江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年4月30日説教(ローマ3:21-31、罪からの解放)

投稿日:2023年4月29日 更新日:

 

1.正しいものは一人もいない

 

・「ローマの信徒への手紙」は、パウロが帝国の首都ローマにある教会に宛てた書簡です。書かれた時期は紀元54年頃、パウロは2年半にわたったアジア州での伝道活動を終え、今コリントにいて、エルサレムに渡るための船便を待っています。パウロが開拓した異邦人教会からの献金をエルサレム教会へ持参するためです。パウロはエルサレムへの務めを果たしたら、世界の中心ローマに行って伝道したいと願い、今未知のローマの教会に手紙を書いています。通常であれば挨拶と自己紹介の簡単な手紙になるはずでした。しかし、ローマ教会には問題があり、そのため、パウロは詳細な救済論を書くに至りました。その問題とは、教会の中で、「ユダヤ人と異邦人の対立」が生まれていたことです。教会はエルサレムから始まり、ローマ教会もユダヤ人中心の教会でしたが、次第に異邦人も加入し、民族混合の共同体になっていました。その教会内で対立が生まれ、コリントにいるパウロにもその知らせが届きます。同じ教えを信じる信仰者の間に、なぜ対立や争いが生じるのか、パウロはその根源に、「人間の罪」を見ます。

・パウロは最初の挨拶の言葉を終えるや、「罪とは何か」を説き始めます。それが1章18節から3章20節まで続きます。最初にパウロは、異邦人の罪を指摘します。それは「神を知りながら、神を神として認めない」ことだと語ります。外にあっては天地自然を通して、内にあっては人間の良心を通して、神は自己を示されましたが、人はそれを認めようとしない。そこで神は、「彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」とパウロは書きます(1:24)。

・「神を神と認めないところに異邦人の罪があった」とパウロは指摘しました。では「神を神として敬い、神の戒め(律法)を大事にする」ユダヤ人は罪から解放されているのか、「そうではない」とパウロは一転してユダヤ人の罪を指摘します。それが2章1節からの箇所です。ユダヤ人たちは「自分たちは神の選民だ」と主張し、神を知らない異邦人を罪人として裁いていますが、実際には異邦人と同じ罪を犯していると彼は言います。ユダヤ人キリスト者たちは、異邦人改宗者に割礼を受けることを求め、律法を守らなければ救われないと主張していました。その結果、教会の中で異邦人キリスト者と対立し、そのことによって「神の御名を汚している」(2:24)と語ります。

・そしてパウロは人間の罪の有り様を表示します。それが3:12から始まる告発状です。「善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」(3:12-18)。

 

2.罪からの解放~赦しを通して

 

・聖書は繰り返し、「神は悪を滅ぼし、正しい人を救う」と語ります。しかし全ての人が罪の中にあり、正しい人が誰もいないとしたら、私たちに与えられるのは滅びしかありません。パウロは「人は神の戒めを守ることが出来ない罪人」だと指摘し、「それを知るために戒め(律法)が与えられた」と語ります。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3:20)。だから神はキリストを遣わされ、人間が御子を十字架につけて殺すことを放置された。そのイエスの贖いによって、「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義が(示された)」(3:21-22)のだとパウロは語ります。

・パウロは続けます「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(3:23-24)。この贖いとは、「罪の償い」という旧約祭儀から来ます。パウロは続けます「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(3:25)。「罪を償う供え物」、ギリシア語「ヒラステーリオン」は、神殿の至聖所にある「契約の箱の蓋」を指します(出エジプト記25:17)。旧約の神殿祭儀では犠牲の動物をほふり、その血を契約の箱に振りかけることで罪の贖いが為されます。人間の罪が身代わりの動物の犠牲の血で清められるというのが旧約の罪の贖いです。しかし、このようなユダヤ教の身代わり犠牲はキリストの十字架を通して不要になったとパウロは語ります。何故ならば、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」(3:25-26)。

・この「イエスを信じる者は義とされる」、原文に忠実に訳せば「イエス・キリストの信仰によって」です。すなわち「イエスが命をかけて示した神に対する従順な生き方を通して救いが生じる」(廣石望、代々木上原教会説教から)、「イエス・キリストを通して現れた神の真実」(K.バルト訳)が人間を救うのです。人間の信仰という行為が人を救うのではない。救いは「無条件の神の赦し」から来る。パウロは続けます「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、私たちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(3:27-28)。この3章28節の言葉「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」こそ、ローマ人への手紙の中核の言葉であり、ルターの宗教改革を生み出し、プロテスタント教会の信仰に基盤になった言葉です。

