江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年11月10日説教(エレミヤ31:27-34、神の痛みと赦し)

投稿日:2024年11月9日 更新日:

1.慰めの書としてのエレミヤ書

 

・エレミヤ書を読んでおります。エレミヤは紀元前626年に預言者として召されますが、彼が繰り返し述べたのは「北から災いが来る。悔い改めなければイスラエルは滅びる」という裁きの言葉でした。北からの災い、その言葉が実現したのは紀元前597年、最初の預言から30年後でした。バビロニアの軍隊がユダ王国を占領し、王や指導者10,000人がバビロニアに捕囚とされたのです。しかしこの第一次捕囚時には、ダビデ王家はゼデキヤにより継承が許され、またエルサレム神殿も無傷で残されました。

・王と神殿がある限り、人々は国の回復と神の保護を期待することが出来ます。従ってこの時、ユダの人々は本気では悔い改めませんでした。その彼らにやがて本物の災いが臨みます。第一次捕囚から10年後、前587年、反乱を起こしたユダ王国にバビロニア軍が押し寄せ、この度は、エルサレムは徹底的に破壊され、王は殺され、エルサレム神殿も滅ぼされます。その廃墟の中で、エレミヤに新しい救済預言が与えられます。それが今日読みます、「新しい契約」の預言です。

・エレミヤ30-31章は「慰めの書」と呼ばれます。エルサレム滅亡後、エレミヤは自らの預言を弟子バルクに口述筆記させ、それをバビロニアの地の捕囚民に送りました。捕囚地の人々はエレミヤの預言をむさぼるように読み、仲間に回覧しました。神は何故自分たちが滅ぼされたのか、人々はそれを知ることを心から求めていたのです。国を滅ぼされた民族は通常は消滅しますが、ユダ民族は50年間の捕囚生活の中で、生き残りました。エレミヤの預言を通して、回復の希望を持ったからです。

・その手紙がエレミヤ書30章からにあります「イスラエルの神、主はこう言われる。私があなたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい。見よ、私の民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。私は、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる」(30:1-3)。赦しと回復の預言です。回復の慰めは審判の苦しみを通して与えられます。苦難を通してしか、真の悔い改めは生じないからです(30:11「私はあなたを正しく懲らしめる」)。エレミヤは主の言葉を捕囚民に書き送ります「その日にはこうなると万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない」(30:8)。そしてエレミヤ書のハイライトである、新しい契約の預言が31章31節から語られます。

 

2.新しい契約の告知

 

・その預言は次の通りです「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」(31:31)。第一次捕囚時(前597年)にはダビデ王家は残され、神殿も無傷でした。しかし、このたびは、エルサレムは徹底的に破壊され、王家は断絶し、神殿も壊滅し、人々は希望のかけらをも持つことさえ出来ない状態まで追い詰められています。神とイスラエルの旧い契約は破棄された。旧い契約とは、イスラエルの民がエジプトから救い出された時に結ばれたシナイ契約です。神はイスラエルを守り、民は神の戒めである律法を守るという内容でした。しかし、旧い契約は民の不従順により破綻しました。その時、新しい契約の約束が語られました。エレミヤは主の言葉を伝えます「この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時に結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる」(31:32)。エジプトから救い出され時に、神がモーセと結ばれたシナイ契約はここに破棄されたのです。

・イスラエルは「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と命じられました。しかし彼らはできませんでした。その結果がこの破滅です。もはや、人間の側からの救いはない、だから「神がその律法を人間の中におき、心に記す」(31:33)ことが起きます。エレミヤは国の滅亡、捕囚を、民の回心のためと理解しています。「私はお前を正しく懲らしめる」(30:11)、人は砕かれないと悔い改めず、悔い改めなしには救いは来ないのです。悔い改めた時に何が生じるのか、エレミヤは言葉を続けます「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、主を知れと言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(31:34)。

・聖なる都と呼ばれたエルサレムが破壊され、神の住まう宮と崇められたエルサレム神殿も灰燼に帰し、民の多くは殺害され、生き残りの者たちもまた異国の地に散らされようとしている、正にその絶望の中で、「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」という神の赦しの宣言がなされます。それは一方的な、無条件の赦しです。民は新しい契約を結ぶ準備も心構えもない。悔い改めもしていない。しかし神の側から一方的に恵みが、救済が約束されています。神は人の罪を忘れられた、それが赦しなのです。そしてこの赦しがイスラエルを回復させる原動力になります。

3.赦しは神の痛みによりなされた

・捕囚の民は、エレミヤの預言を真剣に受け止め、捕囚地において新しい共同体を形成しました。やがてその地で創世記や出エジプト記、申命記等を始めとする旧約聖書の主要部分が書かれ、編集されて行きます。イスラエルは王と領土を失いましたが、その代わりに聖書を持つ民に変えられていきました。国を失った捕囚民が信仰共同体として再生した背景には、エレミヤ31章「希望の使信」の影響が大きかったと言われています。そして、エレミヤ31章はその後の信仰共同体の形成にも大きな働きをしています。

・今日の招詞にルカ22:19-20を選びました。次のような言葉です。。イエスが最後の晩餐に時に言われた言葉です。エレミヤが預言した新しい契約が、イエスの血において成就したと福音書記者は理解しました。モーセに与えられた古い契約は過越しの羊の血で調印されましたが、新しい契約はイエスが十字架で流された血で調印されました。パウロは記します「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(第二コリント3:3-6)。

