1.古い人を脱ぎ捨てなさい
・エフェソ書を読んでいます。エフェソ書はパウロの弟子である著者が獄中から送った手紙ですが、わざわざ獄中から手紙を出す要因がエフェソ教会の中にありました。それは教会の一致がなかったからです。教会の中にはギリシャ人もユダヤ人もいましたが、彼らは仲間だけで集まり、他のグループとは交わりませんでした。自由人も奴隷も教会の中にいましたが、対立していました。パウロはコリント教会に書いた手紙の中で教会内の対立にについて述べます「あなたがたは相変わらず肉の人だからです。お互いの間に妬みや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(第一コリント3:3)。同じ状況がエフェソの教会にもあったのです。教会内の不和や対立は現代の教会の中にもあります。キリストに出会ってバプテスマを受けたのに、私たちの生活が少しも変えられていない、今でも肉の人に留まっているからです。「あなたのどこにキリストが生きておられるのか」と著者は訴えます。
・手紙の中で著者は語ります「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(4:1b-3)。あなたがたは主によって選ばれ、神の招きをいただき、御国を継ぐ者とされ、しるしとして聖霊を与えられた。そのあなた方の間に不和がある、それはあなたがたが回心前と同じように生きているからだ。神の霊を受けてもあなた方の生き方は変わらず、この世の人と同じように争っていると著者は問いかけます。
・ここでは「霊による一致を求めなさい」と言われていますが、育った環境も考え方も違う者同士が一致することは難しい。もし一致が可能であるとしたら、それはお互いがキリストによって生かされていることを知る時です。その時、「聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(4:12-13)と著者は語ります。
・エフェソの教会ではギリシャ・ローマ的な考え方に影響された異端を巡って争っていました。しかし、「キリストによる一致が為された時は、そのような争いも終わると著者は語ります「こうして、私たちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(4:14-15)。ここでは異端が「悪賢い人間の風のように変わりやすい教え」と表現されます。そのような不確かな教えを超えて、キリストの体である教会を形成していきなさいと言われます。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(4:16)。
・神を知らない人たちは自分たちを神とし、自分たちの利益のために争います。そこにおいて生きる事は、相手への貪りとなり、貪りは争いを生み、争いは平安を壊し、私たち自身もその中で滅ぼされてしまいます。かつての私たちはそうであったと著者は言います。「異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」(4:17-19)。神はキリストの十字架を通して、私たちと和解して下さった。キリストが死から復活され新しい命を与えられた。それは私たちの上にも起こったことではないか。私たちが罪を赦され、新しい命が付与されたのであれば、私たちはもう以前のようには生きることは出来ない。だから彼は言います「あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」(4:20-21)。
・神が私たちを救われたのは、私たちを通して神の恵みを伝えるためです。個人の幸福、救いを超えた出来事として、私たちは召されているのです。神との正しい関係に入った時、私たちは良い業を行い、その業を通して神を証しする者となるのです。だから『古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい』と著者は言うのです「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(4:22-24)。古い人=自己中心の在り方から、新しい人=キリストに生かされる人になるように招かれているのです。
・今日の応答讃美(新生讃美歌489番「わが時は主の御手にあり」が、私たちの変化をよく示しています。1番は歌います「明日はどうなるでしょう。悩みが多いのみ」、2番「忙しく追われていて、息つく暇もない」、3番「空しい日々を過ごし、すべなく時が流れていく」、回心前の私たちは世の出来事に振り回されてせわしく生きていた。しかしキリストを知り、私たちに休息と慰めの時が与えられます。繰り返しの部分です「わが時は主の御手にあり、慈しみの主によって、慰められ、新たにされる。強めたまえ、わが心」。
2.新しい人を着る
・キリスト者も世にある限り、罪から自由ではありません。肉の罪は依然として、彼の中にあります。キリスト者とは赦された罪人であり、罪人である現実は変わりません。しかし、私たちがキリストを心の中に迎え入れ、キリストの愛に触れる事を通して、私たちは次第に聖化されて行きます。この聖化こそ大事なのだと著者は言います。それが具体化するのが25節以下の生き方です。キリストを知った者の生き方の基本は、隣人と共にある生活です。まず隣人に対してうそを言わないことです。私たちの生活はうそに満ち溢れています。私たちは自分を飾って、本当のことを他人には語りません。その私たちに、「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい」(4:25)と語られます。
・そして「怒ることがあってもその怒りを明日に持ち越すな」(4:26)と語られます。怒るとはいらだつことであり、この怒り、苛立ちが人を罪に導きます。ヤコブは語ります「私の愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」(ヤコブ1:19-20)。「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅い」生活を私たちがすれば、他者との不和が生じてもやがて解消していくでしょう。それでも不和があるとすれば、それは私たちが御言葉を真剣に生きていないからです。
・著者は続けます「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」(4:28)。私たちの献金は隣人への分け与えの基礎になります。また「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(4:29)と勧められています。「悪い言葉(ロゴス・サプロス)」をルターは「腐ったおしゃべり」と翻訳しました。キリストの体なる教会は「聖霊によって生かされる教会」なのです。パウロも語ります「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(第一コリント10:23-24)。大事な言葉だと思います。
3.神に倣う者になりなさい
・今日の招詞にエフェソ5:1を選びました。次のような言葉です「あなたがたは愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」。神に倣うとは、神がキリストを捧げて下さったように、私たちも自分を捧げることです。自分を献げるとは自分を捨てることです。その時、他者に対する貪欲な言葉や、卑猥な言葉が出るはずはありません。ところが実際は、私たちの口から罪の言葉が出てきます。ヤコブは指摘します「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(ヤコブ3:8-10)。私たちは「父である主を賛美した舌で、神にかたどって造られた人間を呪う」存在なのです。故に教会の中に様々な不和が生じます。しかし、いつまでもそうであってはいけない。
・キリストはあなたがたのために死んで下さった。神が赦して下さったのだから、あなたがたも赦し合いなさいと著者は語ります。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦して下さったように、赦し合いなさい」(4:32)。著者は、今は悪い時代、悪が支配する時だと考えています。その中にあってキリスト者は、この世から遠ざかるのではなく、世のただ中で、「地の塩」として生きていくことをも求められています。悪への誘いに同調してはいけない。世においては、共に酒を飲み、愉快に騒ぐことが友好のしるしになっているかもしれない。しかし、あなたがたは酔うほどには飲むな。酩酊は人を無防備に導き、罪に誘う。世においては、「見ざる、聞かざる、言わざる」が大人の知恵とされているかもしれないが、「あなたがたは不正を見逃すな、悪を放置するな。その結果、損をするのであれば損を受けよ」。神は見ておられると語られています。
・そして著者は語ります「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、生贄として私たちのために神に献げて下さったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(5:2)。著者はこの邪悪な時代にあって、悪に負けずに悪と戦えと語ります。戦うには武器が必要です。エフェソ書は語ります「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい」(6:14-15)。与えられた武器は全て防御用です。神の武具は人を傷つけるものではなく、人を生かすものです。唯一の攻撃用武器は神の言葉です。「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(6:17)
・著者の師パウロは語りました「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:20-21)。この戦いに勝つためには祈りが必要です。敵に対して良いことを行うことがどれほど難しいか、私たちは知っています。だからこそ祈る。祈りこそ真の武具であり、大きな力を持つ。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、全ての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(6:18)。祈り、神との絶え間ない対話こそが、人をキリスト者たらしめるのです。