江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年10月2日説教(イザヤ63:7-19、信仰は何故と問うところから始まる)

投稿日:2022年10月1日 更新日:

 

1.苦難の中での祈り

 

・イザヤ書は40章から第二イザヤの預言の言葉が始まります。バビロニアに国を滅ぼされ、異国の地で捕囚となって苦しんだイスラエルの民に、「主が私たちを解放してくださる」との希望の預言が語られます。人々はイスラエルを目指して帰国の旅につきます。しかし故国に帰ってみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは「主がエルサレムをエデンの園にして下さる」と励まされて帰国しましたが、現実は予想を上回る厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。主に対する信仰まで揺らぎ、人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。「主よ、何故なのですか、約束が違うではないですか」と民は言い始めているのです。

・この中で、第二イザヤの後継者である第三イザヤは信仰をなくした民に語り掛けます「これまでの救済の歴史を忘れたのか、主は私たちを救い続けて来られたではないか」と(63:7)。主は私たちに語られた「あなたは私の民、偽りのない子らである」(63:8)。そして主は私たちの救い主となられた。「主は私たちの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって私たちを救い、愛と憐れみをもって私たちを贖い、昔から常に、私たちを負い、私たちを担ってくださった」(63:8-9)ではないか。エジプトから救い出された主の慈しみを思い起こせと預言者は語ります(63:12-14)。そして今、私たちを「バビロンから救い出してくださったではないか」。それなのになぜつぶやくのか。

 

2.天を裂いて降りたまえとの祈り

 

・預言者は語り続けます「主が今、あなた方を捨てられたように見えるのは、あなた方が主に背いたからだ」と。かつてモーセを用いてあなた方を救われた主は、あなた方の背信によって、今あなた方から目をそむかれた。だから今主はあなた方と共におられないと預言者は語ります。「彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた」(63:10)。しかし、民を諫める預言者自身も与えられた不条理に悶えています。神の沈黙は罪に対する裁きだと理解していても、このままでは民の心が死に絶える。預言者は民を諫めると同時に主に嘆願の叫びをします「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか、あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは、抑えられていて、私に示されません」(63:15)。預言者自身が、「何故あなたは沈黙を続けられるのか」叫んでいるのです。

・預言者は訴え続けます「あなたは私たちの父です。アブラハムが私たちを見知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です。私たちの贖い主、これは永遠の昔からあなたの御名です」(63:16)。それなのに、「なにゆえ主よ、あなたは私たちを、あなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために」(63:17)。「民はあなたの力とあなたの憐れみに疑問を感じています。どうかあなたの力と憐れみを彼らに示してください」と預言者は叫びます。

・神の沈黙に対する民の呻きは預言者の呻きでもあります。預言者は祈ります「あなたの聖なる民が、継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、私たちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」(63:18-19)。「私たちをバビロンから連れ出し、エルサレムに導かれたのはあなたではないですか。最後まで面倒を見てください。今こそ天を裂いて降って来て、この地上の出来事に介入して下さい。あなたが私たちと共におられることのしるしを見せて下さい」とイザヤは祈り続けます。

・63章の祈りは64章にも連続しています。預言者は民の罪の故に、神が沈黙しておられることを知っています。だから祈ります「私たちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった。私たちは皆、枯れ葉のようになり、私たちの悪は風のように私たちを運び去った。あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの悪のゆえに、力を奪われた」(64:5-6)。しかし、それにもかかわらず預言者は救いを求め続けます。「しかし、主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土、あなたは陶工、私たちは皆、あなたの御手の業。どうか主が、激しく怒られることなく、いつまでも悪に心を留められることなく、あなたの民である私たちすべてに目を留めてくださるように」(64:7-8)。

・私たちは罪を犯した。あなたから糾弾されても仕方がない。それでも「主よ、私たちを救ってください。あなたが私たちを造られたではありませんか」と預言者は激しく求め続けます。「あなたの聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し、私たちの輝き、私たちの聖所、先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ、私たちの慕うものは廃虚となった。それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え、黙して、私たちを苦しめられるのですか」(64:9-11)。

 

3.激しい祈りに応えられる主

 

・預言者の激しい訴えに応えて啓示された言葉が、今日の招詞イザヤ65:17-18です。次のような言葉です「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。私は創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」。主は荒廃したエルサレムに代り、新しいエルサレムを創造されるとの幻をイザヤは示されました。「苦難の時は過ぎ去り、救いの時が来る」とイザヤは歌い始めます。預言者はどのような絶望の中にあっても希望を持ち続け、その希望を幻として民に提示します。それが預言者の役割です。

