1.罪から救われた者たちへ
・エフェソ書を読んでおります。エフェソ書はギリシャ・ローマの異教世界からの影響を受けて、集会内にキリストの福音から逸脱する異なった教えが入り込み、福音の本質が失われかねないと憂慮した著者が、危機を克服しようとして筆をとったとされています。著者は、パウロの弟子と思われます。彼は語ります「神に出会う前のあなたがたは罪の中に死んでいた。世を支配するサタンの奴隷として、肉の欲望のままに生活し、その果てには滅亡しかない人生だったではないか」。それが2章冒頭から始まる箇所です。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。私たちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(2:1-3)。
・罪の支払う報酬は死であり、死をもたらす罪は悪魔的諸力によってもたらされると著者は考えています。そしてこの悪なる霊との戦いを著者は力説します。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(6:11-12)。神なき世界では、人を信頼することがでず、敵は何をするかわからない存在ですので、この世は弱肉強食の、食うか食われるかの世界となります。そこには悪魔的霊力が働いており、そこにおいて生きることは相手への貪りとなり、貪りは争いを生み、争いは平安を壊し、私たち自身もその中で滅ぼされてしまう。そういう世界にあなた方はいたのだと著者は語ります。
・悪魔的霊力を、キリスト教は「原罪」と名付けます。人間には支配できないエゴの働きです。森有正という信仰者は原罪を次のように述べています「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる。また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」(森有正「土の器に」p.21)。この罪は英語でいうsinです。犯罪(crime)を引き起こす元になる罪です。
・しかし、神はキリストの十字架を通して、私たちを原罪から解放してくださった。このことによって私たちは他者と共に生きる者となり、教会を形成した。「憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(2:4-6)。神が私たちを救って下さったのは、神の恵みを隣人に伝えるためです。個人の幸福、個人の救いを超えた、共同の救いのために、私たちは召されています。著者は語ります「私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです」(2:10)。
2.キリストにおける一致
・著者は「あなたがたは、かつては異邦人、無割礼の者であり、神を知らず、救いの望みもなかった」と語ります。「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。またそのころは、キリストと係わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(2:11-12)。そのあなた方がキリストの十字架により、異邦人であるのに、神の民として迎えられた。これまでギリシア人とユダヤ人は互いに敵対し、交わろうとしなかったが、キリストの死によって「民族の隔ての壁」は取払われたと著者は語ります。「キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(2:14-16)。
・キリストの十字架の犠牲がギリシア人とユダヤ人との和解をもたらしたように、神との和解は人と人との和解をもたらします。もし、私たちが他者と不和にあるならば、それは神との和解がないからだとヨハネも語ります。「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(第一ヨハネ4:20)。こうして教会に召された私たちは一つの家族、神の家族になっていきます。教会は家族共同体ですから、お互いを兄弟姉妹と呼びます。著者は語ります「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」(2:19-21)。
・民族と民族が、人と人がいがみ合い、ののしりあう世界の中で、私たちは教会を形成します。キリストにおいて一つになることは互いの特性を捨てるのではなく、違ったままで一つになることであり、教会はそれが可能になる場所です。教会はこれまで教派同士で争い、自分たちだけが正しいとして、お互いを攻撃してきました。しかしエフェソ2章14節以下が示すことは、おのれの教派のみ正しいとする信仰と宗教は終わったことを告げます。キリストが宣教された福音は、敵意を育まない和解と対話をもたらすのです。教派の違いについてキング牧師は語ります「神は、バプテストでもメソジストでも長老派でも監督教会員でもあり給わない。神は我々の教派を超越していたもう。アメリカよ、諸君はキリストの真の証人であるためには、そのことをわきまえなければならない」(マーチン・ルースー・キング「汝の敵を愛せよ」、邦訳242P)。
3.隔ての壁が崩れる時
・「隔ての壁」はどのようして崩されていくのでしょうか。それはキリストへの信従から生まれます。今日の招詞にマタイ5:43-44を選びました。次のような言葉です「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。世の常識では敵は何をするかわからない存在ですから、敵から自分を守るために武器をとって武装します。しかしキリスト者は剣や銃の代わりに御言葉と祈りで武装します。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という御言葉を信じて生きる時、「隔ての壁」は崩れていきます。
