1.復活と体のよみがえり
・私たちにとってこの世で一番大切なものは何でしょうか。イエスは「それは命である」と言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ9:25)。その通りだと思います。だから、私たちは教会に集まり、神の言葉を聞きます。しかし、私たちは神の言葉を信じきることが出来ませんから、言葉によって命が与えられません。命が与えられないから、信仰が私たちの生活を揺り動かさない。コリントの人々も同じでした。だからパウロはコリントの人々に「命について」の手紙を書きました。その手紙の核心部分が今日読む第一コリント15章です。
・この箇所には、「死をどのように考えるか」が、記されています。パウロはコリント教会の人々に語ります「キリストは死者の中から復活したと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(15:12)。コリントの人々はキリストが死から復活したことは信じていました。しかし、コリントの人々は、「キリスト・イエスは神の子だから復活したのであって、それは人間である自分たちとは何の関係もない」と理解していました。彼らはギリシア的な霊魂不滅の考え方から、人の肉体は滅びると考えていました。だから「死者の体が生き返る」ということが起こるはずはないと考えていました。その彼らにパウロは語ります「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(15:13)。
・キリスト教は、「キリスト・イエスが復活した、だからキリストを信じる者もまた死を超えた命に生きることが出来る」という信仰の上に建てられています。パウロは語ります「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(15:3-5)。イエスはローマ帝国により十字架刑で処刑され、墓に葬られました。その死んだイエスが弟子たちに現れた、その顕現体験から「イエスは復活された」という復活信仰が生まれ、その視点から「イエスの死は私たちの罪のためであった」という贖罪信仰が生まれました。この贖罪信仰と復活信仰こそ、聖書の語る福音です。パウロはコリントの人々に、あなた方はこの福音を否定しているのだと迫ります。
・そして彼は語ります「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(15:14)。復活、体のよみがえりをどう理解するかは難しい問題です。イエスが十字架刑で殺され、葬られたことは歴史的な事実です。十字架刑の時に逃げ去った弟子たちがその後、「イエスはよみがえられた」として教会を形成していったことも歴史的事実です。しかし出来事の基底にある「イエスの死からの復活」は、歴史的な言葉では表現できません。しかしパウロ自身は、復活のイエスに出会っています「最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(15:8)。だからパウロは確信を持って語ります「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(15:20)。人は死んだのち眠りにつく、その死者の中からキリストが復活された。キリストが初穂であり、私たちもキリストの後に従って復活する、だから「死は勝利にのみ込まれた」(15:54)とパウロは語るのです。
2.私たちは死んだらどうなるのか
・「復活を信じることの出来ない人生を考えてみなさい」とパウロは訴えます。人が死ぬだけの存在に過ぎないとすれば、現在を楽しむしかない。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(15:32)。そのような人生は死刑囚が刑の執行前にご馳走を食べるのと同じです。「どうせ死ぬのだ」、そのような言葉を聞くために、あなたがたは教会に集うのかとパウロは怒ります。現代の日本人は、死を出来るだけ考えないようにすることで、現在の生を楽しもうと生きています。おいしいものを食べ、楽しく、愉快に暮らすのが、日本人の求める幸福です。しかし、そんなものは幸せでもなんでもなく、死を見ようとしないだけの生活であり、仮に死が牙をむいて家族の一員に襲い掛かれば、たちまち崩れます。1985年8月12日に日航機が群馬・御巣鷹山に落ち、520人の方々が亡くなり、40年近く経ちましたが、遺族は今でも命日に慰霊登山をされます。40年たっても死は人々を苦しめている、死の力はどうしようもなく大きい。この死を避けて、見ないようにして生きる生活は、「まやかし」です。今、私たちの生活から死が隠されています。死は病院や老人ホームでこっそりと取り扱われています。それでも私たちは死を見ないわけには行かない。いつかは私たちにも訪れるからです。死んだ後、私たちはどうなるのか、この大事な問題が生活の中で語られず、人々は死への準備なしに死んでいく。これは不幸なことだと思います。
・大阪・淀川キリスト教病院で長い間働いていた医師の柏木哲夫さんは、多くの方の死を看取りました。彼は語ります「死を前にした患者さんは必ず、“人間が死ぬというのはどういうことなのか”、“死後の世界はあるのか”、“死んだ後どうなるのか”と聞いてくる」。彼はキリスト者でしたが、その問いに対して何も答えられませんでした。死後のことは誰にもわからないのです。しかし、彼は多くの人の死を看取った経験から語ります「人は死を背負って生きていく」、人はいつ何時死ぬかわからない存在です。そして「人は生きてきたように死ぬ」と語ります。それまでの生き方が死に反映されるということです。柏木先生は最後に「多くの人はあきらめの死を死ぬ」と言います。死にたくないのに死んでいく人が多いのです。しかし、「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来た」と語ります。
