江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年6月12日説教(コロサイ1:21-29、十字架の贖いを信じる)

投稿日:2022年6月11日 更新日:

 

1.コロサイ教会への手紙

 

・今週から3回にわたって「コロサイの信徒への手紙」を読みます。コロサイはアジア州の州都エフェソから東に170㎞離れたところにあり、そこでは高原が広がり、牧羊がなされ、町は羊毛の採取、染色、取引等で栄えていたと記録されています。コロサイ教会はパウロの弟子エパフロスが設立しましたが、パウロ自身はコロサイ教会に行ったことはないようです。コロサイ教会の創立者エパフロスは今パウロと共にエフェソにいますが(4:12)、異端の教えにより教会が混乱しているため、彼は獄中にいるパウロを訪ねて教会の問題について相談し、パウロはエパフラスの要請を受けて手紙を書いたとされています。

・そのきっかけになったのは、グノーシスと呼ばれる新興宗教運動がコロサイ教会にも押し寄せ、教会の教えが曲がり始めていたからです。その新興宗教の内容が2章に記されています「あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません・・・偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません」(2:16-18)。「偽りの謙遜と天使礼拝」、救われるためには「断食や禁欲的な戒律を守らなければいけない。また天使(諸霊)を崇めることも大事だ」と唱える人々が出始めていたようです。

・人間は無条件の救いを信じることが出来ず、救われるためには人間側の努力も必要だと考えがちです。現代においても、禁欲しなければ救われないとする人々は、「禁酒禁煙」を救いの要件として求めます。しかしこれは日本にキリスト教が伝わった明治時代のアメリカの慣習であり、お酒やたばこは救いとは何の関係も持ちません。救いを自分の力で得ようとする時に、人は人間的な努力をそこに持ち込み、福音が曲がって行きます。だからパウロは語ります「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。私たちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(1:13-14)。「キリストの十字架による贖い、この一点だけを見つめよ」とパウロは語ります。

・救いは恵みであり、私たちはこの恵みを神からいただいた、その感謝から、応答としての「行為」が生まれます。「行為が人を救うのではなく、救われたから行為する」のです。だからパウロは語ります「霊によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように」(1:9-12)。

・その恵みと感謝が信仰・希望・愛を生んでいきます(1:3-5「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」)。信仰によって希望が与えられ、その希望が私たちを愛の行為に導きます。パウロはコロサイの人々に最初の信仰、無条件で神から与えられる恵みの信仰に戻ってほしいと願っています。そのためにパウロは「今や私は、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって満たしています」(1:24)と語ります。

 

2.十字架の贖いの教えから離れ始めた人々

 

・神は御子を通して、恵みを示されたとパウロは語ります。神は見えない故に、私たちは御子キリストを通して、神を知ります。パウロは語ります「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(1:15-16)。

・神はその御子を十字架につけ、その血により私たちを贖われ、その贖いによって死ぬべき私たちが生きるものとされたとパウロは語ります。それが「十字架と復活の信仰」です。「御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(1:18-20)。

・この十字架の贖いによって、闇の中にいた私たちが光の中を歩む事を赦され、私たちは教会に集められ、その教会が神の国を先取りするものとして示されました。だから、「この福音から離れてはいけない」とパウロは語ります。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(1:21-23)。

・私たちは、かつては闇の中にいました。心の闇が他者に向かう時、妬みや憎しみや怒りとなり、自己に向かう時、傲慢や絶望になります。その罪の縄目から、キリストは私たちを買戻して下さった。それを知って私たちはバプテスマを受けました。水に入れられて死に、水から引き出されて、新しく生きるようになりました。このバプテスマから、私たちの聖化が始まります。この聖化とは、自分が清められて完成に向かうことではありません。聖化の努力が自分に向かう時、福音が曲がって行きます。断食をする、苦行をする、禁欲する、そこから生まれるのは自己満足、自己讃美であり、守らない人を攻撃する事を通して他者の救いを閉じます。パウロは語ります「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(2:8)。

