江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年5月23日説教(使徒言行録16:1-15、聖霊に導かれて)

投稿日:2021年5月22日 更新日:

 

1.聖霊による中断

 

・聖霊降臨節を迎え、ペンテコステ礼拝を捧げます。ペンテコステ(五旬祭)は、元来は過越し祭りから50日目の小麦の収穫感謝祭(刈入れの祭り)でしたが、この日に、集まっていたイエスの弟子たちに聖霊が下り、弟子たちの宣教を通して多くの人びとが回心し、教会が生まれた日としてお祝いするようになりました。具体的には弟子たちが「異なる言葉」で話し始め、その結果、エルサレムで生まれた福音「キリストの教え」が言葉の壁、民族の壁を超えて伝わり始める、という出来事が起こりました。そのため、ペンテコステ礼拝は「多言語礼拝」として祝われます。

・エルサレムで始まった教会の宣教は当初はユダヤ人を対象にしたものでしたが、パウロは異邦人伝道に積極的に取り組み、シリアのアンティオキア教会を拠点にして、三度の伝道旅行を行います。最初の伝道旅行では、パウロとバルナバは船でキプロスへ行き、小アジア各地を宣教します(使徒14章)。帰国後、二人は再びアンティオキア教会で働き働き始めますが、やがて母教会のエルサレム教会との間で、異邦人伝道をめぐって意見の対立が生じます。エルサレム教会は保守的なユダヤ人が多く、「異邦人が救われるためには洗礼だけでなく、割礼を受けるべきだ」と主張しました。割礼の強制は異邦人伝道を事実上閉ざすことになります。問題を協議するためにパウロたちはエルサレムに上り(使徒15:1-2)、議論の末、異邦人に割礼を強制しない方向で会議の結論が出ます。パウロはこの喜ばしい知らせを伝えるために、先の伝道旅行で生まれた小アジアの諸教会を訪問することを計画し、今度はシラスを同行者にして出かけます。この第二次伝道旅行の有様を描いたのが、今日読みます使徒16章です(新共同訳聖書巻末地図7,8パウロの宣教旅行参照)。

・第一回目の伝道旅行では船便を用いましたが、今回は陸路をシリア、キリキア地方に行き、さらに進んで小アジアのデルベ、リストラへ行きます。前回訪問から5年が経ち、彼らはエルサレム会議の知らせを伝えながら教会を再訪します (使徒16:4)。その後、アジア州の首都エフェソに向かう予定でしたが、何らかの理由で行くことが出来なかったようです。使徒言行録は述べます「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」(使徒16:6-7)。

・行程を変更すべき何らかの事情が生じたことを、ルカは、「聖霊に禁じられて」、「イエスの霊がそれを許さず」、と表現します。ガラテア書等を参照すれば、パウロが病気になって旅程の変更が必要になったと推測されます(ガラテア4:13「この前私は、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」)。彼らはやむなく、エーゲ海に臨む港町トロアスに行き、そのトロアスでパウロは幻を見ました「一人のマケドニア人が立って“マケドニア州に渡って来て、私たちを助けて下さい”と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見た時、私たちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした」(16:9-10)。

・使徒言行録はこれまで三人称で記述されていましたが、16章から記述が「私たち」に変わっていきます。「私たちは出発した」、「私たちは確信した」。使徒言行録の著者ルカがトロアスからパウロの一行に加わったためと思われます。おそらくは病気のパウロが医者を必要とし、パウロはトロアスでマケドニア人医師ルカと出会い、彼の要請でマケドニアに行くことになったと推察されます。福音がアジアから海を越えてヨーロッパ大陸に伝わっていく、歴史的な第一歩がここに始まりました。もし、“福音がヨーロッパに伝わる”ことがなかったら、歴史は大きく変わったと思われます。そのきっかけが、“聖霊に禁じられて”でした。エフェソに向かうはずのパウロたちがマケドニアに向かい、そのことを通して世界史が書き換えられていきました。同時に、私たちは、キリスト教は西洋の宗教と考えがちですが、実は西洋にとってもキリスト教は「伝えられた宗教」だったことを思い起こす必要があります。ですからドイツやアメリカの神学を鵜呑みにした信仰、あるいは教理から、私たちは自由になる必要があります。私たちバプテスト教会が聖書のみを唱え、西洋教会の歴史の中で作られた使徒信条等を採用しないのも、そこに根拠があります。

 

2.聖霊に導かれて

 

