1.墓に葬られたイエス
・受難節を終えて、復活節に入りました。イエスは金曜日に十字架で処刑されましたが、通常、罪人の遺体は、十字架上に放置されて曝しものにされるか、共同墓地に葬られるかのいずれです。しかし、イエスの遺体は、アリマタヤのヨセフに引き取られ、新しい墓に葬られたとマタイは記します。「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた」(マタイ27:57-58)。並行個所マルコによれば「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」(マルコ15:43)。
・「この人もイエスの弟子であった」とマタイは記しますが、最高法院の議員であり、高い地位にあったヨセフが、その最高法院で死刑を宣告され、ローマ総督によって反逆罪で処刑されたイエスの遺体を引き受けることは社会的に大きな危険を伴っていました。並行のヨハネ福音書は記します。「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした」(ヨハネ19:38)。アリマタヤのヨセフは同胞のユダヤ人たちを恐れて、自分の信仰を隠していたのです。高橋三郎氏は記します「イエスの死と共に、彼の心の中に一つの重大な変化が起こった。彼はもはや人の顔を恐れず、はっきりとイエスの御名を言い表して、その御跡に従おうとする勇気と決断を与えられたのである。イエスの死体を取り下ろしたいと公に願い出ることは、彼と生死を共にし、その屈辱に与る決意なくしてはなしえないことであった」(ヨハネ伝講義下)。その場には同じく議員であったニコデモもいたとヨハネは証言しています(ヨハネ19:39)。もしかするとこのニコデモとヨセフは同一人物だったかもしれません。イエスの十字架刑の現場にはクレネ人シモンがいて、そこで回心の出来事が生じています。同じようにイエスの埋葬の現場でも、アリマタヤのヨセフとニコデモの回心の出来事が記されています。イエスの復活前に神はこのような証人を用意してくださったのです。
2.復活の証人とされた女性たち
・イエスの死と埋葬の現場では弟子たちは逃走していませんでしたが、婦人たちが埋葬を見守っていました。エルサレムでは岩穴を掘ってそこを墓とし、遺体は棺に納めず布で包み、岩穴の壇上に安置し、野獣の侵入を防ぐために、墓の入り口は丸石を転がして閉じられていました。イエスは金曜日の午後3時に息を引き取られ、アリマタヤのヨセフが、ピラトに願い出てイエスの遺体を引き取り、自分の墓に納めます。婦人たちは何も出来ず、ただ遺体が納められた墓を見つめていただけでした。翌土曜日は安息日であり、外出は禁止されていたので、婦人たちは安息日明けの日曜日の朝、香料と香油を持って、墓に向かいます。イエスの遺体を洗い清め、ふさわしく葬りたいと願ったからです。しかし、墓の入り口には大きな石が置かれ、どうすればその石を取り除いて墓に入ることが出来るか、婦人たちはわかりませんでした。それでも婦人たちは墓へ急ぎました。
・墓に着くと、石は既に取り除いてあり、中に天使が座っているのを見て、婦人たちは驚き、怖れます。彼女たちは幻想を見ているのか。しかし、事実として、石は取り除かれ、遺体は墓の中にはありません。婦人たちは天使の声を聞きます「恐れることはない。十字架につけられたイエスは、ここにはおられない。復活なさったのだ・・・急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」(28:6-7)。婦人たちは恐れてその場を去りました。婦人たちが墓に来たのは、イエスの遺体を清めるためでした。イエスがよみがえられるとは、予想もしていません。婦人たちは「復活の出来事を弟子たちに伝えよ」と言われ、急いで帰り報告しました。
・この復活の出来事が世界史を変えていきます。イエスが十字架で死なれた時、弟子たちは逃げて、そこにいませんでした。ヨハネによれば、復活の朝、弟子たちは「家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた」(ヨハネ20:19)。その弟子たちが、数週間後には、神殿の広場で「あなたたちが十字架で殺したイエスは復活された。私たちがその証人だ」と宣教を始め、逮捕され、拷問を受けてもその主張を変えませんでした。弟子たちの人生を一変させる何かが起こったのです。それが復活のイエスとの出会いだったと聖書は語ります。
・天使は婦人たちに言いました「あの方は死者の中から復活された」(28:7)。復活された=エゲイロウ(起こす)の受動態が用いられています。神がイエスを「死人の中から起こされた」とマタイは語っているのです。天使は婦人たちに言いました「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。そのことを弟子たちに告げなさい」。その弟子たちはイエスを裏切って逃げた弟子たちです。裏切った弟子たちに「イエスはガリラヤで待っておられる」との使信が届きました。弟子たちはそこに赦しの言葉を聞き、半信半疑でガリラヤに戻り、そこで復活されたイエスと出会います。マタイはその記事を復活物語の締めくくりとして書きます「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した」(28:16-17)。この出会いを通して、弟子たちは「この方は神の子であった」と言う信仰を与えられ、新しく生きる者になります。弟子たちの復活のイエスとの出会いが復活信仰を生み、その信仰が教会を形成して行ったのです。
3.復活のキリストに出会った人々は何をしたのか
・その後、エルサレムに集められた教会の人びとは、「イエスこそ神の子であった」と証言し、弾圧にあってもその証言を変えませんでした。そして教会に集う人々は増え、遠いシリアのアンティオキアにも教会が生まれました。アンティオキアはシリア州の首都で、ロ-マ総督府が置かれており、諸文化、諸民族が入り混じる国際都市でした。使徒言行録は記します「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外の誰にも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシャ語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。」(使徒11:19-20)。
