1.回復の預言
・エレミヤ書はイスラエルという国家の興亡の中でなされた預言をまとめた書です。イスラエルはダビデ・ソロモン時代に王国の繁栄期を迎えますが、ソロモン死後、王国は南北に分裂し、北王国イスラエルはアッシリヤの侵略を受けて滅ぼされます。南王国ユダは何とか危機を脱しますが、アッシリヤに代わるバビロニヤ帝国がパレスチナ地域の支配権を握ると、バビロニヤは南ユダ王国に対して朝貢を要求します。ヨシヤ王の子エホヤキムの時、ユダ王国はバビロニヤへの従属を拒否し、バビロニヤ軍がエルサレムに攻めて来ました。エホヤキム王は攻防戦の中に死に、子のエホヤキンが新しい王になります。しかし、バビロニヤの軍事力に抵抗できず、エルサレムは陥落、エホヤキン王は高官たちと共にバビロンに捕虜として連行されます。紀元前598年、第一回バビロン捕囚です。その時、1万人の人が捕囚になったと聖書は伝えます。
・ただエルサレムそのものは破壊を免れ、バビロニヤは新しいユダの王として、エホヤキンの叔父ゼデキヤを立てます。ゼデキヤ王は当初こそバビロニヤに忠節を尽くしますが、やがてエジプトの支援を得て反乱を企て、エルサレムはバビロニヤ軍によって再度包囲され、やがてバビロニヤ軍がエルサレムに侵攻し、町は焼かれ、神殿は廃墟となり、王は殺されます。第二次バビロン捕囚です。エルサレム滅亡の中でエレミヤは自らの預言を弟子バルクに口述筆記させました。そのおかげでエレミヤ書を現在の私たちも読むことができるようになりました。「エレミヤに臨んだ言葉。『イスラエルの神、主はこう言われる。私があなたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい。見よ、私の民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。私は、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる』」(30:1-3)。これまでエレミヤは人々の悔い改めを求めて、「破滅」の預言をしてきました。しかしもう「破滅の預言はいらない」。イスラエルは滅んだからです。神は滅んだイスラエルを救うために回復の預言をするようにエレミヤに言われました。それは「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」(1:10)です。「抜き、壊し、滅ぼし、破壊」が終わった今、語られる言葉は「建て、植えるために」です。「主はこう言われる。戦慄の声を我々は聞いた。恐怖のみ。平和はない。尋ねて見よ、男が子を産むことは決してない。どうして、私は見るのか、男が皆、子を産む女のように、腰に手を当てているのを。だれの顔も土色に変わっている。災いだ、その日は大いなる日、このような日はほかにはない。ヤコブの苦しみの時だ。しかし、ヤコブはここから救い出される」(30:5-7)。回復の預言が続きます「その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。彼らは、神である主と、私が立てる王ダビデとに仕えるようになる」(30:8-9)。
2.復興の苦しみ
・人は真に生きるためには一度死ななければいけません。怒りの盃を受けた者のみが、主から解放の宣言を受けます。首から軛(くびき)が砕かれ、縄目は取り去られます。王宮が焼かれ、神殿も破壊された民に、復興の預言が響きます。しかしいったん廃墟となった地を復興するのは、実は大変なことです。破壊は一瞬で終わりますが、復興には長い時間がかかります。国が破れるとどういうことが起こるのか。敗戦後の日本をもまた破壊の後の復興を経験しました。
・宇田川潤四郎は「家庭裁判所の父」と呼ばれた人ですが、彼は満州で裁判官をしており、敗戦後に日本に帰ってきました。宇田川はその時の印象を記録に残しています「昭和21年8月の東京上野駅は身動きの取れないほどの混雑だった。焼け残った駅舎から南の御徒町にかけて、ずっと焼け野原が広がっていた。鉄道の高架に添って屋台が並び、そこをとり囲むように、カーキ色の服を着た人でごった返している。左右には浮浪児たちが何十人もいた。夏の日差しを避けて、軒下や階段に、表情の失せた顔で横たわっている。誰もがぼろぼろの衣服を身にまとい、土色の乾いた髪が放射状に伸びたままだった。中には半裸の幼児もいた。日本は大変なことになっている、宇田川親子はこの浮浪児の姿に強い衝撃を受けた」(清水聡著、家庭裁判所物語)。帰国した宇田川の目の前に何十万人という戦災孤児がいます。その戦災孤児の救済のために家庭裁判所が設立され、少年法が制定されたのは、1949年(昭和24年)でした。敗戦から4年後です。そして「もはや戦後ではない」と宣言されたのは1956年(昭和31年)、敗戦から10年後でした。復興とはそれほど長い時間を必要とするのです。イスラエルの復興はもっと長い時間を要しました。イスラエルの捕囚からの解放は前536-537年、エルサレム滅亡から50年後、神殿の再建はそれからさらに20年を要しました(前515年)。復興の預言を聞いても実際の復興には長い年月が求められます。
・今日の招詞にエレミヤ30:17-18を選びました「さあ、私がお前の傷を治し、打ち傷をいやそう、と主は言われる。人々はお前を、「追い出された者」と呼び、「相手にされないシオン」と言っているが。見よ、私はヤコブの天幕の繁栄を回復し、その住む所を憐れむ。都は廃虚の丘の上に建てられ、城郭はあるべき姿に再建される」(30:17-18)。裁きは滅ぼすためではなく、救うためになされます。救いの第一歩は廃墟となった場所の再建です。「都は廃墟の丘の上に建てられる」、イスラエルの地は戦乱や飢饉で何度も見捨てられ、廃墟と化しますが、人々はその廃墟の上に土を盛り、新しい町を建て、次第に土砂が堆積し、丘(テル)ができていきます。イスラエルにはテルという地名が多くあります(首都のテルアビブ他)。イスラエルは苦難の中で主を呼び求め、主はそれに応えてメシアを遣わされるとエレミヤは預言します。「ヤコブの子らは、昔のようになり、その集いは、私の前に固く立てられる。彼らを苦しめるものに私は報いる。一人の指導者が彼らの間から、治める者が彼らの中から出る。私が彼を近づけるので、彼は私のもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて、私に近づくであろうか、と主は言われる。こうして、あなたたちは私の民となり、私はあなたたちの神となる」(30:20-22)。