・パウロたちはトロアスから船出して、マケドニアのフィリピに導かれます。パウロたちはいつも通り、ユダヤ教の会堂を探しますが、フィリピはユダヤ人居住者が少なく、会堂もありませんでした。一行は安息日を待って、祈り場を探して川岸に向かいます。祈り場は会堂を持つほどにはユダヤ人がいない所に立てられる施設で、通常は身体を清めるために便利な川のほとりに立てられました。パウロたちはそこで、礼拝を守っていた数名の婦人たちと出会います。その中にリディアと呼ばれる婦人がいました。彼女は裕福なギリシア人商人で、ユダヤ教への改宗者でした。彼女はパウロたちの話を熱心に聴き、回心して、その場でバプテスマを受けます。ルカは、リディアの回心が、聖霊の働きによって生まれたと記します。「リディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」(16:14)。「主が彼女の心を開かれた」、人を信仰に導くものは、主の語りかけです。私たちも礼拝において御言葉を聞いているうちに、あるいは一人で聖書を読んでいる時に、突然目が開けて、言葉が自分に語られている体験をします。その時、封印されていた聖書の言葉が私へ語りかける言葉となります。

・このリディアがヨーロッパで最初の回心者となり、彼女は喜びの中で、自宅を伝道の拠点として提供し、その家がやがてフィリピ教会となっていきます。フィリピ教会は、その後、パウロの伝道を助け、支える教会になります。パウロは、後にフィリピ教会に書いた手紙の中で感謝を述べています「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニア州を出た時、もののやり取りで私の働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいた時にも、あなた方は私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。・・・そちらからの贈り物を・・・受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださる生贄です」(フィリピ4:15-19)。

・聖霊がアジアに行くことを禁じなければ、パウロはルカとは出会わず、ルカ福音書や使徒言行録は書かれていなかったでしょう。また、フィリピに渡ることがなければリディアの回心もなく、フィリピ教会の建設もありませんでした。聖霊の不思議な導きによって、すべては“良し”とされました。“聖霊による中断”、人間の目から見れば挫折です。私たちの思いが挫折、中断させられることを通して、新しい道が開かれていきます。人間の計画が崩れる時、神の計画が始まります。人が自分の計画に夢中の時は、神の声が聞こえないからです。ここに生き方の変革があります。「聖霊が禁じた」という言葉は示唆的です。私たちの人生においても、思わぬ出来事により、希望が満たされず断念し、あるいは遠回りをすることがあります。しかし、後から振り返り、その遠回りや挫折こそ、神の導きだったことがわかる時があります。神などいないと考える人々には挫折や中断は失敗です。しかし「人生は神の導きの下に在る」と信じる時、挫折や中断が新しい道を開きます。信仰は、挫折や失敗さえも“良いもの”に変える力を持ちます。

 

3.すべてを“良し”とされる神

 

・今日の招詞にフィリピ1:29-30を選びました。次のような言葉です「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、私の戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」。伝道の旅を重ねてきたパウロはいまローマの獄中にいます。福音は喜びの知らせですが、その言葉は往々にして現在の体制を超えるため、体制側から迫害を受けます。ローマ帝国は皇帝を神として拝めと強制し、パウロはそれを拒否した故に、捕らえられています。キリストに従うとする時、私たちも世から迫害を受けることはあります。迫害を受けた時、私たちは「平和な日常」から、「非日常の苦難」の中に入ります。しかし、その苦難が神ゆえのものであることを知る時にはもう怖れはありません。“神が共にいてくださる”ことを知る時、牢獄もまた喜びの場になります。

・パウロはフィリピの人たちに書き送ります「キリストのために私は苦しんでいますが、それを恵みとして喜んでいます」。獄中のパウロに接して、回心するローマの兵士たちが出てきました(フィリピ1:13-14)。投獄を通してさえ伝道が進む、投獄さえも恵みになる時、何事もその人を押しつぶすことは出来ません。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。この信仰こそが、いついかなる場面においても、信仰者に平安を与えます。そして伝道とは、この平安を知った者が、それを隣人に伝えていく行為です。

・その伝道は聖霊によって導かれます。そこでは目の前の困難や挫折さえもが良いものに変えられていく体験をします。エフェソへの伝道禁止がフィリピに大きな実りをもたらせたように、です。こうして福音は新しい地に伝えられ、篠崎まで来ました。使徒言行録は閉じられていない記録であり、その記録は、私たちによって書き継がれていきます。今、私たちの教会に困難が与えられているとしたら、それは教会が主の導きの下にあるしるしです。今、私たち個人にそれぞれの課題が与えられているのも、主の導きのしるしです。聖霊の不思議な導きによって、すべては“良し”とされます。“聖霊による中断”、人間の目から見れば挫折です。私たちの思いが挫折、中断させられることを通して、新しい道が開かれていきます。人間の計画が崩れる時、神の計画が始まります。そのことを信じる時、人生の意味が変わってきます。

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