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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年5月2日説教(使徒言行録9:1-19、復活と回心)

投稿日:2021年5月1日 更新日:

2021年5月2日説教(使徒言行録9:1-19、復活と回心)

1.パウロの回心体験

 

・今週から使徒言行録の学びに入ります。エルサレムに始まった教会はペテロやヨハネ等ガリラヤ人の弟子たちを中心にした集まりでした。彼らは復活のイエスに出会ってその存在を変えられた人々ですが、信仰的には「律法を守り、神殿を尊ぶ」、保守的なユダヤ教徒でした。ユダヤ教会も彼らの存在を容認し、彼らはユダヤ教の一派「ナザレ派」として活動しています。しかし、ギリシア語を話すユダヤ人たち(ヘレニスタイ)と呼ばれる人々が教会に入ってくると、少しずつ教会が変わり始めます。彼らは「人はイエスの十字架の贖罪を通して救われる、律法や割礼は不要だ」と説き、「神は人が造った神殿には住まわれない」と公言します(7:49-50)。これは神殿礼拝や割礼を大事にするユダヤ教徒には我慢が出来ない異端であり、指導者ステファノは殺され、ギリシア語系キリスト教徒たちはエルサレムを追われて、サマリアやシリアに逃れていきます。紀元32年ごろ、イエスの死と復活から2年後のことです。

・その様子を使徒言行録は記します「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った・・・一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」(8:1-3)。「使徒たちのほかは皆・・・散って行った」、使徒たちは迫害されなかった、迫害の対象がギリシア語系キリスト教徒たちだけであったことに注目すべきです。体制の枠内でイエスの言葉を語り続ける限り、迫害はありません。しかしイエスの言葉は体制を突き破る激しさを持っています。それに従い始めた時、迫害が始まります。しかしその迫害を通して良きものが生まれてきます。後のキリスト教会を形成したのはエルサレム教会等の体制派の人々ではなく、迫害されて散らされていった反体制のヘレニスタイたちです。

・もう一つの注目点は、ここで初めて、サウロ、後のパウロが登場することです(サウロはヘブライ語読み、ギリシア語読みパウロ)。サウロはステファノ殺害に関わり、キリスト教会の迫害者として登場します。そのサウロがやがてパウロとなり、教会の大黒柱になっていく契機が、「サウロの回心」と呼ばれる出来事です。使徒言行録9章は記します「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(9:1-2)。彼は弾圧を避けてシリアに逃れたキリスト者を追って、ダマスコまで行った時、突然天からの光が臨んだとルカは記します「サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と呼びかける声を聞いた」(9:3-4)。サウロが「あなたはどなたなのですか」と尋ねると、その声は「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(9:5-6)と答えます。サウロは出来事で目が見えなくなり、人々に手を引かれてダマスコの町に入ります。

・ダマスコでは、教会のアナニアに「ユダの家にいるサウロという名のタルソス出身の者を訪ねよ」との啓示があったとルカは記します(9:10-12)。アナニアは、「サウロを助けるために行け」という命令に反発します「主よ、私は、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」(9:13-14)。主はアナニアに言われます「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」(9:15-16)。アナニアは出かけ、サウロに食事を与え、介抱します。こうして「サウロは洗礼を受け、キリスト教徒になった」とルカは記します(9:17-19)。アナニアはパウロを「兄弟」と呼びます。神が召してくださったのであれば、迫害者も「兄弟」となります。教会は神の前に砕かれた人であれば、どのような前歴の人でも受け入れる場所です。

 

2.パウロの体験は私たちの体験でもある

 

・サウロ、後のパウロはこの出来事についてほとんど語りません。唯一ガラテヤ書の中で、「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた時、私は・・・アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(ガラテヤ1:13-17)と語るのみです。彼が出会ったのは復活のキリストです。パウロは証言します「(キリストは)三日目に復活し、ケファに現れ、その後十二人に現れました。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ・・・次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(第一コリント15:4-8)。何が起きたのか、わかりませんが、何かが起きたのです。その何かはパウロの人生を変えた。そしてこのような何かは、私たちにも起こりえます。

