江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年12月19日説教(ヨハネ1:19-34、聖霊のバプテスマを受ける)

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1.洗礼者ヨハネの証し

 

・クリスマス礼拝の時を迎えました。福音書はイエスの誕生を記した後、30歳までの出来事については何も語りません。ルカ福音書は、イエスは30歳になられるまで故郷のガリラヤにおられたと伝えます(ルカ3:25)。そのころユダヤでは、洗礼者ヨハネが立ち、「最後の審判の時が迫っている。罪を悔改めよ」と説き(ルカ3:8)、罪の悔い改めのしるしとしてバプテスマ(洗礼)を授けていました。イエスはガリラヤでこのうわさを聞き、ヨハネからバプテスマを受けるために、ユダヤに来られました。

・イエスが活動された時代は混乱の時代でした。当時のユダヤはローマの植民地でしたが、ローマからの独立を求める反乱が各地に起こり、多くの人々の血が流されていました。神を信じぬ異邦人に支配されることは、自分たちを神の選民と考えるユダヤ人には忍び難い屈辱であり、今こそ神が立ち上がり、彼らを救うためにメシア(救世主)をお送り下さるに違いないという期待が広がっていました。だから、人々は洗礼者ヨハネの「世の終わりが近づいた。メシアが来られる」との宣教の声に応えて、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:5)。

・イエスはヨルダン川でヨハネからバブテスマを受けられました。その時の光景をヨハネは記します「私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は水で洗礼を授けに来た・・・私は、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た・・・水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人に留まるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1:31-34)。洗礼者ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、メシアは霊でバプテスマを授けられるとヨハネは証しします。

 

2.世の罪を取り除く神の子羊

 

・洗礼者ヨハネはイエスを「世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)として人々に紹介します。「罪を取り除く子羊」とは、罪の身代わりとして捧げられる犠牲の羊のことです。エルサレム神殿では、過ぎ越し祭りの時に、子羊を犠牲として捧げます。子羊が血を流すことによって、人の罪が贖われるとの信仰です。現代の私たちは、「罪を取り除く子羊」を必要とするのでしょうか。私たちもまた罪の支配にあえぎ、罪の奴隷になっています。それは私たちの心の中を見れば判ります。私たちが思うのはいつも自分のことであり、自分を基準にして毎日を生きています。誰かが私たちを批判した時、私たちはその人を憎みます。誰かが私たちより良い生活をしていれば、私たちは妬みます。私たちが誰かを愛するのは自分が愛されるためであり、私たちが誰かに従うのは利益を得るためです。私たちの行為はすべて見返りを求めています。見返りがなければ、私たちはその人を捨てます。この罪の思いが世に貪りと争いをもたらし、世を闇にしている、この罪を取り除かない限り、救いはない。この「罪を取り除くためにイエスは来られた」とヨハネは証をしています。

・イエスの弟子ペテロはイエスの十字架死こそ、「罪を取り除く子羊の働きであった」であったと語ります「キリストは十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」(第一ペテロ2: 24)。キリストの受けた傷によって私は癒されたことを告白する行為がバプテスマです。しかし私たちが受ける水のバプテスマはヨハネが施す悔改めのバブテスマであり、そのことによって、私たちが完全になるわけではなく、罪を犯さなくなるわけでもありません。洗礼者ヨハネは「私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と語ります。水の洗礼を受けるだけでは人はキリストに従う者にはなりえない。だから霊の洗礼(パウロは心の割礼と呼ぶ)を待ち望みます。

・教会とは自分の救いを求めてきた人たちが、他者の救いのために祈る者に変えられて行く場所です。そのためには聖霊のバプテスマを受けなさいと聖書は語ります。イエスは道を求めて来たニコデモに言われます「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。ニコデモは反論します「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(3:4)。イエスは答えられます「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(3:5-6)。水のバプテスマは神の恵みへの人間の応答であり、救済の第一歩です。しかし、本当のバプテスマとは、やがて与えられる「霊のバプテスマ」です。

 

3.霊のバプテスマを受ける

 

・今日の招詞に、ヨハネ20:22-23を選びました。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。復活のイエスが弟子たちに与えられた言葉です。弟子たちはイエスを裏切り、逃げましたが、復活のイエスは逃げた弟子たちの前に現れ、弟子たちを非難せず、赦し、彼らに「私の羊を飼いなさい」と業を委託されます。そして弟子たちに霊の息を吹きかけられました。赦しと聖霊を受けて、弟子たちは伝道を始め、教会を立てていきました。

