1.イエスの昇天
・今月から使徒言行録を読んでいきます。使徒言行録はルカ福音書の続編として書かれています。ルカ福音書はイエスの昇天でその記述が閉じられています「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24:50-53)。それを継承する使徒言行録は、イエス昇天から物語が始まります。
・イエスは生前に言われました「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)。イエスが十字架に死なれた時、弟子たちは散らされましたが、やがて復活のイエスに出会い、再び集められました。そして宣教を始め、その宣教によって福音は広がって行きますが、決して順調に伝道が進んだのではありません。使徒言行録は記述を始めます「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(1:3)。復活後40日間イエスは弟子たちと共におられ、神の国について話されたとあります。
・イエスは生前に繰り返し、神の国について弟子たちに話されました。神の国は、この世の国のように、力ある者が弱い者を支配する国ではなく、「お互いに仕えあう国」であることを何度も説明され、そのために、弟子の足まで洗われました(ヨハネ13:5)。しかし、弟子たちは理解しませんでした。最後の晩餐の席上でも「誰が一番偉いのか」との議論が起こり(ルカ22:24)、ゲッセマネの園でイエスが血の汗を流して祈っておられた時には彼らは眠り込み(ルカ22:45)、イエスの十字架刑の時には逃げました(ルカ23:49)。だからこそイエスは、復活後に繰り返し弟子たちに現れ、弟子たちに教えられました。しかし、弟子たちはまだ理解出来ません。イエスが「あなた方はまもなく聖霊を受ける」と弟子たちに言われた時、弟子たちは聞き直します「主よ、イスラエルのために国を立て直して下さるのはこの時ですか」(1:6)。
・彼らはこの世の国、イスラエルの独立を求めていました。死を超えて復活されたイエスの力を見て、彼らは今こそ自分たちの希望が満たされる時が来たと期待しました。しかし、イエスは答えられます「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(1:7-8)。「あなた方がなすべきことは、あなた方が見たこと聞いたことを、ユダヤはもちろん、サマリアや異邦の人々に伝えていくことだ」とイエスは言われます。サマリア人はユダヤ人と敵対関係にあり、異邦人はユダヤ人にとっては汚れた存在でした。「自分の嫌いな人に福音を伝えよ」、それがイエスの遺言でした。私たちにとって、この言葉は何を意味するのでしょうか。もし教会の中に、自分とは違う、あるいは嫌いな人がいれば、その人のために祈れ、そうすれば、神の国は来ると言われているのです。
2.天ではなく、地を見つめなさい。
・そしてイエスは昇天されました「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(1:9)。弟子たちは不安にかられ、イエスの姿が雲のかなたに隠れてしまった後も、いつまでも天を見つめ続けていました(1:10)。「これからどうして良いのかわからない」、弟子たちは不安の中でたたずんでいました。いつまでも天を見つめ続ける弟子たちに、天からの声があります「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(1:11)。「天を見つめてイエスがいないことを嘆くのではなく、地を見つめてやるべきことをしなさい」という声に促されて、弟子たちはオリーブ山を降りて、エルサレムに戻ります。
・「地を見つめて生きる」とは、現実を見つめ、今何をなすべきかを知ることです。自分たちはまだ、サマリア人や異邦人に伝道する準備は出来ていない。否、同胞のユダヤ人にさえ、伝えることが出来ない事実を知ることでした。弟子たちが始めたことは、エルサレムに戻り、仲間と心を合わせて祈ることでした。弟子たちは、集まって祈り、約束された聖霊の降臨を待ちました。そこには、11人の弟子の他に、イエスに従ってきた男性や女性たち、イエスの母や兄弟もいました。イエスの肉親たちは、イエス在世中はイエスを神の子と信じていませんでしたが、復活のイエスに出会い、今は群れに加えられています(第一コリント15:7「キリストは兄弟ヤコブにも現れた」)。群れの中心にはペテロがいます。イエスの裁判の時に「その人を知らない」と裏切った弟子です。トマスもいました。復活のイエスの話を聞いて「自分の手をわき腹の傷に入れるまで信じない」と疑った弟子です。キリストを信じなかった者、キリストを裏切った者、キリストを疑った者たちが、今ここに集められています。みな不完全な、弱い者たちです。教会は、罪人の集まりです。その罪人の集まりに、イエスの地上の業を継承することが委ねられています。弟子たちの前途は多難でした。これから何が起こるかわからない。しかしイエスは言われました「あなた方の上に聖霊が降るとあなた方は力を受ける」(1:8)。弟子たちは「何事かが起こることを待望し、主の言葉を聞こうとして耳を澄まして」います。
