1.お互いを裁きあうローマ教会の人々
・ローマ書を読み続けております。今日はローマ14章ですが、14章のテーマは「他者を裁く罪」に対する警告です。ローマ教会を構成していたユダヤ人信徒は律法の規定により、豚肉や血抜きしない肉、また異教の神殿に捧げられた犠牲の肉等は汚れたものとして食べることをためらっていました。他方、ユダヤ人と共にローマ教会を形成していた異邦人(ギリシア、ローマの人びと)はそのような慣習を持たず、律法の食物規定に反発していました。
・最初のキリスト教会はエルサレムに立てられ、構成員はユダヤ人でしたので、この食物規定は特に大きな問題にはなりませんでした。ところが、教会がギリシャ・ローマ世界に広がるにつれて、神殿に捧げられた肉や血抜きしない肉を食べてもよいのかどうかが、教会を二分する問題になっていきます。何故ならば、ローマ帝国の諸都市で、市場に出回っていた肉の多くは異教の神殿に捧げられた動物の肉であり、当然血抜きもしてない。その肉を食べることは律法に反するではないかとの疑問が生じたからです。エルサレム使徒会議でもこの問題が議論され、「偶像に供えて汚れた肉」や「絞め殺した動物の肉(血抜きしていない肉)は食べてはいけない」と決められていました(使徒15:28-29)。
・同じ問題を、私たち日本の教会も抱えています。日本は人口の多くが非キリスト教徒で、かつ神社や仏閣が方々にある、多神教の世界です。その中で、聖書の信仰を守ろうとする時、いろいろな問題が生じてきます。例えば親から継承した位牌や仏壇をどうすればよいのか、葬儀における焼香や合掌という儀式にどう対応するのか、日曜日に運動会や授業参観があれば礼拝を休んでもよいのか等々、私たちがこの日本でキリスト者として生活するために、社会とどのように折り合いをつけるかが課題となります。そして往々にして、このような瑣末な出来事が教会の分裂を招きます。パウロがローマの教会に手紙を送ったのも、教会の中にそれぞれの習慣をめぐっての争いがあり、無益な争いを止めるように勧告するためです。
・パウロは書きます「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(14:1)。パウロは宗教的な配慮から肉食を避け、野菜だけを食べる人たちを「信仰の弱い人」と呼んでいます。「偶像に捧げられた肉を食べることは罪だ」と狭く考えていたユダヤ人信徒です(14:2)。他方、多数派は何を食べても良いとする異邦人キリスト者で、彼らはギリシャ・ローマの流れを汲む自由主義者でした。異邦人信徒たちは、禁欲的な人々を「信仰の弱い者」として軽蔑し、他方ユダヤ人信徒は節度を守らない異邦人を「罪人」として裁いていたようです。パウロは語ります「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」(14:3a)、何故ならば「神はこのような人をも受け入れられたからです」(14:3b)。
・パウロの考え方は明白です。彼は言います「それ自体で汚れたものは何もないと、私は主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」(14:14)。イエスは言われました「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが人を汚す」(マルコ7:15)。だからパウロは何を食べても良いと考える人たちを律法の制約から解放されているという意味で「信仰の強い人」と呼び、食べてはいけないと思い込んでいるユダヤ人たちを律法の制約の中にあるゆえに、「信仰の弱い人」と言ったのでしょう。
・では「何を食べても良いのだから自由主義者が正しいのか」、パウロは「違う」と言います。たとえ何を食べても良いとしても、肉を食べることでつまずく人がいるのに肉を食べることは間違っている。彼は言います「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」(14:15a)。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14:15b)。正しい行いであっても、その行いが人を傷つける時、それは正しいものではなくなります。パウロは続けます「 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。全ては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」(14:20)。
2.違いを認める場が教会だ