・アンティオキア教会の活動を知ったエルサレム教会は、支援のためにバルナバを派遣し、バルナバはパウロを伝道者として招聘します。「こうして多くの人が主に導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアへ連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(使徒11:24b-26)。そのアンティオキア教会にエルサレム教会から災害支援の要請が来ます。今日の招詞、使徒11:27-29の個所です「そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた」。
・アンティオキア教会は活発で裕福な教会でした。他方、エルサレム教会は貧しく、またユダヤ教からの迫害にあえいでいました。そのエルサレム教会からの支援要請を受けて、彼らは見ず知らずのエルサレム教会のために金品を捧げます「弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた」。エルサレムはアンティオキアから500キロも離れています。距離的にもはるかに遠い教会へ自分たちの資金を提供することを始めたのです。この事が示しますのは「神はご自分の創造された世界で、私たちキリスト者を用いて世を救おうとされる」ということです。
・その一つの例がローマ時代の歴史の中にあります。ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」によれば、福音書が書かれた紀元100年当時のキリスト教徒は数千人という小さな集団であり、紀元200年においても数十万人に満たない少数者でした。その彼らが紀元300年には600万人を超え、キリスト教が国教となる紀元350年頃には3千万人、人口の50%を超えたとされます。何故彼らはそのように増えたのか、スタークは「キリスト教の中心教義(自分を愛するようにあなたの隣人を愛せ)が人を惹き付け、自由にし、効果的な社会関係と組織を生み出していった」からだとします。ローマ時代には疫病が繰り返し発生し、時には人口の1/3~1/4を失わせるほどの猛威を振るいました。人々は感染を恐れて避難しましたが、キリスト教徒たちは病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬しました。何故ならば「聖書がそうせよと命じ、教会もそれを勧めたから」です。この「食物と飲み物を与え、死者を葬り、自らも犠牲になって死んでいく」信徒の行為が、疫病の蔓延を防ぎ、人々の関心をキリスト教に向けさせた一因だったとスタークは考えています。キリスト者はその後も隣人救済の業を継承していきます。そして各地に病院やホスピスや学校を立てていきます。クリスチャンたちはアンティオケの教会のように、囚人を訪ね、負傷者を看病し、見知らぬ人を歓迎し、飢えた人に食事を与え、病人を世話する働きを進めてきました。その伝統を持つ教会は、今世界中が苦しんでいるコロナウィルス感染症蔓延の問題についても、何かが出来ます。
・今回のコロナウィルス禍の拡大の中で、注目されているのはルターの感染症についての文書です(神戸改革派神学校・吉田隆校長「ウイルス禍についての神学的考察」)。14世紀の中頃、アジアからヨーロッパ全土を襲った黒死病(ペスト)は、ヨーロッパの全人口の4分の1から3分の1を死に至らしめたと言われています。その後も散発的に流行を繰り返したこの病は、1527年の夏、マルティン・ルターがいたヴィッテンベルクをも襲いました。時のザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒはルターたちに避難を命じますが、ルターはこれを拒否して町の病人や教会員たちをケアするために残ります。
・彼は教会に当てた公開書簡「死の災禍から逃れるべきか」の中で述べます「命の危険にさらされている時こそ、聖職者たちは安易に持ち場を離れるべきではない。説教者や牧師など、霊的な奉仕に関わる人々は、死の危険にあっても堅く留まらねばならない。私たちには、キリストからの明白な御命令があるからだ。人々が死んで行く時に最も必要とするのは、御言葉と礼典によって強め慰め、信仰によって死に打ち勝たせる霊的奉仕だからである」。他方において、ルターは、死の危険や災禍に対してあまりに拙速かつ向う見ずな危険を冒すことの過ちについても述べています。「私はまず神がお守りくださるようにと祈る。そうして後、私は消毒をし、空気を入れ替え、薬を用意し、それを用いる。行く必要のない場所や人を避けて、自ら感染したり他者に移したりしないようにする。私の不注意で、彼らの死を招かないためである・・・しかし、もし隣人が私を必要とするならば、私はどの場所も人も避けることなく、喜んで赴く」。
・教会は私たちが天国に入るための取次機関ではないし、私たちに安心と安全を保証するための場所でもありません。教会は神の委託を受けて、神の国をもたらすために働く人々が集う場所です。最後にイギリスの詩人マルコム・ルテの読んだイースター2020年を朗読します。「イエスはどこにおられるのか、実に捕らえがたいこのイースターの日に。閉鎖した我らの教会で行く場を失ったわけでもなく、暗き墓場に封印されているのでもない。鍵は解かれ、石は転がされ、彼は起き上がり、よみがえったのだ・・・彼は今、リネンの帯を解き、看護師と一緒の看護用エプロンをつけ、ストレッチャーをつかみ、引上げ、死にゆく人々の弱々しい肉体をやさしい手で撫で、希望を与え、息苦しい人に呼吸を、それに耐える力を、彼らに与えた・・・彼はわれらの病室にモップをかけ、コロナの痕跡をふき取った。それは彼にとって死を意味した。聖金曜日の十字架は千ものの場所で起こった。そこで、なすすべのない者をイエスは抱き、彼らと共に死んだ。それこそ、それを必要とする人とイースターを分かち合うために。今や彼らは彼と共によみがえった。実によみがえったのだ」(N.T.ライト「神とパンデミック」から)。復活を体験した人々は、もう自分のためだけに生きることをしません。神は私たちを用いて神の国の業を為されることを信じる故です。