・エレミヤは30年間預言してきました。それは一貫して、「神の怒り、神の裁き」の預言でした。その裁きの預言がユダ王国滅亡後は、「赦しと回復の預言」に変わっていきます。その大転換がなされたのは何故か。聖書学者北森嘉蔵はエレミヤ書31:20を見よと示唆します。「エフライムは私のかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、私は更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、私は彼を憐れまずにはいられないと主は言われる」(31:20)。「彼のゆえに、胸は高鳴り」、ルター訳は「彼のゆえに私の心臓は破れる」となっています。神はエフライム、イスラエルの民が殺され、捕囚となってバビロニアの地に連れ行かれ、あるいは奴隷として売られていく様を見て、「心臓が張り裂けるばかりの憐れみを感じられた。そこに怒りを克服する愛、神の痛みがあった」と北森嘉蔵は受け止めます(北森嘉蔵、エレミヤ書講話)。

・「神の痛みが無条件の赦しをもたらした」、これがエレミヤ書の示す真理です。ここに示される神の愛とは「無条件の赦し」、この「無条件の赦し」こそが、死んだ者を生き返らせる愛です。神の愛によってイスラエルは捕囚時代を耐え忍び、帰国後、国を再建することが出来ました。しかし時間の経過と共に、また民の堕落が始まります。貧富の格差は拡大し、貧しい者は生きるのも難しい状況に放置されたのです。イエスは「神の国が来た」と宣教を始められ、自らの生き方を通して、神の愛、無条件の赦しを伝えようと決意されました。イエスのなされた業をルカはまとめます「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ7:22)。人々はそのイエスを十字架に殺します。罪の縄目に閉じ込められている人間を救うためには神の子自らが血を流された。この十字架の血こそ、新しい契約の調印の血です。その光景を歌ったのが、今日の応答讃美「丘の上に立てる十字架(新生讃美歌230番)です。

・弟子たちは十字架を前に逃げ去りましたが、復活のイエスに出会い、根底から変えられていきます。変えられた弟子たちは、十字架で流されたイエスの血こそ、神の愛を地上にもたらす新しい契約のしるしと理解しました。この信仰を私たちも継承します。私たちが「イエスを主と信じて洗礼を受ける」というのは、この新しい契約の中に招かれることを意味し、主の晩餐式はそのことを確認するために執り行われます。私たちは「無条件に他者を赦す神の愛を通して、神の国を立てる」という契約を、イエスの名において結んだのです。「無条件に赦す」とは自分に為された悪や嘲りを一切忘れることです。

・創世記1章には、最初の人間に食べ物として与えられたのは「種を持つ草と種を持つ実」のみであったと記します(1:29)。しかし人間は満足できず、肉食を求め、神はノアの洪水後、それを承認します。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(創世記8:21)。そして言われます「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(創世記9:1-3)。神の譲歩によって肉食を赦された人間は、さらに他者の命をも求め、神はそれに対して拒絶されます「人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(同9:6)。「やられてもやり返すな。もしやり返したらあなたの命を代償として支払え」と言われています。

 

4.殺すなという戒めをどう守るべきか

 

・「やられてもやり返すな」、「殺すな」という神の言葉を受けた私たちは、今の日本が行おうとしている防衛費の増額、あるいはこちらから敵に先制攻撃ができるように憲法を変えようという試みをどう考えるのか。「殺すな」と命じられた神の声をどう具体化していくのかは、私たちキリスト者の役割です。2001年9月11日にテロリストによってNYの高層ビルが破壊され、3000人が死んだ時、アメリカの指導者たちは、自分たちは悪者に囲まれており、今自分たちの力で自分たちを守らなければ、自分たちは滅んでしまうと恐れました。アメリカは、テロリストたちの本拠地と思われていたアフガニスタンを攻撃し、イラクにも侵攻しました。自らの身を危険から守ろうとするのは当然です。しかし、自分を絶対安全の状況にしたいと思う時、それは神の守りを捨て去る行為になります。神の守りがない時、人は恐怖から過剰に攻撃的になり、相手も反撃します。20年後の昨年、アメリカはアフガンからの撤退を決定しましたが、米ブラウン大ワトソン研究所によると、同時テロ後のイラク戦争なども含めた米軍の戦死者は7千人で、自殺者は4倍以上の3万人にのぼります。戦争による精神的負担、PTSDが多くの帰還兵を自殺に追いやりました。不完全な人間が自分の手で報復する、悪を自分の手で抜き去ることは、大きな悲劇をもたらすことを歴史は示しています。「殺すな」とは、「殺す者は自分を破滅させる」との意味なのです。

・「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」という聖書の言葉を聞けなかったために、アメリカの悲劇が生まれました。報復を唱える人々の中でアメリカの教会はローマ12章を祈りました。「復讐を求める合唱の中で、『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように。キリストは全ての人のために贖いとして御自身を捧げられました。キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死なれました。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられません。国は間違っています。神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい」(「グランド・ゼロからの祈り」、ジェームズ・マグロー、日本キリスト教団出版局)。国が間違っているのであれば、教会がそれを指摘する。教会の役割がここにあります。「私たちが為す赦しを通して、この地に回復をもたらすために今何ができるか」。それを考えるために、私たちは毎週、教会に集められ、神の言葉を新たに聞くのです。

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