・代々木上原教会の牧師だった村上伸は自分に起こった出来事を語ります「洗礼を受けた翌年、私は東京の神学校で勉強して牧師になりたいと秘かに決心した。だが、家の経済状態を考えると、そんなことはとても無理である。だから、この決心を中々言い出せずに悩んでいた。ところがある晩、教会での祈祷会から一人で帰宅する途中、突然、天から『死ねばいいではないか』という声が聞こえて来たのである。本当に聞こえたのかどうかは分からない。そのような気がしただけかもしれない。しかし、突然聞こえて来たこの声は、私の心を揺り動かした。パウロのように地に倒れたりはしなかったが、私は『我を忘れた』ようになった。あるいは、急な『めまい』に襲われた人のように暫く立ち尽くしていた。そして、これは『死ぬ気になって進めば、道は開ける』という神の声に違いないと信じた。私は直ちに教会に引き返し、牧師に決心を打ち明けた。その時、今日までの道が決まったのである」(村上伸「突然、天からの光が」、代々木上原教会、2010年8月22日説教)。

・聖書学者の佐藤研は語ります。「聖書の中には、読んでいて、事柄として問題を感じる箇所、あるいは非常に気になる句、あるいは忘れられない事件とかいうものがあります。それらを、問題を覚えた時に問題のまま自分の心の深部で受け止めて、それを咀嚼する・・・このような言葉との出会いがあることは皆さんも経験があるかと思います・・・そしてある時、新しい世界を開いてくれる主体に聖書の言葉自体が変化するという出来事を経験します。一生に一度か二度、そのような危機の状態で、何かに出会った瞬間、全身全霊で自分が飲み込まれるような、そして今まで全く思ってもいなかった何かが、ポカッと開くという、そのような体験です」(佐藤研、イエスの父はいつ死んだか、聖公会出版)。私たちもそれぞれの場でこのような出来事を経験します。ある時、神との突然の出会いが起こり、自分が変えられる体験です。パウロの体験は特別なものではありません。

 

3.復活のキリストに出会う

 

・今日の招詞にローマ7:24を選びました。次のような言葉です。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」。パウロは復活のキリストに出会って新しい命をいただきましたが、彼がキリストに出会う前にどのような状況に置かれていたかを記すのが、ローマ7章であると言われています。律法に熱心な者として戒めの一点一画までも守ろうとした時、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分、神の前に罪を指摘される自分」でした。パウロは言います「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(7:15)。

・人は「律法によって救われない」、これは戒めを熱心に守ろうとした人だけがわかる真理です。律法は最終的には二つの言葉に要約されます。「神を愛しなさい」、「隣人を愛しなさい」。隣人を愛するゆえに「殺すな」、「盗むな」等の戒めが生まれて来ます。しかし人は隣人=他者に対して純粋な愛を持つことはできません。愛の中にどうしてもエゴイズムが生まれてくるからです。私たちの愛は相手の中に価値を見出すゆえに相手を愛する愛です。だから相手に価値が無くなれば、愛は消える。結婚生活においても相手の価値が無くなれば、例えば、夫が失業したり、妻が病気になれば、結婚生活の維持は難しくなる。二組に一組が離婚するという社会の現実は、結婚生活の多くが「価値の取引」であることを示しています。ところが律法は相手に価値があろうとなかろうと愛することを求めます。その時、自分は律法を守ることが出来ないことが明らかになってきます。だからパウロは嘆きます「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」(7:18-20)。

・「私の中に住んでいる罪」、「自分さえ良ければ良い」という人間の本質です。そのエゴを見つめて行った時に、自分の中に「もう一人の自分」がいることが見えて来ます。理性では制御出来ない、心の中から突き上げてくる罪の衝動に動かされる自分です。パウロは言います「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(7:22-23)。自分の力によって、救いを得ようとした時、パウロが出会ったのは裁きの神でした。律法を守ろうとしたパウロが見出したものは、自分が罪人であり、その罪から解放されていない事実でした。だからパウロはうめきの声を上げました。そのうめきが24節の言葉「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」です。

・このエゴイズムは現代人も克服することはできません。私たちは、他人が成功すれば妬み、他人が失敗すれば喜ぶ存在であり、見返りなしには人を愛せない存在です。このエゴイズムこそ原罪、神なしに生きる人間の罪の核心です。したいことをすることを人は「自由」と呼び、それを追及していく結果現れるものは、お互いを傷つける悪であり、それらの悪が人を悲惨に陥れて行きます。自己の欲望が他者との関係の中で、争いとなり、やがて目に見える罪となっていきます。私たちの苦しみの多くは人間関係の乱れから生じ、人間関係の乱れは神との関係の乱れから来ます。そのような私たちにマザーテレサは語りかけます「今日最も重い病気は、人々が互いに求めあわず、愛しあわず、互いに心配しないという病です。この病を治すことができるのは、ただ一つ、愛だけです」。どうすれば人を本当に愛せるのか、マザーは言います「神がいかにあなたを愛しているかを知った時、あなたははじめて、愛を周りに放つことができます」。

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