぼされ、南ユダ王国もアッシリアの属国になります。アハズ王に失望したイザヤは、「おとめが身ごもって男の子を産む」と預言し、アハズの子として生まれる新しい王に期待しました。やがてアハズの子ヒゼキヤ王が即位し、イスラエルを危機の中から救います。マタイは700年前に為された救済者を求めるイザヤの預言が、今ここに成就して、救済者としてイエスが生まれられたと記します。
・「その名はインマヌエルと呼ばれる」、ヘブル語で「神共にいましたもう」という意味です。「神はあなた方を見捨てない。どのような悲惨があなたがたの人生にあっても、神はそれを受け入れ、癒してくださる、神がそのような方であることを、生まれる子は証しするであろう」と、主の使いはヨセフに語ったとマタイは伝えます。クリスマスに起きたことは、「イエス=イエホシュア、主は救いたもう」という名の子が与えられ、その子は「インマヌエル」」神共にいますことを約束するとの祝福があったということです。成人されたイエスは、社会から排除されていた取税人や遊女たちと共に食卓に着き、それを批判したファリサイ人らに言われます「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である」(ルカ5:31)。イエスは彼を必要とする人々と共にいることにより、人々の非難をあえて受容されたのです。
・今日の招詞にマタイ28:19-20を選びました。次のような言葉です「だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」復活のイエスはガリラヤで弟子たちに会われ、言われました「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)。「あなたがたと共にいる」、インマヌエルです。「十字架で死なれたイエスは、復活されて今も生きておられ、私たちと共におられる」とマタイは証しします。マタイ福音書では、冒頭で神の御子が「インマヌエル」と預言されて生まれてきたと伝え、巻末ではイエスが昇天を前に弟子たちに、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(インマヌエル)」と約束されたとマタイは記します。
4.インマヌエルなる方との出会いを通して
・「希望の神学」を書いたユルゲン・モルトマンは書きます「私は1945年にベルギーの捕虜収容所にいた。ドイツ帝国は崩壊し、ドイツ文化はアウシュヴィッツによって破壊され、私の故郷ハンブルクは廃墟となっていた。その時、私は収容所でアメリカ人従軍牧師から聖書を一冊もらい、読み始めた。受難の物語が私の心を捕らえた。イエスの死の叫びの所にきた時、私はすべての人がイエスを見捨てる時にも、イエスを理解し、イエスの許に一人の方がいますことを知った。それは私の神への叫びでもあった。私はイエスによって理解してもらっているように感じ、神に見捨てられたイエスを理解し始めた。私は生きる勇気を奮い起こした。十字架にかけられたイエスこそ私にとってのキリストである」(「今日キリストは私たちにとって何者か」から)。私たちの信じる神は『天に鎮座したもう超自然の神』ではなく、共にいますインマヌエルの神であるとモルトマンは告白します。
・聖書は私たちに「イエスは宣教の言葉を通して、また主の晩餐式を通して、臨在される」と教えます。しかし、現実の私たちはその臨在を感じとることが出来ません。しかし、私たちが、「臨在を感じることが出来ない」とぐちをこぼすのを止めて、「イエスは私のインマヌエルになって下さったから、今度は私が他の人のインマヌエルになろう(必要とされる人となろう)」と決意し、実行していく時に、状況は変わっていきます。ヨセフは「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と告げられ、人として信じられない出来事を目の前に突き付けられます。ヨセフはもし彼がマリアと幼子を受入れなければ、マリアとその子は悲惨さの中に放り込まれる、ヨセフは悩みぬいた末に神の啓示を受け入れ、マリアとその子を守っていこうと決意しました。こうしてヨセフはマリアとその子のインマヌエル(必要とされる人)になって行くのです。マタイの描く「父」ヨセフは、妻に子を産ませることで自分の血統を伝えるのではなく、神が与えられた子の命を保護していく役割です。ヨセフはその役割を受け入れて生き、そのことにより、「イエス・キリストの誕生」という世界史的出来事が起こったのです。
・成長したイエスは、村人から「私生児」と陰口されて苦しまれたでしょう。苦しまれた故にイエスは「自分の民を罪から救う」(1:21b)ことが出来ます。私たちの人生には不条理があります。理解できない苦しみや災いがあります。希望の道が閉ざされて考えもしなかった道に導かれることもあります。しかしその導きを神の御心と受け止め、自分を必要とする人のインマヌエルになろうと決意した時に、苦しみや悲しみが祝福に変わる。クリスマスはそのことを改めて私たちに示す時です。
・ある時、私たちは友や家族や会社に裏切られ、何も信じられなくなりました。しかし復活のキリストは「私は共にいる」と語ってくださいました。別な時、私たちは死の恐怖の中で凍り付きました。しかし復活のキリストは「人生は死では終わらない」ことを示してくださいました。世の知恵は「人の理性」に訴えますが、神の知恵は「人の魂」を揺さぶります。このような魂の体験の中から信仰が生まれてきます。私たちは世の価値観から解放され、他者を支配するのではなく、他者のために生きる存在と変えられました。かつては相手を利用することも、攻撃することも、貪ることも平気で行なってきました。キリストを知る前の私たちは、損得勘定の中でしか人間関係を生きて来ませんでした。だから人間関係が破綻し、苦しんできました。その私たちがキリストとの出会いにより変えられた。「信仰は理性を超える」のです。
・私たちが為すべきことは、私たちが助けを必要とする人のインマヌエルになることです。「神の国は来た、この教会に来た」、それを証していく。教会の外では「権力を持った人々が支配し、命令する」かもしれないが、教会の中では「仕えることに喜びを見出す」人々がいる。教会の外では「金の切れ目は縁の切れ目」かもしれないが、教会の中では「困っている人たちのために為すべきことをする」人がいる。そのような教会を形成するのです。人々は経済的には豊かになりましたが、心は満たされていません。魂は飢え渇いています。孤独を抱え、心の満たしを求めている人たちに声をかけていく、自分を必要とする人のインマヌエルになる。私たちは主日に教会に来て励まされ、世の人々にキリストの福音を運び、実践する者として、教会から出ていきます。私たちが夢と幻を持ち、「この目であなたの救いを見た」という確信を証しすれば、私たちは力を与えられるのです。