1.エレミヤの召命
・10月、11月はエレミヤ書から御言葉を聞いていきます。エレミヤは国の滅亡を見つめた預言者です。紀元前587年、ユダ王国はバビロニア軍の攻撃を受けてエルサレムが陥落し、神殿は崩壊し、王は殺され、国は滅亡します。国の滅亡を見た人々は呆然として、これから何をすれば良いのか、もう何の希望もないのか、と廃墟の中で嘆きました。ちょうど、私たちの祖父母や両親が昭和20年8月15日の敗戦を廃墟の中で知って、呆然としたように、です。
・ユダ王国繁栄のしるしであった都エルサレムは焼け野原になり、国の指導者たちは数千キロも離れた異国バビロンの地に捕囚として連行され、信仰の象徴であったエルサレム神殿は破壊されました。なぜ、神はこのような災いを与えられたのか、自分たちは神の選びの民と言われていたではないか、生き残った自分たちはこれからどうすれば良いのか、呆然と佇む人々に与えられた書が、エレミヤの弟子バルクの編集したエレミヤ書です。そのエレミヤ書は、絶望の底にあった人々を慰め、励まし、もう一度立ち上がる力を与え、やがて国家再建の原動力になっていきます。
・今日はエレミヤ書1章を読みますが、書き出しの言葉がエレミヤ書全体を要約しています。「エレミヤ・・・はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことで(あった)」(1:1-2)。エレミヤが召命されたのは、ヨシヤ王の13年、紀元前626年でした。その時代、ユダはアッシリアの支配下にありました。アッシリアは当時の世界を支配した大帝国であり、北イスラエル王国は既に滅ぼされ、南のユダ王国はアッシリアの属国となることで国の安全を維持していました。属国になるとは、アッシリアに重い貢物(税)を納め、同時にその神々を受け容れることでした。ユダの人々は自分たちの神を捨てて、アッシリアの神々を神殿に祭り、拝んでいました。偶像礼拝です。
・偶像礼拝とは神ならぬ偶像、すなわち人間を拝むことであり、人間を拝む時、世の中は乱れます。ヒトラーやスターリンを絶対的指導者として拝んだ時代のドイツやソビエトが乱れたように、です。しかし、人々が拝んでいた「アッシリアの平和」が崩される時が来ました。アッシリア帝国の勢力が次第に衰退し、代わりに台頭して来たバビロニア帝国が新たな脅威となり始め、そのバビロニアが南の大国エジプトと世界支配の覇権争いをするようになり、ユダ王国のあるパレスチナが戦場になりました。世界史の大転換期が訪れ、戦争の危機がユダの平和を脅かす、そのような時代にエレミヤは預言者の召命を受けました。
・エレミヤは活動初期にはヨシヤ王の宗教改革に参加しますが、ヨシヤ王はエジプト軍と戦って戦死し、王国はエジプト支配下に置かれ(ヨアキム王時代)になり、エレミヤは亡国の預言者として迫害されます。やがてエジプトはバビロニア軍に敗れ、ユダの支配権はバビロニアに移りますが(ゼデキヤ王時代)、その時には、国の滅亡を見守る役割がエレミヤに与えられます。エレミヤ書の編集者バルクはそれを短い言葉で要約します「主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代の・・・ことであり、更にユダの王(ヨシヤの子)ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王(ヨシヤの子)ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた」(1:3)。エレミヤは40年にわたって預言者として活動します。
・エレミヤの召命記事が4節以下にあります「主の言葉が私に臨んだ『私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた』」(1:4-5)。召命とは「神が個人の人生に介入する」という出来事です。それは人間の側から見れば「自分が神によって創られ、神によって生かされている」ことを知る出来事です。つまり、私たちが回心し、神のために働こうと決意した時、私たちは召命されます。ですから召命は預言者や祭司(今日で言えば牧師)だけの問題ではなく、すべての信仰者が神に召されている。そして人は、「母の胎から生まれる前に神から聖別」されているとエレミヤは述べます。これは今日の出生前診断の是非を考える上で大事な啓示です。「人は母の胎内にある時から聖別されている、その聖別された命を、人間の判断で生む、生まないと決定して良いのだろうか」という問題です。出生前診断は胎児に障害があるかを調べ、障害があればその子を中絶するために為されます。しかし、「障害があろうとなかろうと人は母の胎から生まれる前に聖別されている」、私たちが生命の意味の重さを知る時、中絶は私たちの選択肢から消えます。
・エレミヤは召命を受けますが、預言者に立てられることをためらいます。彼は言います「ああ、わが主なる神よ、私は語る言葉を知りません。私は若者にすぎませんから」(1:6)。この時のエレミヤは20代前半だったと言われています。若く、知識も経験もない人間が、預言者となって王や指導者たちに意見を述べるなどとんでもないと思ったのでしょう。しかし神はエレミヤに迫られます「若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」(1:7-8)。「私があなたと共にいて、必ず救い出す」と神はエレミヤに約束されます。
2.「共にいる」といわれる神
・エレミヤの召命の出来事は、出エジプトを担ったモーセの召命の場合と同じです。モーセも「エジプトから私の民を救出せよ」と命じられた時、「自分は口も重く、そのような大変な仕事はできません」と断りますが、神はモーセに「私は必ずあなたと共にいる」から、召命を受けよと言われます(出エジプト3:12)。「私は共にいる=エフィエー(私はいる)、イムマーク(共に)」、インマヌエルです。神は「いつも共にいる」ことを約束してモーセを送り出されたように、エレミヤにも「いつも共にいる=インマヌエル」を約束して、その使命を果たすように求められたのです。
