1.イエス、ガリラヤで弟子に現れる
・ヨハネ福音書を読み続けてきました。今日が最終回で、ヨハネ21章を読みます。そこには復活されたイエスが弟子たちと共に食事をされたことが記されています。ヨハネ福音書そのものは20章で終わっており(20:31に終わりの言葉があります)、聖書学者は、21章は後代の編集者が付け加えたと考えています。編集者は20章の次に、この21章を付加したのでしょうか。それはイエスの死と復活で、すべてが終わったのではなく、復活のイエスの委託により、宣教の使命が弟子たちに継承され、新しい出発点に立ったことを示すために、書き加えられたと思われます。
・ヨハネ21章は、エルサレムで弟子たちの前に現れた復活のイエスが、三度目にガリラヤにおいて弟子たちに現れたと書き始めます。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、弟子たちに御自身を現わされた。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、『私は漁に行く』と言うと、彼らは、『私たちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」(21:1-3)。エルサレムでイエスから宣教命令を受けたはずのペテロたちが、今は故郷ガリラヤに帰り、漁師に戻っています。
・弟子たちは、故郷であるガリラヤに戻って、そこで伝道を始めました。しかし、何も取れません(21:4)、何の成果も上がらなかった。弟子たちは失望し始めます。イエスの復活は、絶望した弟子たちを立ち上がらせる契機にはなりましたが、まだ彼らは半信半疑でした。自分たちが見たのは幻ではなかったのか、本当にイエスは復活されたのか、復活されて私たちに伝道の使命を与えられたのであれば、それなりの成果が出るはずではないか、そのような疑問が次から次に弟子たちの胸中に押し寄せました。「自分たちは何をすればよいのだろう」、彼らは元々ガリラヤの漁師でした。不安な心を静めるために、再び漁に出ることにしました。
・ペテロたちは漁に出ました。漁に最適な時間は夜中です。彼らは舟を出し、夜通し、網を打ちましたが、何の収穫もありませんでした。心も体も疲れ果てて、彼らは岸に向かって戻りかけています。その時、一人の人が岸に立ち、「子たちよ、何か食べるものはあるか」と彼らに呼びかけました。「働きの収穫はあったか」と聞かれたのです。朝早く、漁から帰る船の魚を買うために仲買人が岸辺に来る。弟子たちはその人が仲買人と思い、答えます「ありません」。あたりは暗く、その人の顔は見えません。その人は弟子たちに言います「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ」(21:6)。弟子たちはだめで元々と思い、網を打ったところ、網を引き上げることの出来ないほどのたくさんの魚が取れました。
・弟子たちは、初めは、岸に立ち、声をかけた人がイエスだと分からなかったようです。しかし愛弟子と呼ばれたヨハネは気づきました。「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟に戻って来た」(21:7-8)。ペトロの後ろから、多くの魚を積んで重くなった舟が続きます。岸に着くと、彼らは網を下ろし、イエスと共にパンと魚で食事をとります。
・ヨハネは記します「陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く取れたのに、網は破れていなかった」(21:9-11)。弟子たちにとって、この日の会食は忘れられないものになりました。後に教会は自分たちのシンボルとして「魚」を選びます。「イエス・キリスト、神の子、救い主(イエスス・クリストス・セオウ・フイオス・ソテール)」の頭文字を並べると、魚(ギリシア語ΙΧΘΥΣイクスース)となります。「魚」はイエスを表わすと共に、イエスが与えて下さった食事のシンボルでもありました。復活されたイエスと共にパンと魚を分け合って食べた、「主の晩餐」を主と共にいただいた。それを記念して魚を自分たちの共同体のしるしにしたのです。
2.復活に生かされた生活
・弟子たちはエルサレムで、復活のイエスに出会っています。そして、イエスの指示でこのガリラヤに来ました。それにもかかわらず、イエスの到着が予定よりも遅くなると、不安になり、自分たちが出会ったイエスは幻ではなかったのかと思い始めます。人間の信仰とはこの程度のものです。復活のイエスに出会って感激する。しかし、感激はすぐにさめ、やがて、不信に囚われてしまう。私たちの生活もそうです。神が私たちを養って下さると信じていても、実際に失業してみると、「これからどのように暮らしを立てれば良いのか」と悩み始めます。
