江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年1月31日説教(マタイ9:35~10:15、弟子として派遣される)

投稿日:2021年1月30日 更新日:

 

1.十二人の選び

 

・マタイ福音書を読み進めています。マタイは8~9章で、イエスのなさった様々な癒しを語り、9章35節で締めくくります「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(9:35)。イエスの為さったことは「御国の福音を宣べ、病気を癒された」ことでした。しかし、まだまだ多くの病人や困窮者がいる。マタイは「イエスは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9:36)と記します。「深く憐れまれた」、原語は「はらわたがねじれるほどの痛み」です。本田哲郎神父はこの部分を次のように訳します「イエスは民衆を見て、はらわたを突き動かされた。彼らは羊飼いのいない羊のように、むしり取られ、打ちひしがれていた」(小さくされた人々のための福音)。

・羊は、弱く、一匹では生きていけません。群れとして羊飼いに導かれなければ、自分で食べ物を得ることも、猛獣から身を守ることもできない。だからイエスは弟子たちに言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(9:37-38)。イエスは羊飼いのいない、「むしり取られ、打ちひしがれている」羊たちを助けるために、弟子たちを派遣することを決意されます。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」(10:1)。

・弟子たちの中から十二人が選び出され、「働き手」として立てられます。イエスによって選ばれ、派遣された人々は、特別に立派な人や、優れた人たちではありませんでした。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはガリラヤ湖の漁師です。罪人の代名詞として忌み嫌われていた徴税人のマタイの名もここにいます(9:9)。後にイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダの名もありますし、熱心党(反ローマの武装集団)シモンの名もあります。彼らは働き手としての優れた資質を見込まれて弟子となったのでなく、かつては「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた」、その彼らをイエスが探し出し、弟子として下さった。そして今度は彼らが人々の牧者となるように派遣されていくのです。

 

2.十二人の派遣

 

・イエスは十二弟子を派遣するに際して語られます「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」(10:7-8)。弟子たちは派遣先で、「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病者を清くし、悪霊を追い払う」ことが求められ、そのための力が与えられました。十二人に与えられた使命は、イエスご自身のみ業の継承なのです。弟子たちは、イエスの憐れみの心を世の人々に伝え、広め、具体化するための「働き手」として遣わされたのです。

・イエスは派遣する弟子たちに言われます「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(10:5-6)。イエス弟子たちに、「イスラエルの家の失われた羊(本田訳「イスラエルの家の打ちのめされた羊」)のところに行けと言われました。イエスは馬小屋の中で生まれられた。「宿屋には彼らのための場所がなかったからである」とルカは記します(ルカ2:7)。場所、トポス、居場所がない人々がいる。先日のホームレス支援委員会の学びの中で講師は語りました「ホームレスとはハウスレスではなく、ホーム(居場所)のない人だ」。イエスは居場所のない人々のために弟子たちを遣わされたのです。ここにイエスの肉声があります。マタイの教会は既に異邦人伝道を始めており、教会は多くの異邦人信徒がいました(28:19「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」)。しかしイエス自身の宣教時代においては、異邦人伝道はまだされていなかったのです。

・イエスはさらに弟子たちに言われます「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」(10:9-10a)。金は一切持っていくな、袋や下着や履物や杖という、最低限の必需品ですらも持っていくな、と教えられています。ここにイエスと弟子たちが行っていた伝道の有様が見えます。彼らは「枕する所もない」(8:20)場所で眠り、「今日のパンもない」状況下で町や村を放浪して(ルカ6:21)、伝道を続けたのです。それににもかかわらず、必要なものは与えられた。だからイエスは言われます「働く者が食べ物を受けるのは当然ではないか」(10b)と。神のための働き手には必要なものが備えられ、与えられる。行った先々の人々が、必要なものを捧げてくれる、それを信じて、神の御手に身を委ねていく。「私たちはそうしてきたではないか」とのイエスは言われます。

・11節以下には、遣わされた先で何をするべきかが教えられています。「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」(10:11-12)。「神の国は既にそこまで来ている。苦しんでいるあなた方に、シャーローム=平安が与えられる。だから喜びなさい」と語る。それが弟子たちの派遣先でなすべきことです。福音とは、「良い知らせを伝える」ことなのです。「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」(10:13)。「来る者は拒まず、去る者は追わず」、これが伝道の基本です。

 

  1. 蛇のように賢く、鳩のように素直であれ

 

・しかし、弟子たちが派遣される地は危険に満ちています。イエスは彼らに戒めを与えられます。それが今日の招詞マタイ10:16です。「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。イエスは「あなたたちが派遣される場所には狼の群れがいる」と注意されます。イエスの宣教活動はファリサイ人や律法学者の敵意と妨害の中でなされました。従って、弟子たちも同じ迫害を受けながら活動せざるを得ない。その時には「鳩の素直さと蛇の賢さ」を持てとイエスは言われたのです。