・預言者は主の言葉を語ります「私はエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者もなお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は呪われた罪びととされる」(65:19-20)。神が共におられる故に、エルサレムは再び繁栄の都となる。そこには泣き声や叫び声は絶え、幼くして死ぬ子どもも、命の日を満たさない老人もいなくなる。イザヤの時代、戦乱や飢餓により、乳幼児死亡率は高く、天寿を全うせず死ぬ者も多かった。その中での希望の言葉です。

・聖書が私たちに告げることは、「いかなる場合でも希望を持ち続けよ。主はそれをかなえてくださる」という約束です。その約束を信じ続けた人がヴィクトール・フランクルです。彼は1905年にウィーンで生まれた精神科医でしたが、ユダヤ人であったため、第二次大戦中、強制収容所に送られます。彼の妻や子、両親は収容所の中で殺されています。フランクルは、持ち物を全部取り上げられ、素っ裸にされた時、心の中でこうつぶやきました「あなたたちは私から妻を奪い、子どもたちを奪うことができるかもしれない。私から服を取り上げ、体の自由を奪うこともできるだろう。しかし、私の身の上に降りかかってくることに対して、私がどう反応するかを決める自由は、私から取り除くことはできない」。

・フランクルは収容所で絶望して自殺を決意した二人の囚人に語りかけました「あなたを必要とする何かがどこかにあり、あなたを必要としている誰かがどこかにいるはずです。そしてその何かや誰かは、あなたに発見されるのを待っているのです」(V.E.フランクル「生きる意味を求めて」)。フランクルは、非人間的な扱いを受ける収容所の中で、なお人間としての誇りを失わず、人々に言葉をかけ続けました。そして、人々が次々と死んでいく中でも、彼は生き延びました。収容所で生き残ったのは体が壮健な人ではなく、希望を持ち続けた人たちでした。

・この世は不条理に満ちています。国際基督教大学の魯恩碩(ロ・ウンソウ)は、キリスト教概論・講義録の冒頭に記します「学生の多くは、この世界に満ちている不条理な事象や理不尽な問題を見て、自分は『キリスト教のいう善良で全能な神を信じることができない』と語ります・・・しかし聖書を読んでみると、多くの場合、信仰は神に対する怒りから始まります。創世記18章のアブラハムはいつまでも約束の子を与えない神に怒っています。エレミヤ書20章で預言者はいつまでも預言の成就を行わない主に憤ります。詩篇73編の詩人は神に逆らう者が安穏で財を成していることに憤ります・・・彼らは神を賛美する前に、神に「何故」と問いました。この何故から、この怒りから、信仰は始まるのです」(「この理不尽な世界で何故と問う」p2-3)。

・預言者イザヤもまた、神の沈黙に対して激しい憤りの言葉を吐きました。「わが神、わが神、どうして」、この求めがあるからこそ、神は応答されるのです。神に対する激しい憤りの言葉は往々にして旧約聖書の中に示され、新約聖書にはありません。だから旧約なしには新約も理解できない。私たちは旧約聖書を読み続ける必要があるのです。最後にカール・バルトの言葉を紹介して終わります。1968年12月に彼は死にましたが、その直前、チェコの社会主義改革がソビエトの戦車及び五カ国連合軍の戦車によって踏みにじられました。プラハの春の崩壊です。今回のロシアのウクライナ侵攻と同じです。その年の十二月、バルトは友人トゥルンナイゼンと電話で話しました。トゥルンナイゼン「時代は暗いね」と言い、それに対してバルトも「実に暗い」というお話をこもごも話し合いました。その晩、バルトは亡くなりました。バルトの最後の言葉が残されています。「意気消沈だけはしないでおこう。何故なら、支配していたもう方がおられるのだから。モスクワやワシントン、あるいは北京においてだけではない。支配していたもう方がおられる。神が支配の座についておられる。だから、私は恐れない。最も暗い瞬間にも信頼を持ち続けようではないか。希望を捨てないようにしよう。すべての人に対する、全世界に対する希望を。神は私たちを見捨てたまいはしない」(エバハルト・ブッシュ「バルト神学入門」新教出版社)。「神が支配の座についておられるから、私は恐れない」、これがイザヤ書の信仰であり、私たちの信仰でもあります。

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