・今コロナウィルス感染拡大による営業自粛や外出自粛で、飲食店やホテル・旅館等は売り上げが半分や三分の一になり、家賃や給与が払えなくなり、事業継続が難しい状況に追い込まれています。個人でも解雇されたり、給与が減ったりで、明日の生活の目途が立たない人も出ています。国や自治体も様々の支援制度を打ち出していますが、手続きに時間がかかり、今日・明日の資金繰りにも窮迫し、心が折れ始めている人も出ています。「主は本当に私たちを養ってくれるのか」、信仰者の中にも疑う人も出てくるでしょう。信仰がまだ私たちの生活を規定していない、これが私たちにとって最大の問題です。弟子たちもそうでした。イエスが復活されたことがまだ弟子たちの生存を変えるまでの出来事になっていなかった。だからイエスが再び来られたのです。
・4月22日付で、所属の日本バプテスト連盟から、「新型コロナウィルス感染拡大に伴う緊急財政支援」の連絡がありました。多くの教会は4月から会堂での礼拝を休止し、それに伴い、献金収入が減少し、維持管理費用や牧師給の支払いが難しくなっている教会・伝道所が出始めていることに対応するものです。私たちの教会も財政が厳しくなっていますが、まだ持ちこたえています。「主は本当に私たちを養ってくれるのか」と問わざるをえない難しい局面になり始めています。教会の信仰力が問われる時です。
3.復活の主に励まされて
・今日の招詞にヨハネ21:17を選びました。次のような言葉です「三度目にイエスは言われた『ヨハネの子シモン、私を愛しているか』。ペトロは、イエスが三度目も『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます』。イエスは言われた『私の羊を飼いなさい』」。復活のイエスはガリラヤで弟子たちに現れ、共に食事をされました。食事の後で、イエスはペテロに聞かれます「あなたは私を愛するか」(21:15)。ここで、愛すると言う言葉に「アガパオー」が用いられています。「アガペー」の動詞形です。ギリシャ語の「愛」には、アガペーとフィリアがあります。アガペーとは神が人を愛する時の絶対的な愛、フィリアとは人間相互の相対的な愛を指します。イエスはペテロに「私があなたを愛したように、あなたも私を愛するか」と聞かれているのです。それに対してペテロは「私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えます。ここでペテロは「フィレオー」と答えています。フィリアの動詞形です。「私は人間の限界内でしかあなたを愛することは出来ません」とペテロは答えています。
・ペテロは自分が捕らえられそうになった時、三度イエスを否認しました。このイエスを裏切った出来事は、ペテロの心の中に重い罪責として残りました。人間の限界を知ったペテロは、「どんなことがあってもあなたを愛します」と答えることは出来ません。ですから「アガパオー」と問われるイエスに、「フィレオー」としか答えることが出来ません。二度目にイエスは問われます「私を愛しているか」。依然として、「アガパオーとして愛するか」と問われています。そのイエスにペテロは「フィレオーとしてしか愛することは出来ません」と答えます。三度目にイエスはたずねられます「私を愛しているか」、ここで「愛する」は、「アガパオー」から「フィレオー」に変えられています。「あなたは私が好きか」とイエスは言葉を変えられました。このイエスのやさしさにペテロは崩れ落ちます「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを好きであることをあなたはご存知です」(21:17)。「私が弱さゆえにあなたを裏切ったことをあなたはご存知です」とペテロは罪を認め、告白しています。
・大祭司の屋敷で、怖くなって、三度「イエスを知らない」と言ったペテロ、そのペテロに三度、「私を愛するか」と迫られるイエス、ここに裁きがあります。その裁きがペテロを罪の告白と悔い改めへと導きました。罪は罪として裁かれなければいけない、その裁きの上にこそ赦しがあります。イエスは私たちを罰するためではなく生かすために裁かれます。罪は無条件に赦されてはいけない。罪を罪として認める、そこに初めて赦しが成立します。ですからイエスはペテロに言われます「私の羊を飼いなさい」。
・イエスは「あなたは私を愛するか」と問われます。イエスは挫折した者を捨てられない。むしろ挫折によって自分の無力を知った者にこそ、神の業を託されます。この赦しと委託から、悔い改めが生じ、その悔い改めが罪責感からの立ち直りをもたらします。ペテロも「私の羊を飼いなさい」という言葉により赦され、「従いなさい」という言葉により、新しい役割を担って立ち上がりました。全ての人は罪人であり、その中に弱さと愚かさを持ちます。自分がそういう存在であることを知って泣き、それでも神は受容して下さることを知って、人は新しく生きる者になります。キリストの愛は、もう一度やり直すことを認める愛です。教会はそのような失敗者が集まる場所です。教会は罪の赦しと委託の上に立てられています。「赦されたのだから、赦しなさい」。「愛されたのだから愛しなさい」、「心が折れている人のために、何ができるかを考えなさい」と問われています。