1.弟子の足を洗うイエス
・ヨハネ福音書を読んでいます。今日はヨハネ13章「最後の晩餐」の記事です。マルコやルカの福音書は最後の晩餐で、イエスが弟子たちと共に「主の晩餐式(聖餐式)」を行われたことを伝えています。ルカ福音書によれば、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われます「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)。また杯を取り、言われます「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。教会はこの最後の晩餐を記念して、主の晩餐式を礼拝の中で行います。
・しかしヨハネ福音書には、主の晩餐式の制定記事がなく、最後の晩餐の席上でイエスが弟子たちの足を洗われたという記事があるのみです。イエスはなぜ弟子たちの足を洗われたのでしょうか。ルカによれば、主の晩餐式の後、弟子たちは食卓に座る席次のことで争いを始めています「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」(ルカ22:24)。それに対してイエスは語られます「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者はどちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22:26-27)。仕えることを弟子たちに身をもって教えるために、イエスは自ら弟子たちの足を洗われたのです。
・ヨハネは記します「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(13:1-2)。イエスは最後の時が近づいたことを意識しておられます。他方、弟子たちは何も気づかず「誰が偉いか」を議論しています。弟子の一人イスカリオテのユダの心の中にはイエスに対する不信感が高まっています。その中で緊張をはらんだ最後の晩餐が始まります。
・通常、家に入る時には、その家の奴隷が、水を汲んで客の足を洗います。しかし食事の家は借りた家であり、足を洗ってくれる人はいません。弟子たちは席順のことで争い、他の人の足を洗うどころではありません。だから、イエスが水差しとたらいを取り、弟子たちの足を洗い始められたとヨハネは伝えます。「イエスは、父がすべてを御自分の手に委ねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取り腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」(13:3-5)。弟子たちはびっくりします。奴隷がやるべきことを先生であるイエスがされたからです。
・ペトロは当惑します「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」(13:6)。それに対してイエスが答えられます「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(13:7)。「後で、」十字架と復活の後での意味でしょう。しかし今のペテロにはわかりません。ペトロは畏れ多くて、先生に足を洗ってもらうことなどできないと言います「私の足など、決して洗わないでください」(13:8)。それに対してイエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる」と答えられます。ペテロは慌てて「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言い直し、それに対してイエスが「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と答えられます(13:10)。
2.あなた方も洗い合いなさい
・イエスが自ら弟子たちの足を洗ったのは、「互いに仕え合う手本を弟子に見せるためだった」とヨハネは記します。イエスは言われます「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を「先生」とか「主」と呼ぶ。そのように言うには正しい。私はそうである。ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにした通りに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(13:14-15)。
・足を洗うとは奴隷が行う行為、目下の者が目上の者に対して行う行為です。その行為をイエスは弟子たちに対して為された。イエスはユダの足をも洗われた。そのユダはやがてイエスを裏切り、祭司長に売り渡すために部屋を出ていく存在です(13:30)。イエスはおそらくユダの中にあるつまずきを感じておられ、洗足を通してユダの悔い改めを期待されたのでしょう。イエスはペテロの足を洗われました。そのペテロはやがて「イエスを知らない」と三度否認する存在です(13:38)。イエスはペテロの弱さをも知っておられた。他の弟子たちも同様です。彼らはイエスが捕らえられると逃げ出し、イエスが十字架に処せられた時は誰もそこにいませんでした。罪の故か、弱さの故か、やがて裏切るであろう者たちの足をイエスは洗われた。それが「イエスが示された愛だ」とヨハネは語ります。イエスの愛は、躓く者、裏切る者を最後まで愛しぬく愛です。それは見返りを求めない愛、アガペーの愛です。
3.互いに愛し合いなさい
・今日の招詞にヨハネ13:34‐35を選びました。洗足に続く最後の晩餐でのイエスの言葉です「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」。「愛し合う」という言葉には、「アガパオー」というギリシア語が用いられています。「アガペー」(愛)の動詞形です。本田哲郎はこのアガペーを「愛する」と訳したことに、誤りがあると言い、愛の代わりに「大切にする」という言葉を用います。
・「敵を愛せ」とイエスは言われましたが、私たちは嫌いな人を愛することはできません。私たちの愛は感情であって、私たちには制御できないからです。しかし嫌いな人でも「大切にする」ことはできます。それは感情ではなく、意思の問題だからです。本田哲郎はヨハネ13章34節以下を次のように訳します「私はあなたたちに新しい掟を与える。互いに大切にし合いなさい。私があなたたちを大切にしたように、あなたたちも互いに大切にし合いなさい。あなたたちが大切にし合うならば、そのことによってあなたたちが私の弟子であることを、みんなが納得するようになるだろう」(本田哲郎「小さくされたものの福音」)。
・イエスが弟子たちに行った愛は、相手の足を洗うことでした。それは主人が奴隷になることを意味します。イエスはユダの足も、ペテロの足も洗いました。自分を裏切る、あるいは自分につまずく者たちの足を洗われたのです。ここに無条件の赦しがあります。イエスが示されたことは「互いに足を洗い合う」行為の意味です。それは互いに重荷を担い合い、仕え合うことを私たちに求めます。
・説教者・森野善右衛門氏は語ります。「哲学者のニーチェは『キリスト教は奴隷的な屈辱の道徳を教えるものである』と非難しましたが、それは的外れの批判です。確かに洗足は奴隷の仕事でしたが、イエスご自身がそれを為し、弟子たちにもそうするように手本を示されることを通して、それは強制的屈従の行為ではなく、隣人に対する自由と愛の行為であることを示されたのです。力は他を支配し、屈従させるためではなく、他に仕え、他の必要を満たすように用いられた時に真に有用なものになります。この両者を混同したところにニーチェの誤りがあったのです」(現代聖書講解説教から)。そして彼は語ります「ニーチェの主導する君主道徳論は後にナチズムの思想的基盤の一つになりました」。
・この洗足の出来事に象徴されるイエスの生き方こそ、私たちをイエスに惹きつけます。イエスの十字架が何故私たちの救いになるのか、それはイエスの十字架の犠牲によって私たちの罪が赦されたという、贖罪の秘蹟(サクラメント)が行われたからではありません。そうではなく、唯一無比の赦しがそこで為されたからです。イエスは最後の晩餐の席では自分を裏切ることを承知の上で弟子たちの足を洗われ、十字架上では自分を処刑する者たちの赦しを神に求められました(ルカ23:34)。ここに最大の奇跡が行われました。
・復活後のイエスは自分を裁いた者、自分を処刑した者の所に報復に行かれず、逆に自分を捨て去った弟子たちを訪ね、「あなたがたに平和があるように」と祝福されました。その場に不在で復活を疑ったトマスのためには再訪され、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語られます。この言葉を受けて、トマスはイエスの前に跪き、「私の神、私の主」と叫びます(20:18)。これまで人間が知ることのなかった絶対の赦しがここにあり、それを知った人々は悔い改め、そこに救いが生まれます。自分の無力さを知り、悔い改めた人には赦し(救い)が与えられます。私たちは自分しか愛せないし、良いことをしようとしてもできない弱さを抱えています。それを知った上で、私たちを愛し、受け入れて下さる方がおられる。その方は、死なれたが復活され、今私たちと共におられる。これこそが福音、良い知らせなのです。