・その例を私たちは、マルティン・ルーサー・キング牧師の生涯に見ます。彼は「私には夢がある」という有名な説教をしました。1963年に黒人差別の撤廃を求めて為されたワシントン大行進の最後に語られた言葉です。キングは語ります「私は同胞達に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。将来、この国が立ち上がり、『すべての人間は平等である』というこの国の信条を真実にする日が来るという夢が。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。今、差別と抑圧の熱がうずまくミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わり得る日が来るという夢が。私には夢がある。私の四人の小さい子ども達が、肌の色ではなく、内なる人格で評価される国に住める日がいつか来るという夢が」。キングの公民権運動の闘いは評価され、彼は翌1964年にノーベル平和賞を授与されます。しかし、キングは夢の実現を見ることなく死んで行きます。
・「私には夢がある」と語ってから5年後、キングは暗殺者によって命を奪われました。そのキングが亡くなる前日に行った説教が残されています。キングは1968年4月4日、テネシー州メンフィスで白人民族主義者の凶弾に倒れ、39歳でこの世を去りましたが、その前日、彼は「私は山に登ってきた」という説教をします。「一体これから何が起ころうとしているのか、私には分からない。ともかく、私たちの前途が多難であることは事実である。しかしそんなことは、今の私には問題ではない。なぜなら、私はすでに山の頂に登ってきたからである。従って、もう何も心配していない。私も他の人と同じように長生きしたいと思う・・・だが、もうそういうことも気にしていない。神の御心を全うしたいだけである。神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地も見た。私は皆さんと一緒にその地に到達することは出来ないかもしれない。しかし今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちは一つの民として、その約束の地に至ることが出来る、ということである。だから、私は今夜、幸せである。もう何も不安なことはない。私はだれも恐れてはいない。この目で、主の再臨の栄光をみたのだから」。その情景を歌った讃美歌が今日の応答讃美歌430番「静けき祈りの」です。
・暗殺を予感しているような説教ですが、この説教は昔、民を率いてエジプトから脱出したモーセが、約束の地を前にしてネボ山(ピスガの山頂)に登り、そこから神が約束された地に同胞が入る姿を見て、息絶えたという旧約聖書の記事を背景にしています(申命記34章)。キングは非暴力不服従という方法で黒人解放運動を推進しましたが、その考え方の基本には、聖書の真理は単なる言葉ではなく社会を変える力を持ち、人間解放の根源は神が人間を創造されたのだから、同じ被造物として平等であるとの信仰にありました。今日の招詞の言葉はキングの愛唱聖句ですが、聖句は続きます「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:45)。キングは志半ばにして死に、人間的に見れば「無念の死」を死にました。
・聖書はもう一つの「無念の死」を私たちに告げます。イエスの死です。イエスは死を前に、ゲッセマネで血の汗を流して祈られました「この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。神はイエスの祈りを聞かれず、イエスを十字架につけられました。十字架上でイエスは叫ばれます「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。福音書はイエスが無念の思いで死なれたことを隠しません。しかしこの無念の死から奇跡が起こります。イエスの復活です。神はイエスを見捨てられなかった。神はイエスを死から起こし、逃げた弟子たちをも起こして復活の証人とされ、教会が形成されます。
・イエスの生涯、そしてキングの生涯を考える時、私たちの人生、この世の生は、未完であって良いのではないかと思います。私たちはこの世で約束の地を目指して旅をします。その私たちがイエスの言葉に従い、歩み続ける時、人と人との間にある「隔ての壁」が消えてなくなる体験をし、喜びます。そして命じられた責任を果たし、定められた時が来れば死にます。しかし、私たちの旅は死では終わりません。仮に私たちが約束の地を自分の目で見ることができなくとも、遠くにそれを眺め、次の世代の人びとに使命を委託します。キングは1968年に暗殺されて死にましたが、アメリカは20年後の1986年にキングの誕生日1月15日を国民の祝日にし、50年後の2009年に黒人のバラク・オバマが米国大統領になります。キングへの約束は少しづつ果たさているのです。この世界では正義や公平、愛は建前であり、そのためにキリストは殺され、キングも殺されました。しかし神はイエスを復活させて下さり、キングの言葉はいまなお多くの人の心を打ちます。教会とは「愛は敵を友に変える力を持つ」(ローマ12:20-21)を信じて生きていく共同体なのです。