1.キリストの内に留まりなさい
・ヨハネの手紙を読み続けています。手紙の主題は「教会分裂」です。ヨハネの教会では異なる福音を信じる人々が教会を分裂させて、出て行きました。残された人々は混乱の中にあります。昨日まで一緒に礼拝していた人々が、今日はいなくなったのです。教会の一致が崩れる、教会内で争いが起こり、分裂していく出来事が現実に起こります。それはヨハネの教会で起こったし、私たちの教会でも起こり、近隣の教会でも今も起きている出来事です。このような事態に私たちはどう対処したらよいのか、今日はヨハネの手紙2章を読んでいきます。
・長老ヨハネは記します「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちのもとに留まっていたでしょう。しかし去って行き、だれも私たちの仲間ではないことが明らかになりました」(2:19)。手紙から推察すれば、出て行った人たちは、後にグノーシスと呼ばれる合理主義者でした。ギリシア哲学では、「人間の本質は霊であり、肉体は霊の宿る牢獄に過ぎない」と教えます。彼らは、「イエスの受洗時にキリストは肉のイエスと結合したが、受難に先立って再びイエスの肉体から離れ、神の元に帰った。そして人間イエスだけが苦しみを受け、十字架につけられた」と考えるようになりました。そうなりますと、イエスの降誕を喜ぶ気持ちも、罪を赦されて新しい人生を生きる感謝も、潮が引くように無くなっていきます。教会の中でそのような信仰を強く主張する者たちは、教会を割って出て行きました
・「彼らは私たちの中に留まらなかった」とヨハネは書きます。ヨハネの手紙では、「留まる(メノウ)」という言葉が、11回も出てきます。教会分裂に動揺する信徒に、「あなた方は御子の内に、教会の内に留まりなさい」とヨハネは繰り返し語ります(2:27、2:28他)。「御子の内に留まりなさい」という言葉こそが、ヨハネの手紙の中心的な使信なのです。そこには「あなた方は教会を離れるな、外はサタンの世界だ」と叫ぶヨハネの肉声が聞こえてくるような表現です。
・動揺する信徒たちに、ヨハネは「私はイエス・キリストをこの目で見、声を聞き、その御体に触れた」(1:1)と伝えます。イエスこそ救い主、キリストであり、それを否定する人々は「反キリスト」、「偽り者だ」とヨハネは語ります(2:22-23)。教会から出ていった人々は「キリストの受肉」を否定し、「キリストが十字架で苦しまれた」ことも、「その流された血により人の罪が贖われる」という贖罪も否定しました。「それはもうキリスト信仰ではない」とヨハネは語ります。
・罪を認めて悔い改めの生活を始める、それが救いの第一歩であり、信徒の生き方であると長老ヨハネは教えます。手紙2章では信徒はどのような生活をすべきかが述べられます。一言で言えば「愛し合う生活」です。長老は語ります「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」(2:1a)。「罪を犯さないように」と長老は言います。しかし、彼は私たちの弱さを知っています。私たちは洗礼を受けても罪を犯さざるを得ない存在です。しかし、その犯した罪は、天に帰られたキリストが執り成して下さると言います(2:1b)。「この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償う生贄です」(2:2)。ヨハネは続けます「私たちが神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」(2:3)。そして「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内に真理はありません」(2:4)。
・「神を知っている」の「知る」は、ギリシア語「ギノウスコ-」、「体験的に知る」ことを意味します。体験的に神を知る、それは人が神の言葉を自分の生活の中でかみしめた時に与えられます。三浦綾子の小説「塩狩峠」の主人公長野信夫は、牧師から「聖書の中にあるどの御言葉でもいいから、そこに書かれている命令を徹底して実行してみなさい」と言われ、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」を実行する決意をしました。しかし、そうしようと思えば思うほど、うまくいきません。ある時彼は、「善をなそうとしても出来ない」自分の心の中に、闇が、罪があることに気づき、「自分の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかられたこと」を悟ります。そのような体験を通して、人は「神を知る」のです。
2.古くて新しい掟「愛し合いなさい」
・神の戒め、それは「愛し合うことだ」と長老ヨハネは言います。神を愛するものは兄弟を憎まない、信仰が私たちの生活を変えていくからです。しかし、ヨハネの共同体では自分たちの考えに固執する人々が、教会を混乱させ、教会から出て行きました。愛し合うことが出来なかったという現実を、ヨハネは見つめて言います「光の中にいると言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます・・・兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(2:9-11)。
