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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年4月11日受難日礼拝説教(ヨハネ福音書19章28-37節、「成し遂げられた」)小林亜矢子

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本日はこのような時に、未熟な者に機会を与えていただき、心から感謝します。お祈りします。

この3ヶ月ほど、私たちは新型コロナウィルスの感染拡大の中で、重苦しい不安と焦燥の中で暮らしています。ニュースであの丸いコロナマークを見ると嫌な気分になり、感染者数、死者数といった日々増えていく数字を聞かされると、悲しみや怒りが湧いてきて、苛立つことがあります。外出せず家に留まる人も、変わらず出勤せざるを得ない人も、共に疲れを覚え、明日の不確かさに心が揺らいでいます。お店に行っても欲しい商品はなく、経済的な不安も日々、切実になってきています。道で誰かとすれ違う度に「もしや無症状の感染者ではないか」と疑ってしまう、そんな経験はおありでしょうか。感染症に限らず私たちは様々な物差しで人を区別する世の中に生きています。生産性の有無、仕事の能力、外国にルーツを持っていること、空気を読めるかどうか、そして特に日本では「毎週礼拝する信仰者」は一種の変人に分類されるかもしれません。

 

ヨハネによる福音書が書かれた時代のキリスト者たちも、似たような状況に置かれていたと思います。ローマ帝国の支配下で要求された「皇帝崇拝」に従わないユダヤ教徒やキリスト者たちは、ローマににらまれていました。ユダヤ教徒たちの中には帝国支配に武装抵抗する動きがありましたが、キリスト者たちは、イエスの非暴力に倣ってこの動きに加わらなかった。十字架で死刑になったイエスを救い主と信じ、礼拝の主役であると考えることは、ユダヤ教徒にとって、唯一の神を冒涜する行為でした。その意味で、この時代のキリスト者たちは両陣営から「不信仰な冒涜者」として扱われ、迫害の対象でした。町を自由に出歩くことは危険を伴ったかもしれません。日々、抑圧と社会不安が増すことへの恐れや、明日への心配を抱えて暮らしていたでしょう。

 

さて、イエスが十字架につけられたのは、金曜日の朝9時でした。十字架刑は両手両足を木の杭に釘付けにして、十字架を立てます。そのため、釘付けられた両手両足に全体重がかかり、釘を打ち込まれた傷口は燃えるような熱を生じ、頭は充血し、数日間生死をさまよった後,衰弱死します。十字架刑はローマ帝国が奴隷や反逆者にだけ課した最も残虐な刑罰でした。十字架につけられた罪人は、出血と熱と疲労で激しい渇きを覚えます。イエスは十字架につけられて6時間後、「渇く」と言われました。兵士たちは、酸いぶどう酒を海綿に含ませ、葦の棒の先につけて、イエスに飲ませます。イエスは、このぶどう酒を飲まれると、「全ては終わった」と言われ、息を引き取られたとヨハネは記します。

 

本日与えられました箇所からは、イエスが十字架についた後も、人々とのコミュニケーションがあることが見て取れます。イエスが「渇く」(28節)と言った声を聞いた人がいて、恐らくローマ兵のための渇きを癒すための飲料だった「酸いぶどう酒」を差し出します(29節)。イエスは「成し遂げられた」と言って、息を引き取られます(30節)。この言葉をいちばん近くで聞いたのはイエスとともに十字架にかかっていた二人の人でした。この二人は足を折られる(32節)まで生きていたと思われますが、イエスの足は折られず、代わりにわき腹を刺されると「すぐ血と水とが流れ出た」(34節)。この「血と水」から主の晩さんとバプテスマという、教会が現在まで連綿と守り続けている二つの恵みを連想する方もいます。

 

