1.舌は火であり、人を殺す力を持つ
・ヤコブ書を読んでおります。ヤコブ書3章は「人間の舌」が持つ恐ろしさ、罪を語った箇所です。ヤコブは語ります「舌は火です。舌は不義の世界です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(3:6)。人は万物を支配していますが、舌を制御することはできません。ヤコブは語ります「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(3:7-8)。
・舌は燃えさかる火のように相手を焼き尽くしてしまいます。教会においても舌の害は大きい。何故ならば、人は口で神を讃美しながら、同じ口で神の子である兄弟姉妹を呪う存在であり、それ故に教会の中でも争いが絶えません。ヤコブは語ります「私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(3:9-10)。教会も人の集団ですからそこに様々な派閥が生まれ、それぞれの間に争いが起こります。その中で興奮のあまり相手を罵る人も出てきます。信仰生活がある時は人間的になり、別な時には神に向いてという生活をしているから、二枚舌になるのだとヤコブは語り、「洗礼を受けて変えられたにもかかわらず、そうであるのは、信仰に問題があるからではないか」と問いかけます。
・人間の本性は罪であり、その罪が舌を通じて人を害します。舌が邪悪であるということは、心が邪悪であることを意味します。ヤコブは語ります「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。私の兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません」(3:11-12)。自然界にはありえないことが人間には起こっている。「舌で父である主を賛美し、同じ舌で人間を呪う」という、あってはならないことが生じている。なぜそのようなことが起こるのか、イエスが言われたように、「人の口からは、心にあふれていることが出て来る」(マタイ12:34)、舌が勝手に語るのではなく、心からあふれることが言葉になる。心を制御できないから舌を制御できない、問題は心なのだとヤコブは語るのです。
・私たちも舌の怖さを知っています。学校でも職場でも家庭でも、私たちは人の言葉に傷つけられた経験があるから、今度は傷つけられまいと防御して暮らしています。人の口から出るもの、言葉が人を傷つけるのは、言葉が心にあるものを反映しているからです。私たちが誰かを妬ましく思う時、その思いは言葉となって相手を攻撃します。私たちが誰かを嫌いだと思う時、その思いが言葉となって相手を傷つけます。ヤコブはそれを次のように表現します「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう・・・移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(3:5-7)。近年のいじめにあるように、「ウザイ」、「キモイ」「シネ」という言葉が中学生や高校生を自殺に追いつめています。あってはならないことが生じています。
2.舌を制御するためには神の知恵が必要だ
・舌を制御するためには心を制御しなければいけない。そのためにはまず「上からくる神の知恵を求めよ」とヤコブは語ります。「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです」(3:13-15)。智恵には「上からくる神の知恵」(英語wisdom)と、「下からくる世の知恵」(英語clever)があるとヤコブは区別します。私たちが求めるべきは神の知恵wisdomであり、世の知恵cleverではない。世の知恵とは哲学や倫理学に象徴されるような知恵であり、それは人間の理性に訴えますが、人を救う力はありません。世の知恵は「自分の力や賢さで絞り出す智恵」であり、それは「人に妬みや利己心や傲慢や嘘」をもたらすとヤコブは語ります。
・ヤコブは次の4章でそれを詳細に述べます「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(4:1-3)。下からくる智恵、世の知恵は「争い」を引き起こします。
・それに対して「上からくる神の知恵」は「人を純真で温和で従順」にします(3:17)。神の知恵についてパウロは語ります「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが・・・召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(第一コリント1:21-25)。「神の知恵」とはキリストのことです。神はキリストを通して自己を啓示された。そのキリストは十字架上で、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(第一ペテロ2:23)。「ののしり返さず、人を脅されなかった」キリストに従うのであれば、「人を呪う言葉があなたの口から出るはずは無いではないか」とヤコブは語るのです。
・妬みや利己心は私たちの心に住む悪(原罪)から来ます。人間の制御できない悪が、制御できない舌を生み、それが人を傷つけています。その制御できない悪を制御できるのは、神の知恵であるキリストだけです。キリストに出会って変えられる、そのことだけが私たちを原罪から、そして舌の悪から自由にします。世の知恵は「人の理性」に訴えますが、神の知恵は「人の魂」を揺さぶります。現代でも、「神の知恵との出会い」は説教や聖書の朗読を通して起こります。魂が揺さぶられるような御言葉との出会い、人生を根底から変えてしまうような感動、これが神の知恵に出会った時の体験です。私たちはこの神の知恵に出会うために、聖書を読み、祈ります。しかし、一人では十分ではないから、共に集まって聖書を読み、共に祈ります。それが教会です。