・私たちの中に世の欲が入りこんできます。肉の欲、目の欲、生活のおごりが信仰を曲げることが起こります。だからヨハネは語ります「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです」(2:15-16)。肉の欲についてパウロは語ります「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(ローマ7:22-23)。私たちは肉体をもって生きています。肉が求めるのは生存本能に基づく欲求です。食べる物がなく、死ぬしかない状況下で、肉は「他人のパンを奪っても食べよ」と求め、「貪るな」という霊の欲求は本能の前に死にます。「殺すな」という律法を知る者は、戦場で自分を殺そうとする敵と遭遇した時、彼を殺して苦悶します。敵を殺さない限り肉は生存しえないからです。愛もそうです。私たちが「誰かを愛する」とはその人を貪ること、その人から見返りを求めることです。しかし、「愛するとはその人のために死ぬことだ」という律法を与えられた時、私たちは人を愛せないことを知ります。この肉の欲こそ、罪の本質です。
・さらに恐ろしい欲があります。「人に喜ばれ、尊敬され、世の誉れを受けたい」という、社会的な欲です。それは、「他人に馬鹿にされたり、非難されたり、仲間外れにされないようにしようとする心」を生みます。罪よりも恥を気にし、神よりも人にならおうとする態度です。ヨハネ教会の問題は、一部の人たちが、「自分たちは正しい、それが受入れられなければここを出る」として教会を割って出て行ったことです。神よりも人に関心が行く、この「人間関係中心主義」の欲が教会の交わりを壊し、教会を分裂させたのです。
3.イエスの贖いを信じて生きる
・私たちには、神の言葉を聞き続けることが求められます。そして神の言葉は、私たちが生活の中で聖書を読む時、聞こえてきます。今日の招詞にルカ18:13を選びました。次のような言葉です。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』」。この個所は「ファリサイ人と徴税人の祈り」として有名な個所です。まずファリサイ派の人が立って祈ります「神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(ルカ18:10-12)。それに対する徴税人の祈りが今日の招詞です。
・この物語は私たちの人生とどのように関わるのかでしょうか。神学校の連続講座「イエスのたとえ話を読む」の中で、一人の学生はレポートしました「今回の授業で考えさせられたのは徴税人の祈りです。彼は胸を打って自分を贖って欲しいと心から祈りました。心の中に罪意識ははっきりと持っていたと思われます。しかし、彼は悔い改めをはっきりと示すことはできませんでした・・・やはり彼自身が罪から逃れられないことを良く分かっていたからだと思います。家に帰った後もおそらく彼は再び徴税人として働き、罪を犯していたと思われます」。徴税人は支配者ローマのために税を徴収する仕事で、同胞からお金を貪る罪人として侮蔑されていました。しかし彼は生きるために徴税人の仕事を続けるしかない。そこに彼の苦しみがあります。
・学生は続けます「この徴税人のように、悪いと分かっていても、社会構造上どうしてもそこから抜けられない人々について考えさせられました。コロナウイルスの蔓延防止のために、多くの飲食店が営業時間を短縮させられています。その中で生きて行くためにどうしても夜間、店を開けざるを得ない人も出てきています。彼らも本当はそんなことはやりたくないのですが、それしか生きていく道がない。そのような人たちを非難している人たちは、自宅でリモートワークができ、給料も減っていない公務員や大企業の従業員なのではないでしょうか。自分たちはルールを守っているが、ルールを守らない人がいるからコロナが収まらないという考えを持っている人と、このファリサイ人が重なって見えてきました」。リモートワークの可能な恵まれた人たちは、毎日外に出て働くしかないエッセンシャルワーカの人を高みに立って批判している日本の現実があります。「これはファリサイ派の人が徴税人を批判したのと同じではないか」との理解は、聖書の物語を「自分の生きる糧」として、受け取ったと思えます。自分は無責任な告発や批判はやめようとの決意がそこにあります。
・では私たちはヨハネの手紙をどのように生活中で読むのか。キリスト教の根本教理は、「贖罪による救い」です。神の子が私たちのために死んでくださった、だから私たちも他者のために死んでいこうという信仰です。人間の愛は常に自己の利益を求めて相手を裏切りますが、神の愛はその裏切る者のために死ぬ愛です。神の子が自分のために死んでくれた、そのことを知った時、私たちはもう以前のような生き方は出来ない。この贖罪愛が私たちをキリスト者にします。そしてこの、贖罪愛を信じることのできない者たちは教会を割って出て行きました。ヨハネの教会を分裂させて出ていった人々は、後に「グノーシス主義」と呼ばれる人々でした。「神の子の受肉」や「神の子の受難」、その結果としての「罪の贖い」等の教えを合理化していきました。しかしそれは結局、世との妥協であり、グノーシス主義はいつの間にか歴史の波の中に消えて行きました。しかしイエスの贖いを信じた人々は2000年後の今日も、その信仰で生かされています。「イエスの贖いの愛」は、私たちに生きる力を与える真理なのです。
・日本では、課題を抱えて悩む人たちは教会に来ません。教会が自分たちの課題を解決してくれる場所だとは思えないからです。しかし教会はまだ滅びていない。少数であれ、イエスの言葉を聞いて、従おうとする人たちがいます。私たちにとって「キリストに留まる」ことは本当に大切なのです。キリストの愛に留まる、教会に留まる、日曜日の礼拝に参加し、読まれる聖書の言葉を通して、自分の生き方を振り返る。神がどんなにこの一週間、私の行動に我慢され、それでも見捨てられずに、また礼拝に来ることを赦された、その恵みを思うことです。こうして私たちは、キリストの弟子になり、ある時、イエスがそうされたように、人の足を洗う者に変えられていく。ここにいる少数の人たちが、そのような存在になった時、教会に救いを求めてくる方が訪ねてきます。教会はそのような場なのです。