3.新しい契約の幻
・やがてエレミヤは新しい契約の幻を語り始めます。31章31節です。「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来ようとしている、と主は言われる」。新しい契約の前提は、旧い契約の破棄です。前597年の第一次捕囚においては、王エホヤキンは捕囚としてバビロンに連れ去られましたが、ダビデ王家はゼデキヤにより継承され、また神殿も無傷で残された故に、人々は王国の回復を期待することが出来ました。王と神殿がある限り、モーセが主導したシナイ契約は有効でした。しかし、前587年の第二次捕囚では、首都エルサレムは徹底的に破壊され、王家は断絶し、神殿も破壊され、人々は希望のかけらをも持つことが出来ませんでした。旧い契約は破棄された。哀歌5:22は歌います「あなたは激しく憤り、私たちを全く見捨てられました」。
・その時、エレミヤは「新しい契約を結ぶ」との主の言葉を聞きました。エレミヤは先にエルサレム陥落の混乱の中で、「土地を買え、再びこの国の繁栄を戻す日が来るからだ」(32:15)という神の啓示を受けました。その啓示が深められ、神が壊されたものを新しく造られる日が来るとの確信を与えられました。そのエレミヤの経験が新しい契約の預言です「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる」(31:31-32)。モーセと結んだ契約を破棄し、まったく新しい契約を結ぶと主は語られます「来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる(31:33)。
・新しい契約は、かつて結ばれたシナイ契約の更新ではありえない。ダビデ家も神殿も断絶し、旧い契約は破棄された。また、仮に旧い契約を更新しても何の意味もない。「人の心はとらえ難く病んでおり」(17:9)、「クシュ人がその皮膚を、豹がその皮を変えることが出来ないように」(13:23)、人間は契約を守ることが出来ない。契約を更新しても、また人間の側から破る。救済は神の恩恵以外にはありえない。聖都が破壊され、神殿が灰燼に帰し、神の民の多くは殺害され、生き残りの者たちもまた異教の地に散らされようとしている。その絶望の中で、エレミヤは神が新しい契約をイスラエルとの間に締結する日が来ると啓示されました。
・旧約学者フォン・ラートは語ります「新しい契約においては、神が語りかけ人が聞くと言う出来事自体が廃止され、神の意志は直接イスラエルの心に置かれる。新しい契約では、服従の問題はそもそも無い。何故なら、服従とは人間の意志と異質な意志とが出会う際に生じる問題であり、神がその意志を人間の心に置く時には、このような対決はもはや起こらず、人間はその心の中に神の意志を担い、神の意志のみを欲するようになるからである」。これは正に旧約を超えた新しいもの、パウロの「生きているのは、もはや、私ではない。キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)と相通じる思想です。
・「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(31:34)。旧約学者の関根正雄は語ります「34節は神の意志をそのまま人が行うことが出来るようになる新しい契約関係を述べている」。かつて、イスラエルは神から律法に従って歩むように言われました。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と命じられ、「今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、これを語り聞かせなさい」(申命記6:6-7)と命じられました。しかし、その結果がこの破滅です。もはや、人間の側からの救いはあり得ない。だから、この新しい契約においては、「神がその律法を人間の中におき、心に記す」(31:33)ことが為され、「律法を知れと言って教え合うこともなくなる」。何故なら、罪が許され、人が根底から変えられるからです。神と民、神と人との完全で本質的な一致は、なお将来に留保されますが、神は限りない哀れみを持って民の側に立たれ、その日が来るまで共にいて下さるのです。
・捕囚の民は、エレミヤの新しい契約の預言を受け止め、捕囚地において新しい共同体を形成しました。国を失った捕囚民が信仰共同体として再生した背景には、エレミヤ書の「希望の使信」の影響が大きかったとされます。捕囚期の預言者エゼキエルもまた、このエレミヤの信仰を継承していきます。「私は彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らの永遠の契約となる。私は彼らを祝福し、彼らをふやし、わが聖所を永遠に彼らの中に置く。わがすみかは彼らと共にあり、私は彼らの神となり、彼らはわが民となる」(エゼキエル37:26-27)。
・そこにあるのは、罪を犯し、刑罰を受けたものさせ救われる神の意思です。罪を犯した者もやり直しの出来る福音がここにあります。第一ペテロ書はキリストを知らずに死んだ人さえも救われると語ります。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられた」(第一ペテロ3:18-19)。キリストの受難と復活により、私たちは死を超えた救いの希望を与えられているのです。今日私たちが召天者のお名前を呼び、追悼する意味もそこにあるのです。彼らは亡くなりましたが、今なお、この教会の一員なのです。