・そして神はご自身の言葉をエレミヤの口にお入れになり、言われます「見よ、私はあなたの口に、私の言葉を授ける」(1:9)。霊を吹きこまれて、預言者は「自分の言葉や思想を語る者」から、「神の言葉を告知する者」に変えられます。ここにいう預言とは先のことを予め語るという意味でなく、神から言葉を預かるとの意味です。この神の霊はペンテコステの時にイエスの弟子たちにも吹きこまれ、弟子たちは福音を語る(神の言葉を預かる)者とされました。今日では牧師が神の言葉を預かる者とされていますが、牧師の語る言葉が常に神の言葉ではなく、牧師が自己の思いや考えを語ればそれは人間の言葉に過ぎません。関田寛雄先生は説教について次のように述べます「説教は決して一面的に神の言葉ではない。我々の経験から明らかなように、それは説教者の作文である。時に誤りに満ちた人間的文章である・・・説教の言葉は人間的限界の中で語られるものであるが、それにも関わらず聖霊の働きによって「出会い」がもたらされ、それが神の言葉の出来事となるのである」と言います(関田寛雄「断片の神学」より)。預言も同じで、神の霊を受けた時に初めて、それは神の言葉となります。
・エレミヤに与えられた使命は諸国民に対する預言です。それは「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」と言われます(1:10)。「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」とは、これからユダに与えられる裁きを意味します。具体的には北の覇者バビロニアによる軍事侵略です。「主はあなたたちの罪を裁くために北から災いを与えられる。だから悔い改めよ」とエレミヤは語りますが、誰もエレミヤの預言を聞こうとはしません。神の言葉が語られても聞く者の心が変えられない限り、その言葉は人々の心に届きません。だから国の滅びが現実として与えられます。エレミヤ書は52章ありますが、前半の25章が裁きの預言(悔い改めを求める)、26章以下が救済預言(慰め)になっています。
・日本はかつて中国を侵略し、中国に利権を持つ欧米諸国と対立し、戦争を始めました。それが太平洋戦争でした。戦争末期、日本はミッドウェイで負け、アジアでも沖縄でも負けましたが、戦争をやめません。東京や大阪への空襲で国土が焦土となっても戦争をやめません。そして最後に、広島、長崎に原爆という破滅的な打撃が与えられました。「抜き、壊し、滅ぼし、破壊」を経験しないと人は悔い改めない、のです。しかし、悔い改めた民には慰めが、回復の預言が与えられます。それが、「あるいは建て、(あるいは)植える」という言葉です。破壊は新しい創造のために与えられる、神は人を本当に活かすために人を裁かれる。聖書が一貫して伝える使信です。日本も敗北し、国内が廃墟になることにより、新しい出発をすることが出来ました。戦前の軍事国家から、平和国家になることが出ました。「抜き、壊し、滅ぼし、破壊」を経験しないと人は再生できないのです。
3.インマヌエルなる神と共に歩む
・エレミヤはユダが滅びるまで40年間にわたって、預言を続けました。しかし、人々は滅びが起こるまでエレミヤの言葉を聞こうとはせず、エレミヤは失望の内に寄留地エジプトで死にます。エレミヤの弟子バルクはエレサレム陥落とエレミヤの死を見届け、その次第を受難記としてまとめ、それがエレミヤ書の骨格を形成します。概ね、詩文がエレミヤの言葉、散文がバルクの解説の言葉です。バルクはユダヤに戻り、破局の絶望の中にある人々にエレミヤの言葉を伝えました。歴史がエレミヤの預言の通りになったことを目の前に見た人々は、このたびは畏敬の念を持ってエレミヤの預言と記録を、廃墟となったエルサレムで、また捕囚地バビロンで読み、自分たちの罪を認め、悔い改めます。人は平和が破れて初めて神の言葉に耳を傾けます。それから2500年、エレミヤ書はそれぞれの時代の苦しむ人々に多くの慰めを与えて来ました。そのエレミヤ書の中核になる言葉が、「神はいつもあなたと共におられる」という言葉です。
・今日の招詞にマタイ28:19-20を選びました。次のような言葉です「だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。復活のイエスがガリラヤで弟子たちに顕現して言われた言葉です。世界宣教の命令ですが、命令の最後は「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束の言葉で締め括られています。エジプトからイスラエルを救い出すために召命されたモーセに与えられた言葉も「私は必ずあなたと共にいる」(出エジプト3:12)という言葉でした。国を再建するために一旦滅ぼすという預言を与えられたエレミヤへの召命の言葉も「私はあなたと共にいる」(エレミヤ1:8)でした。この「インマヌエル、私は必ずあなたと共にいる」という言葉こそ、旧約・新約聖書を貫く神の約束です。
・この約束があるからこそ、モーセは荒野の40年という試練を超えて民を約束の地に導き、エレミヤはバビロンに捕囚となって嘆いていた民に国家再建の希望を与える事ができました。そして今、私たちにも「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束の言葉が与えられています。世の終わりまで、復活されたイエスが共にいてくださるという約束こそが、キリストを信じる私たちが今ここにいる根拠であり、信仰者の共同体=教会が福音を告げ知らせる働きを委ねられている根拠です。そして、信仰とは「神が私を造り、私を生かし、私と共にいて下さる」ことを知ることであり、それを「自分は誰からも必要とされていない」という孤独の中に佇む友に伝えていくことこそ、私たちの使命です。私たちはその使命を担う者として、召され、今ここにいるのです。