1.弟子の召命
・クリスマスを終え、年内最終礼拝の時を迎えました。洗礼者ヨハネがユダの荒野で宣教を始めた時、ユダヤ全土から多くの人々がヨハネの下に集まりました。ローマの植民地支配に苦しむ人々は、聖書に預言された救世主(メシア)が来られて、イスラエルが救われることを求めていました。「世の終わりは近い、メシアが来られる」との洗礼者ヨハネの呼びかけに人々は共感し、もしかしたらこの人こそメシアかも知れないとの期待を込めて、集まったのです。アンデレと無名の弟子(おそらくは福音書著者ゼベダイの子ヨハネ)もまた、ガリラヤからユダの荒野に来ていました。その二人に、洗礼者は「私よりも優れた方がおられる。この方こそ神の子羊だ」として、イエスを指し示しました(1:36)。
・二人の弟子はイエスの後をついていきます。イエスは二人を見て、「何を求めているのか」と言われました。二人は聞きます「ラビ、どこにお泊りですか」(1:38)。二人はイエスの泊まっておられた所に行き、一晩中イエスの話を聞き、この人こそメシアだと確信しました。翌朝、アンデレは兄弟シモンの所に行き、告げます「私たちはメシアに出会った」(1:41)。そして、シモン(後のペテロ)をイエスのところに連れて行きました。やがて、イエスは、「宣教のために働くべき時が来た」ことを自覚され、ヨハネと別れて、郷里ガリラヤに帰ることを決意されました。
・ヨハネの許には、同じくガリラヤから来たピリポもいました。イエスはピリポにも、「従いなさい」と呼びかけられ、ピリポも従います。イエスに出会ったピリポは、同郷のナタナエルをイエスの許に誘います。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」(1:45)。ナタナエルは疑いましたが、ピリポは「来て、見なさい」としてナタナエルを連れて行きます(1:45-46)。イエスはナタナエルを見て言われます「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(1:47)。ナタナエルは出会う前から自分を知って下さったこの方こそメシアであると告白します「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(1:49)。
2.イエスの弟子となる
・今日の物語の中でまず注目したいことは、「来て見なさい」と言う言葉が繰り返し用いられていることです。イエスはアンデレとヨハネに「来なさい、そうすれば分かる」と言われ、二人は従いました。ピリポもまた「私に従いなさい」(1:43)という言葉で、イエスの弟子となります。そのピリポが今度はナタナエルに「来て、見なさい」(1:46)と誘い、ナタナエルもまた弟子となります。信仰は出会いです。「来て、見なさい」という招きに応えて、その人に会い、その人の話を聞き、自分で確認することにより、出会いが起こります。教会員の方々が知人・友人を礼拝に誘った時、この出会いが起こります。
・二番目に注目すべきことは、ここでは証言の連鎖によって伝道が為されていることです。洗礼者ヨハネはイエスを「見よ、神の子羊」と弟子たちに証言し、その言葉が二人の弟子をイエスに導き、アンデレは自分の兄弟ペトロに証言し、その証言がペトロをイエスに導きます。そのペトロはピリポに証言し、ピリポは知人のナタナエルに証言し、彼をイエスの下に導きます。伝道とは、自分が出会ったもの、見出したものを、隣人に伝えていくことです。その時、私たちが「キリストの香り」(第二コリント2:14)、「キリストの手紙」(同3:3)になります。
・ヨハネ1章から教えられる三番目のキーワードは「留まる」という言葉です。弟子たちがイエスに「先生、どこに泊まっておられますか」と尋ねた時の「泊まる」と言う言葉は、ギリシャ語「メノー」で、ヨハネ福音書に40回も用いられています。弟子たちは「今夜どこに宿泊(メノー)するのですか」と言う表面的な問いと同時に、「神の救いの計画の中であなたはどこに留まっている(メノー)のですか」という内面的な問いかけをイエスにしています。その日、彼らは「ついて行って」、「イエスがどこに留まっているか」を見届け、「彼らもそこに留まり」、「私たちはメシアに出会った」と証言するのです。
3.生きる勇気の発信源としての教会
・「留まる」、「つながる」というギリシャ語メノーはヨハネ愛読の言葉です(新約聖書に118回用いられており、そのうち67回はヨハネ文書)。そのメノーが繰り返し用いられている箇所がヨハネ15章です。今日の招詞にヨハネ15:4を選びました。次のような言葉です「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない」。「私につながっていなさい」という時の「つながる」は、「留まる=メノー」です。木の生命は根であり、根から幹が伸び、幹から枝が分かれます。枝である私たちは、幹であるイエスに留まり続けることによって、豊かな実を結びます。
