江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年5月19日説教(第一コリント12:27-13:13、愛がなければ全てが虚しい)

投稿日:2024年5月18日 更新日:

 

1.コリント教会の実情と愛の賛歌

 

・私たちはペンテコステ礼拝を捧げるために、教会に集められました。ペンテコステ、ギリシャ語で50、過越の祭りから50日目の五旬祭の時に、聖霊降臨という出来事が起こりました。教会ではペンテコステを聖霊降臨祭として祝います。キリスト教信仰はイエスが十字架に死なれ、復活されたイエスが弟子たちに顕現され、今は天におられるという土台の上に立っています。そのイエスが、聖霊として再び私たちの下に来られた、それがペンテコステの出来事です。聖霊降臨によって、臆病だった弟子たちが雄弁に語り始め、聴いた人々に回心が起き、キリストこそ救い主と信じる者が起こされ、教会が生まれた記念の日です。

・その出来事を記す使徒言行録2章は語ります「一同が集まっていた時、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:2-3)とルカは記述します。ギリシャ語では風(プノエ)は霊(プニュマ)と同じ語源です。また、ヘブル語では霊(ルーアハ)は息(ルーアハ)と同じで、神の霊は神の息吹として表現されます。風は見ることは出来ませんが、存在を感じることが出来ます。息も見えませんが確かに存在します。聖霊=神の息吹も、見えないが確かに弟子たちの上に降った、そのことを、ルカは「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」と表現しています。その神の息吹は、「炎のような舌の形で弟子たちに降った」とルカは記述します。そして「弟子たちは霊が語らせるままに、他の国の言葉で話し出した」とルカは報告します(使徒2:4)。祭りを祝うために、海外から帰国していたユダヤ人たちもおり、その人々に向かって、弟子たちは、それぞれの国の言葉で、福音を語り始めます。ペンテコステは多くの言語で福音が語られた記念日です。ですから私たちの教会では多言語による主の祈りを伝統的にペンテコステのお祝いの時に唱えます。

・そのペンテコステの記念の日、私たちはコリント人への第一の手紙13章を読みます。この箇所は「愛の賛歌」として有名で、結婚式等でよく読まれる箇所です。「愛は忍耐強い、愛は情け深い、愛はねたまない・・・」、美しい言葉が迫ってきます。しかし、このコリント13章に何故突然に愛の讃歌が出てくるのか、それは愛の賛歌を書かざるをえないような状況がコリント教会にあったからです。コリントの教会の中には、「私はパウロに」、「私はアポロに」という派閥争いがありました。「父の妻を自分の妻にしている」という道徳上の乱れがありました。教会内に財産をめぐる争いもありました。結婚を肉の業として卑しむ風潮もありました。直前の12章では、異言を語る人々が「自分たちは聖霊を受けているが、あなた方は聖霊を受けていないから異言が語れない」と他者を見下す傾向がありました。コリント教会はあまりにも多くの問題を抱え、そこには愛が欠けていました。だから、パウロは「あなた方に今一番必要なものは、愛なのだ」と書き送っているのです。

・今日、私たちは愛の賛歌を12章27節からの区切りで読みます。そのことによって、パウロのいう愛とは何かがより鮮明に浮かび上がって来ます。12章でパウロは「教会はキリストの体であり、あなたがたはその部分なのだ」と述べます。教会の中で、人はいろいろな役割を持ちます。教会全体を指導する使徒、使徒から教育されて説教する預言者、子供や新来者を教える教師、彼らは教会を指導する役割を持ちます。また賜物を持って教会に仕える人々がいます。病気を癒す賜物を与えられている人、経済的困窮者に支援物資を配る人、会計や管理的な事柄に責任を持つ人、異言を語る人もいます。さまざまな人々の奉仕によって、教会活動は多様に、豊かになります。しかし、ここに人間の罪の問題が出てきます。

・指導者たちは「自分たちこそ教会の頭脳であり、単なる手足ではない」と威張り始めます。奉仕者も「私はこんなに奉仕しているのに、あの人は何もしない」と言い始めています。賜物が人を攻撃し、貶める方向に向かい始めています。その人々にパウロは語ります「教会はキリストの体であり、あなたがたはその部分なのだ」(12:27)。そして体とは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(12:26)存在なのだと。指先が痛むだけで私たちは安眠を妨げられ、胃の調子がおかしくなれば一日が台無しになってしまう。体のどの部分、どの器官が、機能を停止しても体全体の調子は狂う。同じように教会員の一人が経済的な問題や人間関係に苦しみ、心や体の不調に苦しむ時には、教会全体が苦しむのだとパウロは語っています。

・だからパウロは続けます「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(12:31)。私たちに最も必要な賜物とは何か、それは「お互いが相手のことを思い合うことを可能にする賜物」、                                            「愛」です。ですから、愛こそ熱心に求めるべきものであり、この「愛が無ければ全ての行為は空しい」とパウロは語ります。それが13章の愛の賛歌です。

 

2.愛が無ければ全ては空しい

 

・コリントの人々は各々の賜物(カリスマ)を誇り、神秘体験を自慢し、自己犠牲を賞賛しました。しかし、パウロは言います「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)。どらやシンバルは、異教の礼拝に置いて人を陶酔に導くための道具として用いられます。単調なリズムを繰り返し、繰り返し、聞くことにより自己催眠が始まります。黒人教会で歌われるゴスペルも、同じ節が何度も何度も歌われ、それが会衆をエクスタシーの境地に招いていきます。しかし、それは一時的な陶酔であって本物ではありません。