・現代人の行動規範は損得原則です。損得原則の中では他者関係は希薄化し、それが個人の生きる力を削いでいます。日本においては自殺未遂者が年間53万人に上りますが (日本財団推計)、内訳では女性が多く、年代別では20代、30代が多く、原因は「離婚」「事業不振」「失恋」「失業」「家庭内暴力」「家族の不和」「子育ての悩み」等とされています。心理学では「自己肯定感」が高いと、苦難に前向きに対処できますが、自己肯定感が持てない時に、生きる力が萎えると教えます。人はだれかを愛し、誰かを信じ、誰かの役に立つことを通して、生きる者になります。その愛や真実を人から奪い去り、生きる力を失わせる悪魔的霊力がこの世に働いています。

・教会はこの悪を克服する使信を十字架に見ます。神は私たちにキリストを送られ、人間の罪がキリストを十字架につけるままに任されました。私たちはキリストの十字架死を通して、「逆らう者は殺す」という人間の「罪の原点」を見ました。しかし同時に、神はイエスを死から起こすことを通して、悪(罪)を放置することを許されない意思を示されました。ここに福音の力があります。だから「キリストの十字架を見上げることによって、この世の悪的霊力から解放され、信仰・希望・愛の世界に生きる」とパウロは語っています。助けは人間からではなく、神から来る。だから私たちは人間的努力が報われない時にも、神に明日を委ねるのです。

 

3.贖われた者から贖う者へ

 

・今日の招詞にヨブ記19:25-26を選びました。次のような言葉です「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう」。私たちは人生において多くの苦難に出会います。その苦難はある時には人間の限界を超えているように思われ、絶望した人たちは自殺していきます。しかし、苦難には意味があり、苦難を通して神が語られていることを知る者は、苦難が時の経過と共に祝福に変えられていくことを知ります。苦難の問題を正面から取り上げたものがヨブ記です。主人公のヨブは財産に恵まれ、家族に恵まれ、社会的にも尊敬され、自分を正しい人間だと思っていました。しかし、災いが起こり、財産は奪われ、子供たちが取り去られ、彼自身も重い病気に冒された時、神を呪い始めます「あなたは何故こんなにも私を苦しめるのか」。長い苦闘の中でヨブは、「神は神であり、私は人間に過ぎない」ことを知り、悔改めます。その悔改めの言葉が今日の招詞です。

・「私は知る、私を贖う方は生きておられる」。人がこのことを見出した時、外面にどのような苦難があろうとも平安が与えられます。瞬きの詩人と呼ばれた水野源三さんは次のような言葉を残しています「三十三年前に脳性まひになった時には神様を恨みました。それがキリストの愛に触れるためだと知り、感謝と喜びに変りました」。脳性まひにならなければキリストに出会わなかった。だから脳性まひになって良かったと言っているのです。彼は9歳の時に赤痢に感染し、高熱が続いたために脳性まひになり、手足の自由と言葉を失いました。14歳の時、牧師の訪問を受けて聖書を読み始め、信仰が与えられます。しかし、相変わらず、動くことも言葉を発することも出来ません。主治医の指導で、目の瞬きを通して意思を伝達する手段を与えられ、詩を書き始めます。病状は変化しません。寝たきりの状況は変らないのに、彼は生かされていることを喜び、その喜びを、人々に伝えました。彼の詩により、多くの苦難にある者が慰められました。彼は贖われることを通して、贖う者となったのです。

・人は平和の時には神を求めません、神がいなくとも生きていけるからです。そしてこの世の出来事に一喜一憂して人生を送ります。多くの人の人生はこのようなものです。その人に苦難が与えられます。苦難を与えられた人は、最初はその苦しみを自分で解決しようとし、次には他の人の助力を求めます。そしてどうしようもなくなった時初めて、神を求めます。そして神は求める者を贖って下さいます。

・苦難なしには滅びがあるだけであり、平穏な人生は必ずしも祝福ではありません。苦難こそが神が与えられる祝福です。何故なら、人は苦難を通して神を求め、求めるゆえに神に出会うからです。「私を贖う者は生きておられる、生きて私と関わりを持とうとされている」。これが福音であり、私たちの信仰です。地上では救いはまだ完成していません。多くの人が苦しみの中にあり、キリストはいまだに十字架を負われたままです。だから私たちもキリストの十字架を共に担わせていただく。これがキリスト者の聖化です。キリスト者はイエスの贖いを通して、今度は自らが贖う者となっていくのです。

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