1.モーセの召命
・出エジプト記3章は、モーセの召命を描いています。モーセはミディアンの地で羊を飼っていましたが、ホレブ山で神に召命を受けたと出エジプト記は語ります。モーセは元々エジプトに住むヘブル人でした。ヘブル人(イスラエル人の別名)の原語はイブリー=渡り者、彼らは、家畜を飼って放浪する遊牧の民でしたが、族長ヤコブの時代に、カナンで飢饉があり、一族は食糧を求めてエジプトに南下し、そこに住み着きます。それから400年の時が過ぎ、ヘブル人の数が増えてきました。エジプト王は、国内の異民族の力が増大することを恐れ、彼らを奴隷にして強制労働に当たらせ、また、人口増加を抑える為に、ヘブル族の男子は、生まれたら殺すように命じるまでになりました。
・モーセはこのような時代に、ヘブル人の両親から生まれました。両親はモーセを3ヶ月間家に隠していましたが、隠し切れなくなったで、パピルスで編んだ籠に赤子を入れ、ナイル川に流します。不思議な導きで、その籠はエジプト王の娘に拾われ、モーセはエジプト王の一族として育てられるようになります。成人したモーセは、自分がヘブル人の生まれであることを知り、同朋が奴隷として酷使されているのを見て、心を痛めます。40歳の時、エジプト人の監督が、ヘブル人を虐待しているのを見て、そのエジプト人を殺してしまいます。これがエジプト王の知るところとなり、モーセは追われて、ミディアンの地に逃れ、その地で、祭司レウエルの保護を受け、娘チッポラを妻として与えられ、羊を飼う者となりました。
・40年の時が流れ、彼は今安定した生活の中にあります。自分と家族の生活だけを考えればよいからです。そのモーセが神の突然の召命を受けます。それがテキストの個所です。モーセは燃える柴の間から語りかけられる神の声を聞きました「イスラエルの人々の叫び声が、今、私の元に届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:9-10)。しかし、モーセはしり込みます「私は何者でしょう。どうしてファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(3:11)。
2.インマヌエル
・「私は何者でしょう」と彼は言います。モーセはヘブル人として生まれ、エジプト人として育てられ、今はミディアン人として生活しています。彼はヘブル人としてのアイデンティティーを持てません。だから言います「何故私が、イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。彼はエジプトからの逃亡者です。エジプトに戻れば命の危険があります。「何の力も無い個人が、強大な軍事力を持つエジプト王と戦うことが出来るはずがありません」と彼は言います。彼は80歳になり、もう若くはありません。「何故今の安定した生活を捨ててまで、危険を冒してエジプトに行く必要があるのですか」とモーセは反論しています。
・若いころのモーセであれば、神の召命にすぐに応じたかもしれません。かつてのモーセは、エジプトの王子として育てられ、自分こそ指導者であるとの自負心から、同胞ヘブル人を打ちたたくエジプトの役人を殺しています。しかし今はエジプト王に命を狙われ、荒野に逃れ、何の地位もない羊飼いに過ぎないモーセは、自己のアイデンティティーを持てません。彼は語ります「私は何者でしょう」。彼は生まれてきた子を「ゲルショム(寄留者)」と名付けるほど、自己を喪失しています。
・神はモーセの問いには直接答えられず、「私は必ずあなたと共にいる」(3:12)と言われます。ヘブル語では“エフイエー=有る”、“イムマーク=共に”、“私は共に有る”です。この“イムマーク=共に”に“エル=神”をつけますと、“インマヌエル=神共にいます”という言葉になります。「私がいるから心配することはない」と神は言われます。モーセはそれでもためらいます「彼らに、あなたたちの先祖の神が、私をここに遣わされたのですと言えば、彼らは、その名は一体何かと問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」(3:13)。エジプトにいる同胞は私のことを信用しないでしょう。第一、彼らにあなたのことを何と説明すればよいのですか。説明しようがないではありませんかとモーセはさらに反論します。
・それに対して神は答えられます「私は有る。私は有るという者だ」(3:14)。ヘブル語では“エフイエー・アシェル・エフイエー”という言葉です。 「エフイエー=有る」とは、「私は存在している、私は存在を続ける」という意味です。常にあなたと共にいる。さらにその言葉は「私は有らしめる者だ」との意味も含んでいます。「私は“無から有を創造する”者だ。その私があなたを派遣する、恐れることはない」と神は主張されます。そして言われます「私は民の苦しみを見て、彼らの叫びを聞いて、彼らの痛みを知った。だから行為する、そのためにあなたを用いる。あなたが何を言ってよいかわからない時は言うべきことを教え、何をしてよいかわからない時はするべきことを教える。エジプト王がいかに強大であってもあなたは常に私の守りの中にあるから、恐れることはない」。