・パウロは続けます「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:2)。教会で熱心な証しがなされ、燃えるような祈りや讃美が捧げられても、それが自己陶酔に終わったら全ては空しい。たとえ牧師が熱情あふれる説教を行って会衆が涙を流しても、それはその場限りの感動であり、それも虚しい。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない」(13:3)。愛が無ければ、全ての行為は無益だと彼は言います。

・そして13章4節からの有名な言葉が始まります「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4-7)。ここには愛に関する15の定義がありますが、そのうち八つは否定形です。「妬まない、高ぶらない、いらだたない・・・」、何故否定形で書かれているのか。コリントの人々は「妬み、高ぶり、いらだつ」存在だったからです。だから、「妬みをやめなさい」、「高ぶることをやめなさい」、「いらだつことはやめなさい」とパウロは語ります。ここにあるのは単純な愛の賛歌ではないことに留意すべきです。

・「愛は忍耐強い」、愛するとは相手のことを忍耐することだとパウロは語ります。「愛は情け深い」、キリスト者は往々にして、善良であっても思いやりのない存在になりがちです。牧師や信徒の「無思慮な一言が他者を傷つけ、教会の門を閉ざす」ことが起きています。それは向いている方向性が違うからです。教師が生徒の方を向く時、彼は愛ある教師になります。医者が患者の方を向く時、彼は愛ある医者になります。愛は自分の方ではなく、他者の方を向くのです。「愛は自慢せず、高ぶらない」、しかし教会の中にいかに高ぶりがあるか、長い教会生活をしている人は知っています。「愛は自分の利益を求めない」、パウロは繰り返し「すべてのことが許されているが、すべてのことが益になるわけではない」と語ります。

・愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。カトリックの司祭・本田哲郎氏は次のように説明します「人の関わりを支えるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として大切と思う気持ち。聖書でいう愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続ける限り、薄れも途切れもしない」(本田哲郎、全国キリスト教学校人権教育協議会・開会礼拝より)。

・エロスとフィリアは人間関係を豊かにする愛です。夫婦が愛し合い、友人を大切にすることはとても大事な愛です。しかし、それらは感情的な愛であり、基本は好き嫌いです。人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか破綻します。人は自分のために相手を愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消えます。この愛の破綻に私たちは苦しんでいます。若い恋人たちは相手がいつ裏切るかを恐れています。妻は夫が自分を愛してくれないことに悩みを持ちます。信頼していた友人から裏切られた経験を持つ人は多いでしょう。私たちの悩みの大半は人間関係の破綻から生じています。だから私たちは裏切られることのない愛、アガペーの愛を知ることが必要です。そしてアガペーとは「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:7)愛です。この愛=アガペーは、私たちの中に本来存在するものではありません。私たちの中にあるのは自己愛=エロスとフィリアだけです。だから自分の子どもは愛せても、他人の子どもは愛せない。自分の兄弟は愛せても、他の人には関心が持てない。自分の中に「愛(アガペー)」がないことを知ることが最初の一歩です。

 

3.教会の基盤としての愛

 

・今日の招詞として第一コリント10:23-24を選びました。次のような言葉です。「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。コリント教会の人々は語りました「私は自由だ、何者にも束縛されない、すべてのことは許されている」と。しかし、パウロはキリスト者の自由は、他者への愛によって束縛されると言います。何故ならば、主があなたのために死んで下さったからあなたがたは自由になった、それは購いとられた自由、責任を持つ自由なのです。「すべてのことが益になるわけではない」、愛は自己ではなく、他者の利益を求めます。

・愛=アガペーは、私たちの中に本来存在するものではありません。しかし、神はそのあなたを子として下さった。その時、教会の兄弟姉妹も同じ神の子として、あなたの兄弟姉妹になるではないか。それなのに、何故兄弟姉妹が困惑するような自分勝手の行動が出てくるのかとパウロは問いかけています。私たちは愛をLoveと呼ぶことを止めるべきです。聖書の愛(アガペー)に最も近い言葉はRespect、「尊ぶ、大切にする」心です。キリシタン時代の宣教師は、「アガペー」を「愛」と訳さずに、「御大切」と訳しています。

・アガペーは感情ではなく、意思です。それは神から与えられる賜物です。私たちは嫌いな人を好きになることはできなくとも、彼らのために祈ることはできます。自分に敵対する人のために祈るという実験を私たちも始めた時、その祈りは真心からのものではなく、形式的なものでしょう。しかし形式的であれ、祈り続けることによって、「憎しみが愛に変わっていく」体験をします。祈りながら、その人を憎み続けることはできないからです。

・最後にパウロは言います「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」(13:8)、しかし「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(13:13)。どのような問題を教会が抱えていようが、どのように不完全であろうとも、どのように醜い現実がそこにあろうとも、教会は神の国共同体です。だから、私たちはこの教会から離れない。それはキリストの血によって買い取られた共同体なのです。教会に生じるどのような問題も、愛によって解決可能であり、そして最終的に残るものは「信仰と希望と愛である」とパウロは語ります(13:13)。

・私たちが教会で求めるべきは、自己の救い、自己の達成ではありません。それは既に達成されている。そうではなく「自分の利益ではなく他人の利益を追い求める」、他者の救い、隣人の喜びがわが喜びになった時、教会は教会になり、私たちは本当の生きる喜びを知るのです。最後にボンフェッファーの言葉を共に聞きましょう「教会は、他者のために存在する時にだけ教会である・・・教会は、あらゆる職業の人に、キリストと共に生きる生活とは何であり、他者のために存在するということが何を意味するかを、告げなければいけない」(D. ボンフェッファー「獄中書簡」39-440p)。

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