・2000年後の現在、この日本の地にはどのような狼がいるのでしょうか。私たちの周りには、迫害や敵意はありません。しかし「無関心という狼がいる」と野村喬牧師は語ります「日本の社会は教会を問題にしていない。教会が何を主張し、どのような行為をしようと、社会に影響を与えることは出来ない。日本のクリスチャンは人口の1%、絶対的少数者である。しかし少数者の割には、キリスト教に関する本は読まれ、音楽は聞かれている。それはミッションスクールの影響だろう。多くのミッションスクールがあり、教育分野でのキリスト教の影響は大きい。しかしミッションスクールで学ぶ学生のほとんどはクリスチャンにならない。学生にとってキリスト教は社会的教養であって、自分の問題を切り開く宗教的な力ではない」(「福音と世界」2009年3月号)。キリスト教人口は100万人に満たず、国民の1%以下です。

・何故人々は文化としてのキリスト教を受入れながら、宗教としてのキリスト教に関心を示さないのか。それは自分たちの直面する問題に対して、教会は無力だと考えているからです。最近の若い世代は希望が持ちにくいと言われています。若者の三分の一は非正規雇用であり、年収200万円以下で将来家庭を形成するだけの経済力を持てません。正社員の人たちも過剰労働の重みで神経をすり減らしてらしています。十分な年金のない老人世代は将来に不安を感じています。将来に対する展望が開けない、そのような人々に教会は語る言葉を持っているのでしょうか。そこが問題の核心です。

・歴史家ロドニー・スタークは「キリスト教とローマ帝国」を書きましたが、同書によれば、福音書が書かれた紀元100年当時キリスト教徒は数千人という小さな集団であり、200年においても数十万人に満たなかった。今の日本と同じ状況です。その彼らが300年頃から爆発的に増え続けます。その時代、繰り返し疫病が流行し、その中で信徒たちが病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬し、その結果疫病の蔓延が防がれ、人々の関心をキリスト教に向けさせたとスタークは考えています。この事は現在、日本を含めて世界中が苦しんでいるコロナ感染証の蔓延の問題について、教会は何が発信できるのかを考えるべきであることを示します。聖書は苦難の意味が分かった時、苦難は苦難に終わらず祝福に変わることを語ります。

・ヴィヴィアン・リーチの書いた「コロナウィルスからの手紙」は印象的です。「私はあなたを罰するために生まれたのではありません。私はあなたの目を覚ますために生まれたのです。地球は助けを求めて叫びました。大洪水、燃え盛る火事、猛烈なハリケーン、恐ろしい竜巻、でもあなたは耳を傾けなかった。あなたはただ自分の生活を続けていた。どれだけの憎しみがそこにあろうと、毎日何人が殺されようと、地球があなたに話そうとしていることを気にかけることより、最新のiPhoneを手に入れることの方が大切だった。でも今、私はここにいます。そして、私は世界の軌道を止め、あなたに避難を余儀なくさせ、あなたに物質至上の考えをやめさせました。私はあなたに熱を与え、呼吸障害を与え、弱さを与えました。私は世界を止めました。そして今、あなたには自分の人生で大切なものは何かを考える時間が出来ました。地球に耳を傾けてください、あなたの魂に耳を傾けてください、互いに争うことをやめてください、そして、あなたの隣人を愛し始めてください。地球とその生き物すべてに気配りをし始めてください。創造主を信じ始めてください、なぜなら、この次、私はもっと強力になって帰って来るかもしれませんから」。

・信徒の生きざまが人々を信仰に導きました。初代教会の伝道が説教や証しという言葉によって為されたのではなく、キリスト者の生き様を通して為された事実は、私たちにも大きな示唆を与えます。私たちが弱肉強食というこの世の価値観から解放され、病気になってもそれも与えられた恵みとして喜んで受け取る、そのような生き方を示していくことこそ伝道なのです。言葉ではなく、生き方によって示される伝道は、「福音に無関心な人」をも動かしていきます。何故なら、それは彼や彼女の人生の問題を解決する一つの方向を示しているからです。そのような生き方が、キリストの弟子としての生き方です。そして、キリストは信徒ではなく、弟子を求めておられます。信徒は自分の救いを願い、弟子は他者の救いを願います。私たちは新しいイスラエル、神の国を形成するためにこの教会に集められました。毎週の礼拝に集まるのは、弟子としての確認の行為です。そして弟子として私たちは派遣されていきます。私たちが教会で捧げる全ての礼拝は、私たちをそれぞれの場に派遣する、派遣礼拝であることを今日は覚えたいと思います。

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