この箇所で2回「聖書の言葉が実現」したと書かれています(28,36節)。これは福音書記者が、この出来事に対して意味づけをし、注釈をつけたのではないかと言われます。記者は35節では直接、熱い思いを吐露していますが(19:35「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」)これは、福音書の朗読を聞く人々、つまり日々、迫害にさらされて不安を抱える人々を励まし力づけるために、思わず書き込んでしまったのでしょうか。「聖書の言葉」と言っているのは律法のことで、新共同訳が「実現した」と訳している部分はイエスの言う「成し遂げられた」と同じ単語が使われています。では何が実現し、何が成し遂げられたのでしょうか。

 

イエスは十字架上で7つの言葉を残されたと福音書は伝えます。最初の言葉は、自分を十字架につけるローマ兵のための赦しの言葉です。イエスは彼らのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られました。次の言葉は、共に十字架につけられた罪人のためのとりなしの言葉です。悔い改めた罪人の一人にイエスは言われます「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。そこにはイエスの母もいました。イエスは母に付き添うヨハネに「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:27)と言われ、母の今後を委ねられました。最初にイエスは、自分を殺そうとする兵士のために赦しを求め、次に共に十字架につけられた罪人のために執り成され、そして、歎く母親の今後を弟子に頼まれました。この前半の三つの言葉は、正に神の子としての言葉です。イエスは十字架で苦しまれながらも、他者のために祈られたのです。

 

今日、私たちが注目したいのは、この前半の三つの言葉ではなく、それに続く後半の四つの言葉です。十字架につけられて6時間が経過し、苦しみが極限に達した時、イエスは父に向かって叫ばれました「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)。「わが神、わが神、何故、私を見捨てられたのですか」と言う意味の言葉です。「この苦しみを早く取り除いて下さい」とイエスはあえぎながら、神に求められます。そして、激しい苦痛と多量の出血のために、イエスは激しい渇きを覚えられ、叫ばれました「苦しい、渇く」。酸いぶどう酒が与えられ、しばしの休息の時が与えられ、そして最後の時が来ました。イエスは「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)とつぶやかれ、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って息を引き取られたと各福音書は伝えます。

 

感染症に限らず、何かひどい災害や事件が起こったときなど「神がいるなら、なぜこんなことが起こるのか」と問う時、まさにその瞬間に神ご自身とイエスが働いています。そしてイエスは私たちを友と呼び、「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」(15章17節)と、私たちにも働きを担うように誘っているのです。弱くされている人に寄り添い続けたイエスは今も世界中で、人々に伴い、苦しみや悲しみをともにしています。

 

19章26、27節でイエスは十字架の上から「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」と呼びかけます。イエスに呼びかけられた時、血縁ではない人が家族になりました。今、イエスが十字架から、私たち一人ひとりにも呼びかけていないでしょうか。「御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母(父)です」と、イエスがご自身の命をかけて呼びかけていると私は感じます。昨今の、目に見えないウィルスを恐れて人のつながりを失いつつある世の中で<友よ。よろしく頼む>と言われているとしたら、あなたの家族になるのは誰でしょうか。

 

人生の最大問題は死です。死が全ての終わりと考える人は、今を楽しむしかなく、その場合、人を押しのけてでも、自分の現在の生を楽しもうとします。死が全ての終わりだと考える人が多い社会は弱肉強食の社会になり、強い者が勝ち、弱い者は破れ、その破れが人生の苦しみとして現れます。しかし、強い者もやがて破れますから、そこには平安がありません。しかし、死が終わりではなく、そこから新しい生が生まれることを知る者は、どのような生を生き、どのような死を迎えようと、希望は揺るぎません。「私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」(イザヤ49:4)と思える時にも、「私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」と言いきることが出来ます。イエスの十字架死に絶望した弟子たちが、復活のイエスに出会って教えられたのは、そのことです。十字架の絶望があったからこそ、復活の喜びがあった。最も暗い十字架が、復活の朝の始まりであった。イエスの生涯の終わりが、私たちの救いの始まりとなる出来事が起きました。十字架こそが、私たちの信仰の原点であることを、今日の受難日に覚えたいと思います。

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