・「聖霊のバプテスマを受ける」と、人はどのように変わるのか、そのことを考えるために、ルカ10章「善きサマリア人の譬え」を読みます。ルカは語ります「エリコに向かう街道で一人の旅人が強盗に襲われ、意識をなくして倒れていた。そこに祭司が来たが、関わり合いになるのを恐れて、道の反対側を通って行った。次にレビ人が来たが、彼も倒れている旅人の横を通り過ぎて行った。その後、サマリア人が来たが、彼は倒れている旅人に近づき、介抱して宿まで運び、デナリオン銀貨二枚を渡し、「不足なら帰りに払うから」と約束し、世話を頼んで宿をあとにした」。何が三人を分けたのでしょうか。マルティン・ルーサー・キングはこの個所を次のように説教しました「祭司たちが助けなかったのは、彼らは恐れたからだ。彼らの最初の問いは『もし私がこの人を助けるために立ち止まったら、私に何が起きるのだろうか』」。けれどサマリア人は別の問いをした『もし私がこの人を助けるために立ち止まらなかったら、この人に何が起きるのだろうか』」。

・敷衍すると次のようになります。水のバプテスマを受けた人は考えます「もし私がこの人を助けるために立ち止まったら、私に何が起きるのだろうか。面倒なことになりはしないか」、そして彼は隣人の脇を通り過ぎ、やがて信仰をなくしていきます。霊のバプテスマを受けた人はその先を考えます「もし私がこの人を助けるために立ち止まらなかったら、この人に何が起きるだろうか。キリストは私のために立ち止まり、私を介抱してくださったのに、私がこの人を見捨てるわけにはいかないではないか」。復活のキリストに出会い、聖霊をいただいた者は、「もし私がこの人を助けるために立ち止まらなかったら、この人に何が起きるだろうか」を考える存在にされて行きます。

・このクリスマスにもいろいろなニュースが流れました。12月2日、寝たきりの姉(84)を殺害したとして、殺人罪に問われた妹(82)の裁判員裁判が行われました。被告は1人で姉を介護する「老老介護」の状態で、生活保護を受給して姉を施設に預ける提案を受けていましたが、「税金をもらって生きるのは他人に迷惑をかける」として受給を申請しませんでした。その後、姉の体調が悪化し「これ以上介護できない。迷惑をかけないためには終わらせるしかない」と考えて殺したそうです。この記事を読んで多くの人は痛ましいと嘆きますが、やがて忘れます。しかし、霊のバプテスマを受けた人はそこから一歩を踏み出します。生活保護を受けるためには非常に高い役所と個人のハードルがありますが、私たち第三者が役所に同行し、手続きをすれば、比較的容易に保護申請が受理されます。私たちに出来ることはあるのです。

・また日本ペンクラブが12月4日に、「紛争地の難民の現状を桐野夏生が聞く」と題するイベントを開催し、その模様がyoutubeで無料配信されました。レバノンのシリア難民を取材した方は、臓器売買のために内臓を抜かれて遺棄される子どもがいる、生計を立てるためにやむを得ず売春に走る女性たちが多いとの報告をされました。「国境なき医師団」の看護師としてアフガニスタンに赴任した方は、タリバンへの圧力のため海外からの援助が打ち切られ、多くの病院が閉鎖され、物価の高騰で栄養失調に陥る患者が急増していると訴えられました。私たちはどうすれば良いのでしょうか。その時、マハトマ・ガンジーの言葉が響いてきます「あなたのすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分自身が変えられないようにするためだ」。難民の困難はレバノンやアフガニスタンだけでなく、この日本でも起きています。難民申請を断られて困っている人々が日本にもいます。その方たちのために私たちは何かすることができるかもしれない。この問題を自分の事柄として祈り続ける時、神が行くべき道を開いて下さいます。

・霊のバプテスマを受けた者は、「キリストにある愚者」と呼ばれます。ゲルト・タイセンは語ります「イエスが来られても社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった。彼らが伝えたのは、『愛と和解のヴィジョン』だった」(タイセン「イエス運動の社会学」から)。

・「キリストにある愚者」として私たちは召されています。日本でも多くの人々が貧困や不条理の中で苦しんでいますが、彼らは教会に救済を求めません。彼らは語ります「神は愛だと言うけれど、いったい神は私のために何をしてくれるというのか。神は何もしてくれないではないか」。だから私たちは出かけて行って、語ります「神はあなたのために私を派遣された」。私たちはかつて人生の危機の時、キリストに苦難から立ち上がる力をいただいた。だからその恩返しをしたい。そのような思いを持つ人が増えてくれば、教会が、「一隅を照らす光」になります。今日、1名の方がバプテスマを受けられ、もう一名の方が私たちの教会に転入されました。お二人はキリストに従って良い知らせを伝える働きをする、キリストにある愚者として生きることを決意されました。このクリスマスに、私たちの教会は素晴らしい仲間を、クリスマス・プレゼントとして神様から頂きました。私たちが「キリストにある愚者」として、それぞれ自分たちがなしうることを為していく時、神の国は広がって行きます。クリスマスは私たちにそのような決断を促す時です。

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