・コリントの人々はパウロに反論しました「死んだ後のことはわからないではないか」。その疑問に答えて、パウロは種の譬えを語ります。「種は土に蒔かれて形をなくし、一度死ぬ。その死の中から新しい命が、新芽が生まれてくる。種と新芽は形は異なるが、それは同じ命だ。蒔かれた種は「新芽」と言う形でよみがえり、成長して30倍、60倍の実を結ぶ。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)という不思議を見ながら、死んだ人間が再び生きる不思議を何故信じないのか」とパウロは語ります。自然界には実に多くの相違した肉があり、身体があります。
・朽ちる、卑しい、肉の身体で蒔かれる、それが人間の死です。その人間が朽ちない、輝かしい、力強いものとしてよみがえる、それが復活です。種が一旦死んで新しい芽として芽生えてくるように、肉の身体が死に、霊の身体で生き返る。その時、障害を持つ身体も、年老いた身体も、輝く身体としてよみがえる。その希望を持つことが出来るのだとパウロは語ります。よみがえりの身体は今の身体とは違うものになるでしょう。それにもかかわらず、種と植物が同じ生命であるように、死後の身体も、同じ存在、私は私、あなたはあなたとしてよみがえる。神はキリストをよみがえらせられたように、私たちをも生かして下さる。この希望を信じる時のみ、人は死の恐怖から解放されます。
3.復活信仰と日々の生活
・今日の招詞に第一コリント15:54-55を選びました。次のような言葉です「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。死のとげ、死に対する恐怖は克服されたとパウロは語ります。人は死んだらどこに行くのか、誰にもわかりません。イエスもパウロも死後の生については多くを語りません。聖書は、死後の世界は「人間には理解不能な領域」であり、それは神に委ね、「現在与えられた生を懸命に生きよ」と教えます。
・私たちは聖書に書いていないことを想像力たくましく語ることは控えるべきです。例えば「天国と地獄」は人間の想像の賜物であり、「善人は天国へ、悪人は地獄へ」という発想も聖書の考え方ではありません。同時に「霊魂不滅」も、聖書的な考え方ではありません。日本人の死生観は「肉体は死んでも魂はあの世に行き、里帰りする」というものです。お盆は先祖の帰郷を祝う祭りです。「千の風になって」という歌があります「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。千の風になって、あの大きな空を吹きわたっています」(荒井満訳詞)。このアイルランドの歌が日本でも広く受け入れられたのは、霊魂不滅という考えかたが多くの人を惹きつけた故です。この歌は日本人の情緒に訴えますが、何の根拠もなく、単に人間の願望(死というこの世の別れを経験しても、霊魂として愛する者たちとの再会を願う)を反映したものに過ぎません。
・私たちは生まれ、活動し、死んでいきます。人生とは誕生と死の間にあるひと時です。多くの人は自分がこの限界の中にあることを認めようとしません。しかし詩篇は「私たちは死という限界の中にあることを覚えよ」と求めます。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(詩篇90:12)。詩人は、生涯の日を正しく数える、いつかは死ななければならない、ことを受け入れる知恵を神に求めます。昔の人々は神や仏を信仰し、死を来世への移行として受け入れることができました。しかし現代では、多くの人は信仰をなくし、今では、死はあってはならないものと受け止めるようになりました。病院は治る見込みのない人に懸命に延命措置を施します。現代の医学では「死は敗北である」という前提で、胃ろうや人工呼吸器装着等の医療行為が為されていますが、高齢者の91%が「延命のみを目的とした医療は行わず、自然に任せてほしい」と回答しています。死が必然のものであれば、「死に寄り添う医療」が必要でしょう。
・井上良雄氏は語ります「私たちは死の前に衝立を置いて、そのこちら側で営まれている生活を幸福な生活と呼んでいる。本当の幸福はそのような貧弱な幸福ではない」(井上良雄「終末時を生きる」から)。私たちにとっての死は、身内の死、親族の死、友人知己の死であり、自分の死ではありません。死が他人事である限り、死について本気で考えない。しかし死について考えないとは現在の生についても考えないことです。聖書は私たちに求めます「あなたは死ぬ。死ぬからこそ、現在をどう生きるかを求めよ」。
・信仰者は「この世界で進行している出来事は神の出来事であり、私たちの救いの物語であり、その物語はキリストの十字架と復活と再臨によって確かにされている」と考えます。信仰者は「死もまた神によって与えられる恵み」であると信じ、人生を走り終えた後、休息としての死が与えられ、最後の日には復活して永遠の命をいただく希望に生かされます。「死は眠りに過ぎない」、信仰者にとっても近親者の死は悲しい出来事であり、自分の死は怖い出来事です。しかし、その悲しみや恐怖を包む希望が与えられます。何故ならば、「キリストによって死は眠りに変えられた」という福音の言葉を聞くからです。
・どのように復活するかは、誰も知りません。その中でパウロは語ります「種が蒔かれて成長する時、種の姿と生育した植物の姿は異なるが同じ生命体であるように、自然の体が霊の体として復活しても、人格は同じ個人なのだ」と。さらにパウロはコリント15章の終わりで言います「兄弟たち、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15:58)。私たちは死に、その肉体は朽ちます。クリスチャンも、そうでない人も同じく死にます。しかしキリストを信じる者はよみがえります。「われは身体のよみがえり、とこしえの生命を信ず」、使徒信条の一節です。ここに私たちの信仰がかかっていま
す。そして「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」と約束されています。