・この問題は現代日本の教会の中にもある禁酒禁煙の風習に関係します。日本の教会はアメリカの宣教師によって立てられたものが多いため、アメリカに倣って禁酒禁煙が当たり前で、お酒を飲んだり煙草をすったりするのは罪であると考える人が多いようです。他方、欧州の教会においては、牧師もビールやワインを楽しみ、喫煙する人も多い。お酒を飲むとか、煙草をすうとかの問題は各人が嗜好の問題ですが、それがあたかも信仰上の譲れない出来事のようになると、そこに争いが起きます。ローマ教会で起きていた出来事は私たちの周りにも起きているのです。偶像に捧げられた肉を食べることは、信仰の本質に関わる問題ではありません。しかし、食べることによって、つまずく人がいるのに食べることは、信仰の本質に関わる問題です。他者の救いを閉ざす行為だからです。
・日本のキリシタン禁制時代に用いられた踏み絵を踏むかどうかも、同じ問題を抱えています。踏み絵そのものは板に聖母子を描いたメダルを組み込んだもので、それ自体たんなる「物質」であり、踏んでもかまいません。しかし、踏み絵を踏んだ多くの人々の信仰は崩れました。それは人の前で、最も大事と思うものを踏みつけにする、自己の信仰告白を偽りと表明する行為だったからです。私たちの信仰は、私たちの生活を規定します。キリスト者は全ての事に自由ですが、その自由はキリストの十字架の犠牲を通して与えられました。そのキリストは他者のために死なれた。その他者への愛が私たちの自由を制限します。
3.教会の一致のために
・今日の招詞に第一コリント10:23-24を選びました。次のような言葉です。「全てのことが許されている。しかし、全てのことが益になるわけではない。全てのことが許されている。しかし、全てのことが私たちを造り上げるわけではない」。偶像に捧げられた肉を食べるべきかどうかをめぐる議論はコリント教会でも起きていました。ローマ14章をより良く理解するために第一コリント8章を合わせて読んでいきます。コリントには多くのギリシャやローマの神々を祭った神殿があり、人々は結婚式や誕生日のお祝い等を神殿で行い、付属の施設で酒食が振舞われるのが日常でした。上流階級の人々は、そのような食事に招待されることがしばしばありました。教会の中の裕福な人たちは、自由を主張しました。彼らは言います「世の中に偶像の神などなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」、偶像などないのだから、「神殿にささげられた肉を食べてもなんら汚れない」(第一コリント8:4)と彼らは主張していました。パウロもそう思っています。しかし同時に、「食べることを罪だと考える人がいることをどう思うか」と問いかけます。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」(第一コリント8:7)。ここにおいて、問題は、「偶像に捧げられた肉を食べることが良いのかどうか」という教理上の問題から、「それを罪だと思う人にどう配慮するのか」という、牧会上の問題になっていきます。
・パウロは言います「あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。あなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」(第一コリント8:11-12)。「食べることが正しいのかではなく、食べることによってつまずく人がいてもなお食べるのか」が議論されています。答えは明らかです。パウロは言います「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」(第一コリント8:13)。
・偶像に捧げられた肉を食べることは、信仰の本質に関わる問題ではありません。しかし、食べることによって、つまずく人がいるのに食べることは、信仰の本質に関わる問題です。他者の救いを閉ざす行為だからです。キリスト者は全ての事に自由です。しかし、その自由はキリストの十字架の犠牲を通して与えられました。そのキリストは他者のために死なれた。ですから、他者への愛が自由を制限します。自分の正しさだけを主張していく時、教会は壊れるのです。
・病気の人が教会に来ても病気が良くなるわけではなく、貧乏な人が教会に来ても金持ちになるわけでもありません。病気のままに、貧乏のままに祝福を受けるのが教会です。外部状況は変わらなくとも内部から新しい人間に変えられていくのが、教会と言う場です。教会は神と出会う場、そこに教会員同士の争いがあれば、そこは神の国でなくなります。少なくとも信仰の本質に関わらないところで争って、教会を壊すことはやめたい。先祖の位牌はどうすればよいのか、十分の一献金はしなければいけないのか、酒を飲んでも良いのか。子供の運動会のために礼拝を休んでよいのか。それぞれの事柄は、自分の信仰によって決断すればよい出来事であり、教会で論争し、対立する出来事ではない。違いがあってもよい。お酒を飲む人も飲まない人もいていい。信仰の本質に関わらない問題では争わない。本質で一致し、細部は個々の人の決断に委ねる。そこに神の国が生まれていきます。そのような教会を、この地に、共に建設したいと祈ります。