1.試練と誘惑を区別しなさい
・今日からヤコブ書を読み始めます。この書は「主の兄弟ヤコブ」が書いたと言われます。彼はイエスの生前、イエスを家族ゆえに、「キリスト=救い主」であると信じることはできませんでした。しかし、復活のイエスに出会って変えられ(第一コリント15:7)、やがて弟子集団に加わり、エルサレム教会の指導者になって行きます。教会内の保守派で律法を尊重したことより「義人ヤコブ」と呼ばれました。宛先は故国を離れてローマ帝国各地に暮らす離散のユダヤ人キリスト教徒たちです(1:1「離散している12部族の人たちへ」)。内容的には手紙ではなく、教会生活の実践についての訓告集です。離散ユダヤ人たちは異郷の地で厳しい生活を送り、様々な試練が彼らを襲っていました。
・ヤコブは信徒たちへ「試練と誘惑を区別する」ように語ります。「試練」は神から与えられる鍛錬であり、忍耐を通して信仰を成長させていく恵みです。ヤコブは語ります「私の兄弟たち、いろいろな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(1:2-4)。他方、「誘惑」は、人間の心の中から、罪の思いが起こり、それは人を破壊します。ヤコブは語ります「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(1:13-15)。試練は「ペイラスモス」という名詞形で、誘惑は「ペイラゾー」という動詞形で表現されていますが、もともとは同じ言葉です。一つの出来事が受け止め方によって、試練にも誘惑にもなるとヤコブは語ります。
・彼は誘惑の中で最大のものは地上の富だと考えています。イエスが語られたように「富のあるところにあなた方の心もある」(ルカ12:24)、人は富を持つゆえに、誘惑に陥り、罪を犯すと彼は語ります。「神が祝福されているのは貧しい者であり、富んでいる者は祝福の外にあることを知りなさい」(1:9-11)。これはイエスが教えられたことでもあります。イエスは富について語られました「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる・・・しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」(ルカ6:20-24)。
2.御言葉を行う人になりなさい
・ヤコブはまた「聞くに早く、話すに遅くありなさい」と教えます(1:19-20)。教会内で口を制することの出来ない人々のために、混乱が生じていたのでしょう。今日の教会でも、牧師や教会員の不注意な一言でつまずき、教会の礼拝に参加出来なくなる人々がいます。つまずきは隣人を天国の門から締め出し、救いを奪う出来事です。だから私たちは「聞くに早く」あることが求められます。相手の立場に立って話を聞くことです。そして「話すに遅く」、自分の言い分や主張を語ることは後にせよということです。「聞くに早く、話すに遅く」、人間関係を正しくする基本です。ヤコブは、「あなた方はキリストの言葉を聞くために教会に来たのではないか。それなのになぜ他人からキリストの言葉を奪うのか」と語ります。
・ヤコブは続けます「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(1:21-22)。「御言葉を行う人になりなさい」、信仰は人を行為に駆り立てます。「行為を伴わない信仰は問題を持つ」とヤコブは語ります。礼拝は神に自己を捧げる行為です。神を愛するとは隣人を愛すことであり、困っている人に手を差し出していくことです。信仰が生活化された時、それは自分に対しては聖化へ、他者に対しては救済へと向かっていきます。「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」(1:25)。具体的には、「孤児や、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(1:27)。律法が人を救うのではありません。しかし、信仰に基づく愛は律法を完成させます。パウロが語るように「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うする」(ローマ13:10)ものなのです。
・「神の言葉があなた方を支配するようになった時、あなた方は御言葉を聴くだけでなく、実行する者になる」とヤコブは語ります。御言葉は人を愛の労苦に押し出します。私たちが礼拝を捧げても、信仰がその人を愛の労苦に導かないならば、その信仰もまた虚しい。信仰は成熟し、成長することが求められています。「言葉で傷つけられたからもう教会に来ない」、「説教がつまらないから礼拝に出ない」、そのような信仰からもう一段の成長が必要です。何故ならば、私たちは自分の意思で礼拝に来たのではなく、集められているからです。集められた者が世に派遣され、その先々で主を証する生活をしていくために、私たちは礼拝に参加します。信仰が愛として働く時、この世の生活や仕事が神の栄光を現すものになります。その力をいただくために、私たちは日曜日に集められているのです。