・この神に押し出されて、モーセはためらいながら、エジプトへの旅を始めます。モーセの召命は80歳の時でした。旧約聖書の年齢の数え方は現代の暦とは異なり、多くの場合は7掛けすれば妥当な年齢になると言われています。実年齢は50歳前後でしょう、いずれにせよ、人生の三分の二を終えた時に召命され、ここから、モーセの本当の人生が始まります。私たちも遅かれ早かれ、この召命を体験し、「自分のために歩む人生から、他者のために生きる人生」に変えられていきます。神の召命を通して、私たちも新しい人生へと歩みだすのです。
3.杖一本を持ってエジプトに
・今日の招詞に出エジプト記4:19-20を選びました「主はミディアンでモーセに言われた。『さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった』。モーセは、妻子を驢馬に乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った」。「私があなたと共にいる、その約束のしるしとしてお前に杖を与える、この杖を持ってエジプトへ行け」と神は言われ、モーセは神の命を受け、手に一本の杖のみを持ってエジプトに向かって行きました。神の杖とは、「神が共にいましたもう」という約束のしるしです。モーセはただ、この神の約束だけを頼りに、妻と子を連れて、苦難と危険の待ち受けるエジプトに向かいます。信仰とは、神の約束のみに依り頼んで、全人的に服従することです。そして、神の約束を信じるとは、神以外のものを放棄することです。モーセは若くて力がある時は、自分の力に頼って同胞を救済しようとして、エジプト人の監督を殺しましたが、このような力の行使は何の意味も持ちません。そのことを学ぶ為にモーセはエジプトを追われ、ミディアンの地で40年間を過ごすように導かれました。そして今、約束を待つことを教えられ、人の力ではなく神の約束にのみ希望をおくことを知らされ、杖一本を持ってエジプトに向かいました。
・私たちもモーセと同じ様に、「一本の杖のみを持って出かけよ」と言われています。イエスは弟子たちに杖だけを持って宣教に出かけるように求められました。「(イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように・・・と命じられた」(マルコ6:7-9)。「杖一本を持って出かけよ」と神はモーセに命じられます。「杖一本を持って出かけよ」とイエスは弟子たちに命じられます。「余分なものは要らない、神が共におられる、その信仰だけを持っていけ」。
・しかし、私たちは言います「杖一本では不安です。もっと下さい」。イスラエルの民もそう言いました。モーセはエジプトでファラオと戦い、民を奴隷の地から解放します。民は喜びの声をあげてエジプトを出て、荒野に向かいますが、その旅は、モーセにとって、忍耐の連続でした。救出された民にエジプト軍が追ってくると彼らは言います「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。」(14:11)。神は海を二つに分けて民を助け、エジプト軍を滅ぼしました。
・食べ物がなくなると彼らは不平を言いました「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(16:3)。神はマナを与えて彼等に食べさせました。マナに食べ飽きると彼らは言いました「エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、私たちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」(民数記11:5-6)。私たちも同じです。常に文句を言い、感謝を知りません。それでも神は憐れんでくださいました。
・イスラエルの民は、神の杖、神の約束だけに依り頼んで旅をするように命じられ、必要なものは与えられました。約束の地を前にして、モーセは神の言葉を民に取り次いでいます「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた・・・この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:2-4)。今日、私たちは改めて、神の約束は確かであり、その約束に依り頼んで歩く時、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足ははれない」事を知りました。昨年刊行した教会の50年誌はこのことの証しです。私たちには神の杖が、必要なものは与えるとの神の約束があります。この杖一本を持ってこの篠崎の地に、神の教会を立て上げ、宣教を続けることを、今日ご一緒に確認したいと願います。