・神の無条件の赦しが人間を救うのであれば、人間の側には何も誇るものが生じず、あるのは感謝です。パウロは語ります「神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです」(3:30)。この割礼を洗礼と読み直せば、今日の教会への言葉になります「神は、洗礼のある者を信仰のゆえに義とし、洗礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです」。洗礼が人を救うのではない、では洗礼は無用なのか。そうではないとパウロは語ります「私たちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」(3:31)。洗礼を受けるゆえに救われるのではなく、救われた感謝として洗礼を受けるのです。

・「人はイエス・キリストの真実によって救われる」というパウロの言葉は、パウロ自身の深い悔い改めから見出された真理です。パウロはかつてキリスト教会の迫害者でした。パウロは「この道(キリスト信徒たち)を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえした」と告白しています(使徒22:4)。パウロは熱心のあまり、異端者であるキリスト信徒を殺すことさえしたのです。そのパウロにイエスからの声が響きます「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」(使徒9:4)。この声を聴いてパウロは雷に打たれたようになり、回心します。神は殺人者であった自分さえもキリストを通して赦して下さった。この赦しの体験がパウロを根底から変えていきます。パウロは告白します「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(5:10)。

 

3.放蕩息子の譬えに見る救済

 

・今日の招詞にルカ15:24を選びました。次のような言葉です「『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた」。放蕩息子の物語は、「ある人に二人の息子がいた」という言葉で始まります。弟息子は堅苦しい父との生活にうんざりし、家を出て行く決意を固め、父親に財産の分け前を要求します。父は息子の意思を尊重し、財産である土地や家畜を二人の息子に分け与えます。弟息子は財産を金に換え、遠い国に旅立ち、その地でお金を湯水のごとくに浪費し、使い果たしてしまいます。やがて彼は食べるものにも困るようになり、豚のえさであるいなご豆でさえ食べたいと思うほど飢えに苦しみます。人は落ちるところまで落ちた時、初めて悔い改めます。弟息子は「豚のえさを食べても飢えをしのぎたい」と思った時に、我に返りました「父のところには有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。父のところに帰ろう」(ルカ15:17-18)。放蕩息子は「父の子」であることを思い起こし、自分の罪を認め、もう息子と呼ばれる資格は無いと考えました。彼は、どのような裁きを受けようとも、父の家に帰ることを決意します。

・父親は息子の身を案じ、毎日、息子の帰りを待っていました。ある日、その息子が帰ってくるのが見えます。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。息子は父親を見ると、謝罪の言葉を口にし始めますが、父親はそれをさえぎって使用人に命じます「急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」。父親は放蕩息子の帰還を無条件で喜び迎え、祝宴の支度をするように命じます「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう」。そして招詞の言葉が語られます「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。ここでは悔い改めも贖罪も求められていません。父親の側からの無条件の赦しがあります。この無条件の罪の赦しこそ、パウロがローマ書で語る福音なのです。人間がどのように努力しても、救われることも義とされることも出来ない。そういう窮地に陥っている人間に神の方から救いの手が伸ばされた。それがキリストの十字架です。

・パウロはローマ教会の人々に厳しい言葉を投げかけました。病人は自分の病変を知ることによって、はじめて医薬の必要を感じ、回復への道を踏み出します。罪を知ることこそ救いの第一歩です。しかし人は罪を指摘されても反発するだけです。パウロはこの手紙から3年後に皇帝の裁判を求めて、囚人としてローマに行き、教会の人々と会います。使徒言行録によりますと、「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとした」(使徒28:24-25)とあります。パウロの伝道は失敗したのです。

・パウロはそのローマで2年間獄に監禁され、紀元60年頃、処刑されたとされています。ローマ教会の人々は思いました「この人は命を懸けて、良い知らせを私たちに伝えてくれた。2年間も監禁され、最後には殺されて行った」。「彼は私たちのために死んでくれた」。そのことがわかった時、彼らはパウロの語る「イエスの十字架死の贖い」の意味が分かりました。パウロ自身が彼らに見せてくれたのです。古代教父テルトゥリアーヌスは語りました「殉教者の血は教会の種子である」。殉教者パウロの血は教会の種となりました。神は彼の死を無駄にはなさらなかったのです。ローマ教会の人々はパウロの死を通してキリストの十字架死(命を懸けて示した神への従順な生き方)に出会い、信じる者とされたのです。同じことが私たちの伝道についても言えます。私たちが誰かのために自らの血を流した(犠牲を払った)時、私たちの福音の言葉はその人に伝わるのです。人を信仰に導くものは伝道者の真剣な生き方なのです。

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