1.愚かな金持ちの譬え
・イエスはガリラヤ各地を、「神の国は来た」と宣教して回られました。大勢の群衆がイエスの周りに集まり、彼の話を聞きました。ある時、群衆の一人が彼に語りかけてきます「先生、私の兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」(ルカ12:13)。彼は遺産相続のことで兄弟と争っていたのでしょう。ユダヤでは長子が2倍を相続し、他を兄弟たちで分けるという長子相続の世界です(申命記21:17)。この場合、兄は遺産を弟に分けてやらなかったか、もしくは規定以下の分け前しか与えなかったため、弟は遺産相続に不満を持っており、イエスに口利きを頼んだのでしょう。その男にイエスは言われます。「人よ、だれが私をあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」(12:14)。
・一見すると冷たい言い方ですが、決して冷たい言い方ではないことが、次の言葉でわかります。「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人の命は、持ち物にはよらないのである」。イエスに兄との財産分与の調停を頼んだ男は、財産がもらえれば幸福になれると思い込んでいます。しかし、イエスは彼に言われます「あなたは財産を巡って兄弟と争っている。財産があることがあなたを不幸にしているのではないか。本当に財産があなたの命にとって一番大切なものか、考える必要があるのではないか」と。
・そして彼に一つの譬えを話されます。「愚かな金持ちの譬え」です。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と』」(ルカ12:16-19)。原文のギリシャ語ではこの短い数節に私(ギリシャ語=ムー)と言う言葉4回も出てきます。私の作物、私の倉、私の財産、私の魂、彼の関心は私だけです。しかし、命が終る時、私の倉も、私の穀物も、私の財産も、私の魂も終ります。神はこの金持ちに言われます「『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(12:20-21)。
・譬えの意味することは明らかです。金持ちは自分の命が自分の支配下にあると思っています。私たちも老後や不治の災害に備えて貯金すれば安心だと思っていますが、その前に死んでしまうかもしれないし、寝たきりになるかもしれない。命は私たちのものではない。また、努力して蓄えても、死んでしまえば、その財産は他人のものになる。往々にして、財産を残すことによって相続人の間に争いが起こり、かえって不幸を招くこともあります。さらに、地上の財産は私たちが天の国に入るためには何の役にも立たない。だから、イエスは言われます「この金持ちは愚かではないか、本当に必要なものを持っていなかったのではないか」。私たちの人生もこの愚かな金持ちの人生に似ているかもしれません。私たちは良い大学に入り、良い会社に入り、良い地位を得て、良い経済生活をすることを望んでいますが、遅かれ早かれ死にます。死ぬ時には、財産も地位も名誉も何の役にも立ちません。「役にも立たないものを求め続けて生きる、それで良いのか」と言う問いかけがここで為されています。
・また持てる人は富のゆえに高慢になります。他の人々よりも金持ちであるというだけで、自分を優れた人間のように考えがちです。富が自分の安全を保障してくれるかのように誤解しています。聖書学者ウィリアム・バークレーは語ります「富は罪ではなく責任である。もし富が人を高慢にするしか役立たず、己一人を豊かにするだけのものであれば、その富はその人にとって滅びになる・・・しかし、人がその富を、他人を助け、他人を慰めるために用いるのであれば、彼の財産が減るに従い、彼の心は豊かになる」。「たくさん持っている人」が富んでいるのではなく、「たくさん与える人が富んでいる」。「神の前に豊かになる」とはそのような生き方です。
・メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーは言います「正直に稼ぎ、できるだけ節約し、必要以外のものは他に与えよ」。彼は、「富を社会のために用いよ」と語ったのです。富やお金そのものが汚れているのではなく、用い方によっては神に喜ばれるものとなります。しかし同時に、私たちがお金のとりこになった時に、それは悪に変わり得るし、人間を罪に誘うものとなる。私たちは金銭の神(マモン)から解放されなければいけない。だから私たちは痛みを感じながら、収入の十分の一を捧げる献金をするように勧められています。しかし、十分の一を捧げなければいけないと思った時、十一献金は義務になり、苦痛になります。十分の九を自分のために用いることが許されていると考える時、それは感謝と喜びの行為になります。
2.ビオスとゾーエー
・新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、ギリシャ語には命を表わすのに二つの言葉があります。「ビオス」と「ゾーエー」です。ビオスとは生理学的命、心臓が動いているとか、呼吸をしている等の命です。それに対してゾーエーは人格的な命、人間らしく生きるという時の命です。人間は動物と異なり、生理学的命だけでなく人格的命も生きています。だから、「将来に希望はない、生きていても仕方がない」と思う時、生理学的命(ビオス)は生きていますが、人格的命(ゾーエー)は死んでいることになります。
・「夜と霧」という著作で、強制収容所の生活を描いた、ビクトール・フランクルは収容所で医者として働き、苦難の中に死んでいく多くの同胞たちを見ました。しかし生き残った者たちもいました。両者を分けたのは「未来に対する希望であった」とフランクルは語ります。「人はなぜ生きるのか、その意味を見失った時、多くの人は心が折れて死んでいった・・・待っている仕事、あるいは待っている人間に対して持っている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである」(「夜と霧」から)。生きる意味を与えるものは、自分にはやるべきことがあるとの使命感・召命感です。それをなくした時、人は「生きる屍」になります。老人ホームに入居した人々が、衣食住に不自由がないのに、いつの間にかホームを牢獄のように思うようになるのは、生きがいの喪失から来ます。「生きていてもしょうがない」という時、動物としての命(ビオス)は生きていても、人格としての命(ゾーエー)は死んでいるのです。