・イエスの宣教によって、多くの人々がイエスこそ神の子と信じ、教会が生まれました。イエスに「つながる」人が増えたのです。しかし、生まれたばかりの教会はユダヤ教から異端として迫害を受け、ローマ帝国からは邪教として弾圧され、多くの人々が教会から脱落していきました。本当にイエスにつながっていなかった、留まっていなかったからです。それに対し、危機に直面してもなお、イエスをキリストと告白し神の子と信じる者は、殺されても信仰を曲げませんでした。弟子たちの死をも恐れない信仰を見て、多くの人々が福音に招かれます。留まり続けた人々の存在によって伝道の業は進められていったのです。
・私たちはぶどうの幹ではなく、枝です。「イエスに留まらない時」、イエスを離れた時、信仰の実は枯れてしまいます。どうすればイエスに留まり続けることが出来るのでしょうか。それは「教会に留まり続ける」ことによってです。牧師や信徒の行為を見て、教会に失望し、教会から離れていく人もいるでしょう。しかし、教会から離れた時、教会の頭であり命の源であるキリストからも離れる。教会に留まり続け、教会の頭であるキリストから「生きる勇気」をいただき続けます。人はどのような困難の中にあっても、「愛されている」、「必要とされている」ことを知った時、「生きる勇気」を与えられます。教会はこの生きる勇気をキリストから与えられる場所です。ティリヒは語ります「十字架につけられたキリストは、彼が信頼していた神が彼を暗黒の中に見捨てた時にも、彼の神に叫び続けた。その結果、彼の神は彼を再び生かした」。人間の否定の中で神は彼を肯定された、この神の肯定からくる勇気が生きる勇気です。
・「お前はだめだ、ここから出ていけ」と自己が否定される経験を誰でもがします。ヨハネの教会も、ユダヤ人共同体から排除されました。しかし、神を信じる人は自己が否定されても、倒れることはありません。なぜならば「神の肯定」を信じるからです。イザヤは語ります「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」(イザヤ49:4)。この神の肯定があれば、現実が苦しくとも、私たちは立ち上がることができます。「神はあなたを愛して、あなたを必要としておられる」ことを、確認する場が教会です。そして教会に集められた者は、自己肯定を奪われた人々のために活動します。
・教会はキリストを知らない人々に、自己肯定を付与するために存在しています。経済学者の神野直彦氏は語ります「人間の欲求には所有欲求と存在欲求があり、所有欲求が充足されれば豊かさが実感され、存在欲求が充足されれば幸福を実感する」(神野直彦「分かち合いの経済学」から)。日本は豊かになったのに人々が幸福になれないのは、この「存在欲求」、「あなたがいることが必要なのだという確信」が満たされていないからです。スウェーデンでは、社会サービスを「オムソーリー(悲しみの分かち合い)」と呼びます。困っている人に配分するという意味です。神野氏は続けます「人間の生きがいは他者にとって自己の存在が必要不可欠だと実感できた時である。悲しみの分かち合いは、他者にとって自己が必要だという生きがいを与える」。パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と勧めましたが、そのパウロの言葉を制度化し、社会化したものが、本来の社会保障です。聖書を通してその人の置かれた状況を洞察し、慰めを与える場所が教会です。
・本来の社会保障は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことを社会化したものです。しかし、日本では自己責任が強調され、社会保障の大部分は社会保険で構成され、社会保険料を納めることのできない低所得の人々は、生活保護という屈辱の中でしか必要なお金を受け取ることができません。税で賄うべきものを社会保険料で賄うという日本のシステムは「分かち合い」ではなく、人間の尊厳を損なう制度です。財政学者の井手英策氏は語ります「格差社会が問題なのは、所得格差があることそれ自体ではない。所得の少ない人々が尊厳をもって生きていけない状態を作り出したことが問題なのだ。日本でも医療費を無償化すれば生活保護の半数近くは不要となる」(岩波新書「日本財政・転換の指針」から)。
・日本では生活保護を受けることは恥ずかしいとされ、生活保護の受給率は必要な方の2割にとどまっています。これは個人が悪いのではなく、制度がおかしいのであり、変革のための努力を為すべきです。人間が生きるために必要な育児・教育・医療・老後保障等を、所得にかかわらず受益できるようにするシステムが「分かち合いのシステム」です。そしてこの「分かち合いのシステム」を支えるものが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ12:15)という聖書の言葉です。分かち合いの社会化を目指した時、そこに新しいものが生まれていく。教会こそ、人々に「生きる勇気」を与えることのできる場所なのです。その決意で新年を迎えることができればと願います。