3.私の持っているものをあげよう
・今日の招詞に使徒言行録3:6を選びました。次のような言葉です「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。弟子たちはイエスが十字架死の時には逃げ出しましたが、復活のイエスとの出会いが彼らを変えました。かつては自分の命を惜しんで逃げ隠れする存在でしたが、やがては「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜ぶ」(5:41)存在へと変えられていきます。その過程を描くのが、使徒言行録の記事です。ルカは記します「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日、美しい門という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」(3:1-2)。神殿で足の不自由な人が物乞いをしていました。「運ばれて来た」、人々の往来が盛んになる午後の祈りの時に神殿に連れてこられ、物乞いして生計を立てていたのでしょう。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞います。
・ペトロとヨハネは「彼をじっと見て、『私たちを見なさい』と言った」(3:4)。以前のペテロであれば無関心に通り過ぎていたでしょうが、復活のイエスから新しい命をいただいた今は違います。この足の悪い人は毎日神殿の門の所に運ばれてきて荷物にように投げ出され、夕方に誰かが迎えにこない限り、そこから動くことも出来ない。彼は重い荷を背負っていました。ペテロとヨハネはイエスが他者の荷を担われたように、この足の不自由な人の重荷を担いたいと願い、「じっと見て」声をかけたのです。
・物乞いの男は期待して二人を見ました。何かもらえると思ったからです。しかしペテロは彼に思いがけないことを言います「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:6)。ペテロが手を取って彼を起こすと、歩けなかった男が歩き始めました。「イエス・キリストの名」が生まれつき足の悪い人を起こした、生き返らせたのです。男は想像もしなかったような良いものをいただきました。
・周りにいた人々は、「それが神殿の美しい門のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた」(3:10)。ペテロは人々に、何故驚くのかと言います「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか・・・あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(3:12,16)。
・今、新型コロナウィルスの感染拡大により、日常生活が壊され、人々は困窮しています。災害はすべての人に同時に起こりますが、その被害をより重く受けるのは、この世で小さなものとされた人々です。営業自粛要請により店を閉じて売り上げがなくなった自営業の人びと、派遣で働いていたが解雇や雇い止めをされて収入や住むところさえも失くした非正規労働者たち、学校給食がなくなって十分に食べることの出来なくなった子供たちがいます。また感染リスク防止のために、日雇い労働者や路上生活者へ炊き出し等が休止され、食べるものにも事欠く人々もいます。政府や自治体は様々の支援を行っていますが、その救済の手が届かず、倒産や破産や廃業の動きが広がっています。
・私たちに何が出来るのでしょうか。教会には「金や銀はありません」。しかし教会は「イエスの名の力」を持っています。「キリストに従う人々」がいます。社会が悪い、誰が悪いと非難するのではなく、「自分には何ができるのだろうか」、「何を為すべきだろうか」と考える人々こそ、キリストの弟子であり、教会の宝です。工夫すればいろいろなことが出来るでしょう。例えば、今回全国民に支給されるコロナ特定給付金の十分の一を献金して食品を購入し、付き合いのあるセカンド・ハーベストに届け、その団体を通して、困窮の人びとに食品を届けることはできるでしょう。その他にも、一時的ではなく継続して行える支援もありうるでしょう。教会とはイエスの業を継承し、天上に今もおられるイエスの存在と働きを、この地上で為していく共同体なのです。