・イエスが「愚かな金持ちの譬え」で私たちに問われていることは、生理学的命(ビオス)にとらわれすぎる時、本当に必要な人格的命(ゾーエー)を失うのではないかということです。人の生命維持に必要なものは、物質的な糧と霊的糧です。前者は生物体としての命維持のために必要であり、後者は人格的命の維持のために必要です。イエスは言われます「ビオスのための糧(衣食住)は父なる神が与えてくださる。だからあなた方はゾーエーのための糧、神の国を求めよ」と。人が必要以上に物質的な富を蓄えても、それでもって自分の命を増やすことは出来ないし、逆に物質的な所有を貪ることによって霊的な命は枯渇していく。愚かな金持ちの場合、関心は自分だけで、そこには自分が神により、また人により生かされているという気持ちはない。彼はビオスを貪ぼることにより、ゾーエーを殺してしまった。
・私たちは人生の大半を衣食住、ビオスを養うための物質確保のために働きます。少しでも良い暮らしをしたいと思うし、そのためにもっとお金が欲しいと思う。しかし、それは本当に必要なものなのか、本当に必要なものはそんなに多くないではないか。仮に私たちが癌に罹り、余命半年と宣告された時、私たちは今と同じ生活を続けるだろうか。半年後に死ぬのであれば他の生き方をすると思う時、その人は本当に必要なものをまだ得ていない。本当に今の生き方のままでよいのか、死んでも悔いないほどに充実して生きているか、この譬えは私たちに問います。それは現在の生活の基盤を捨てよというのではありません。現在の生活を絶対視せず、相対化することによって、新しい命のための糧を求めよということです。
3.一番大切なもの
・この譬えに続いて、イエスは言われます。「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさっている」(ルカ12:22-23)。命は食物に勝り、体は着物に勝っている。しかし、それでは食物や着物のことはどうするのか。イエスは続けて言われます。「あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな・・・あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである」。衣食が人間に必要なことは父なる神が知っておられる。そして神は子であるあなたを養われる。だから、あなたは一番大切なものを求めよ」(ルカ 12:29-30)。それは何か。
・今日の招詞にルカ 12:31-32を選びました。次のような言葉です。「ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さな群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。」イエスの弟子ペテロは人々に福音を伝道して言いました。「金銀は私には無い。しかし、私にあるものをあげよう」(使徒3:6)。教会にはビオスを養う金銀はありません。しかし、ゾーエーを養う神の言葉、聖書があります。共に聖書を読むことによって、内面から私たちを縛るものから解放される。聖書はそれを、「神の前に富む」、あるいは「天に富を積む」と言う言葉で表現します。
・神の前に豊かな人は、世の所有物は乏しくとも心は平安です。神が地上に生かされることを許される間は、彼は食物・衣服に事欠くことなく、感謝と平安の中に生きます。時が来て、地上の生を終える時は、信仰と希望と愛を持って天の国に行きます。このような生活がありうるし、成立しうるのだと聖書は主張します。「簡素な、しかし平和な生活」です。生理学的命の維持のためには必要最小限があればよい。霊的命のためには神の言葉である聖書によって養われる。そういう生活に招くために、ここに教会が建てられたのです。
・私たちは何も持たずにこの世に来ました。生まれたばかりの赤子は自分で食べることも、身を守ることも出来ません。しかし彼には不安がありません。何故ならば、両親が必要な食べ物を与え、敵から身を守ってくれることを、本能的に知っているからです。キリスト者はこの「赤子の信仰を持て」と言われています。神が私たちを守り、生きるために必要なものを与えて下さることを知る時に、この世のわずらいは消え、身の安全のために富や権力を求める必要もないではないかと問われているのです。
・私は50歳の時に会社勤めを辞めて、神学大学に入りました。神学を学びながら、いつも不安でした。「当面の生活費は退職金により支えられている。でもそれがなくなったらどうすればよいのか」。大学卒業後、篠崎キリスト教会の牧師としての働きの場が与えられました。それでも心配でした。当時の篠崎キリスト教会の礼拝参加者は10名前後、経常献金は300万円を下回っていました。牧師給は10万円でした。この牧師給で家族を養っていけるのだろうか、いつも思い悩んでいました。赴任の翌年、東京バプテスト神学校から事務長の仕事が提供され、不足分を補う収入が与えられました。それから20年、神は私たち家族を養ってくださいました。
・出エジプトを体験した人たちが語る通りです「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:4)。そしてあなたは知ったはずだ「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを」(同8:3)。20年を振り返った時、なぜもっと神に信頼することができなかったのだろうと赤面しています。人の心配ごとの90%は実際には起こらないと言われています。人間は起こる可能性のほとんどないことを思い悩んで時間とエネルギーを費やし、自らを不幸にしているのです。それよりも、「明日のための心配から解放されて、今ここに生かされていることを喜びなさい」とイエスは言われているのです。