3.本当に人を汚すものは何か
・今日の招詞にマルコ7:15を選びました。次のような言葉です「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。ファリサイ派の人たちは、イエスの弟子たちが手を洗わずに食事するのを見咎めました。彼らは「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのか」(7:5)とイエスを問い詰めます。当時のユダヤたちは念入りに手を洗ってからでないと食事をしませんでした。ユダヤの律法は不浄なものに触れることを禁じ、一定の食物については汚れていると規定します。ファリサイ人らは規定を厳格に守り、守らない人々を不信仰者、罪人と批判していました。従って食事の前に手を洗うことは、単なる衛生上の問題ではなく、宗教的な儀式であり、イエスと弟子たちはその宗教的な戒めを破ったとして非難されているのです。
・それに対してイエスが言われたのが、「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。人から出て来るものこそ人を汚す」(マルコ7:18-19)。当時のユダヤ人たちは、「外から体に入るものが人を汚す」と考えていました。しかし、イエスは「外から入ってくるものは人を汚さない」と言われます。「外から入るものは腹の中に入り、消化されて外に出される」からです。食物は口から入り、消化器官を通って、やがて排出されていきます。その間に消化がなされ、栄養分が体に吸収されます。食物は私たちの中を通過していくだけで、私たちを汚さない。
・しかし「人から出て来るものこそ、人を汚す」、つまり「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来る」(7:21a)とイエスは語られます。その悪い思いとは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意など」(7:21b-22)です。そして「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚す」(7:23)。人間の汚れ、罪は心に宿ります。汚れ、罪が心に宿るということは、問題は外側ではなく、内側にあるということです。私たちの汚れや罪は、外から来て体に入るのではなく、私たちの内側に、心の中に生れ、それが外に現れてくる。ヤコブが語りたかったこともそうです。
・イエスは「人の中から出て来るものが人を汚す」と言われました。内側の汚れは水でいくら洗っても、清くはならない。「これは汚れているから食べない」と努力しても、汚れを気にして、家に清めの水がめを置いても問題は解決しません。イエスの弟子たちは、過去の生き方を捨てました。私たちも変わる必要があります。人間関係を良くしようといくら努力しても、人間関係は改善しません。何故ならば、汚れは私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるからです。私たちの心が変えられること、復活のイエスとの出会いを通して新しく生まれる以外に救いはない。それが神の知恵です。
・人はどうすれば清められるのか。初代教会の礼拝の中心は聖餐式、イエスの肉を食べ、血を飲む行為でした。この行為がクリスチャンたちを新しい生き方に、「パンを共に分け合う」生活へと変えていきます。古代教父ユスティノスは語ります「日曜日と呼ばれる日には、町や村に住む者たちが一つの場所に集まる。そして使徒たちの回想録や預言者たちの文書の朗読が行われ・・・司式者が教えを説き、このような優れたことがらに倣うように勧告し促す。次に皆立ち上がり、共に祈りを唱える。祈りが終わるとパンとぶどう酒と水が運ばれる。司式者は祈りと感謝を捧げ、会衆はアーメンと言う言葉で唱和する。一人一人に感謝された食物が与えられ、これに預かる。欠席者の下には執事がそれを届ける。次に富裕で志のある人々は、各人が適切とみなす基準に従って定めたものを捧げる。このようにして集められたものは司式者の下に保管され、彼は孤児や寡婦、そして病気やその他の理由で困窮している人々、獄にいる人々、そして私たちの間で生活している人々のために配慮する。すなわち彼は窮乏の下にある全ての人々の面倒を見る役割を果たす」(ユスティノス「第一弁明」から)。初代教会は「パンを共に分け合う」ことを通して、人生の不条理を克服していった。他者に対する配慮、「パンを共に分け合う」生活が、人を世の知恵から解放し、神の知恵へと導きます。
・ドイツの神学者ボンヘッファーは語りました「我々がパンを一緒に食べている限り、我々は極めてわずかなものでも満ち足りる。誰かが自分のパンを自分のためだけに取っておこうとするとき、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の律法である」(「共に生きる生活」P62)。わずかなものでも一緒に食べるとおいしい。イエス時代の食卓は貧しいものでした。大麦のパンと塩とオリーブ油、飲み物としては水か薄めたぶどう酒、魚や肉を食するのは祭りの時だけでした。しかし家族が集まって食卓を囲み、感謝の祈りの後に食事をいただき、一日の出来事を話し合う、団欒の時でした。現代の私たちの食卓には肉や魚があふれていますが、家族で食卓を囲むことは少なくなりました。それぞれが忙しい生活の中で、勝手な時間に、カロリーを補給するだけの食事をする、そのような家庭が増えてきました。「共に食べる」、そうできない人のために出来ることをする、そのことを通して、神の知恵が私たちの生活を豊かにしていきます。