江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年10月9日説教(イザヤ65:17-25、新しい天と新しい地の幻)

投稿日:2022年10月8日 更新日:

 

1.求められることを待ち望む神

 

・イザヤ書を読み続けてきました。今回が最終回です。55章以下の第三イザヤ書の背景にあるのは、バビロンから帰国した人々が体験した苦難です。喜び勇んで故郷に帰国してみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。50年間も不在であったために当然ですが、彼らは衝撃を受けました。彼らは「主がエルサレムをエデンの園にして下さる」と励まされて帰国しましたが、現実は予想を上回る厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンに留まった方が良かったと民は言い始めているのです。

・それに対して預言者は、「主はあなたたちが呼び求めるのを待っておられる」と反論します。「私に尋ねようとしない者にも、私は、尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも、見いだされる者となった。私の名を呼ばない民にも、私はここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」(65:1-2)。「父なる神は常に私たちと共におられる。私たちに神が見えないのは私たちが神を求めないからだ」と預言者は語ります。求めなければ神には出会えないのです。

・預言者は「救いがないのはあなたたちの罪の故だ。あなたたちは主を無視して異教の神々に礼拝を捧げ、墓場で死者の霊を呼び出し、禁止された豚肉さえ食べているではないか」と批判します。バビロニアでは豚肉は広く食され、祖先礼拝も当たり前でした。50年の捕囚の間に民はバビロニアの風習に染まり、信仰が異教化していたのです(65:3-5)。「悔い改めて主のもとに帰れ、そうすれば主は豊かに報いて下さる」と預言者は呼びかけます(65:8-10)。

・そして預言者は語ります「祝福は全ての人に与えられるのではなく、主の教えを守らない者には祝福がない」。11節以降は求める者への救済と、悔い改めない者への審判が交互に繰り返される二重告知になっています。「お前たち、主を捨て、私の聖なる山を忘れ、幸運の神(ガド)に食卓を調え、運命の神(ニメ)に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ。私はお前たちを剣に渡す・・・私の僕らは糧を得るが、お前たちは飢える。見よ、私の僕らは飲むことができるが、お前たちは渇く。見よ、私の僕らは喜び祝うが、お前たちは恥を受ける」(65:11-13)。神に頼るのではなく、迷信や占いで将来を知ろうという行為は主を信じる者の行為ではありません。信仰とは、「求める者は与えられる」(マタイ7:8)ことを信じることです。しかし「求めない者には救いは与えられない」、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」のです。

 

2.新しい天と新しい地の幻

 

・イザヤは「主の名を呼ぶ者に主は必ず応えられる」と語りました。主から与えられた応答こそ、新しい天地創造の幻です。荒廃したエルサレムに代り、新しいエルサレムが創造される幻をイザヤは見ます。苦難は過ぎ去り、救いの時が来るとイザヤは歌い始めます。「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。私は創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(65:17-18)。

・神が共におられる故に、エルサレムは再び繁栄の都となる。そこには泣き声や叫び声は絶え、幼くして死ぬ子どもも、命の日を満たさない老人もいなくなるとイザヤは語ります。「私はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(65:19-20)。これまでのイスラエルでは家を建てても敵に強奪され、畑を耕してもその実りは敵が収奪していました。しかし、これからはそのようなことはない。生まれた子どもが幼いうちに死ぬこともさらわれることもないと宣告されます。「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを他国人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる」(65:21-23)。「今の困難は必ず神が良くしてくださる、希望を持って待て」と預言者は語ります。イエスが語られた「神の国は近づいた」(マルコ1:15)という言葉も、「神が行為して下さるから、神の国の到来を待て」との希望の預言です。

 

3.幻を持つことの力

 

・最後にイザヤは究極の幻、神の国の幻を見ます。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(65:25)。狼は小羊を追って捕食し、獅子は牛を殺して食べる、弱肉強食のこの世界が、平和と安全の世界に変えられるとイザヤは預言します。そのイザヤの預言を継承したものが、ヨハネ黙示録です。今日の招詞にヨハネ黙示録21:3-4を選びました。次のような言葉です「その時、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。ヨハネはイザヤの預言を自分たちの時代の中で読み直して歌います。

・これは幻であって現実ではありません。ヨハネ黙示録の時代は、ローマ皇帝からの迫害の中で多くの人々が殉教していった時代です(黙示録6:10-11他)しかし先見者が幻を見ることによって、現実社会も動いていきます。キリスト者を迫害したローマが、やがてキリスト教を国教としてキリストを拝みます。幻は力を持つのです。

・キング牧師の「私には夢がある」という演説もその典型です。1963年に彼は語りました「私は同胞に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。将来、この国が立ち上がり、『すべての人間は平等である』というこの国の信条を真実にする日が来るという夢が。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。・・・将来いつか、幼い黒人の子どもたちが幼い白人の子どもたちと手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る夢が」。この幻こそ、信仰がもたらすものです。神が行為される故に私たちも行為していく時、幻が現実化します。キングが夢見たように50年後のアメリカでは、黒人と白人の敵意の壁が低くされ、黒人であるバラク・オバマが大統領に選ばれました。幻、あるいは黙示とはどのような状況の中にあっても希望を失わない、神に呼びかけに応える行為なのです。そして神はそれを聞き届けると約束されます「彼らが呼びかけるより先に、私は答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(65:24)。

・創世記は、「地は闇に覆われていたが、神が光あれと言われると光があった」という言葉で始まります(創世記1:1-3)。私たちはともすれば現実の中で可能性を見つけようとし、見つからない時、もう駄目だと思います。しかし「どのような闇に覆われていても、神が「光あれ」と言われるとそこに光が生じた」と創世記は証しします。その神に望みを託して生きるのが私たち信仰者です。使徒言行録は聖霊降臨の日にペテロの行った説教を記しています「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る・・・主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒2:17-21)。「幻(vision)を見る力が使命(mission)を与え、信仰者を生かす希望(hope)となる」、この神から与えられる希望がキリスト者の生き方を愛に導きます。

・神殿完成後のイスラエルはエルサレム神殿を中心とする祭儀国家になり、体制派の祭司の特権化が進み、この時期から預言者たちは姿を消していきます。しかし預言者の伝統は消えず、400年間の沈黙の後に再び預言者として現れたのがバプテスマのヨハネであり、そのヨハネの弟子として宣教を始められたのがナザレのイエスです。そしてイエスはイザヤの預言を生きる者であることを宣言されます。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(イザヤ61:1-2)・・・イエスは『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」(ルカ4:16-21)。

・教会はイザヤの預言の中に、神の子イエスの誕生の預言を見ました。マタイは記します「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった・・・このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:18-23)。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」はイザヤ7章14節の預言です。インマヌエル、「神共にいます」という方がイザヤの預言通りに私たちに与えられたと初代教会は喜んだのです。

・神の子としてお生まれになったイエスは、形骸化した神殿体制の崩壊を預言され、祭司たちの反感を買われ、処刑されました。弟子たちはそのイエスの十字架の中に、身を捨てて民のために死んで行ったイザヤの面影を見ました。ですからイエスの弟子マタイは福音書の中に記します「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」(マタイ8:7)。「イエスは私たちの患いを負い、私たちの病を担い、私たちのために死んで下さった」。この感謝がイエスの弟子を生んでいき、私たちはイエスの弟子として招かれ、いまここにいます。イエスはイザヤの預言の成就者として来られた、イザヤの見た幻がイエスによって成就されたとマタイは語り、私たちは「アーメン」として賛同するのです。

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